本の処分  (2004.4.10)

 前にも書いたけど、準活字中毒なところがあり、本もどんどん買う。困るのは本の置き場所と処分。
 20年くらい前は、大事にしたい本は、図書館のように表面を透明シールで保護していた。合計百冊以上はやったので、すっかり貼るのも上手くなったもんだった。(遠い目・・・)
 でも、この先も手放したくないと思っていても、後になって「もういいや」っていう事もあるし、そもそもそんなことをしていたら本であふれかえってしまう。それで泣く泣く(別に泣きはしないが)処分することになる。

 処分する場合は、もちろんほとんどは古本屋行き。なるべく高く売れる方法をとる。専門書の場合は、専門書を扱っている古本屋が一番。特に理工学関係は、その専門の古本屋で高く売れる。時には驚くほど高く売れる。文庫本なんかは、捨てるよりはましという値段ですね。また、最初に書いたような保護シールを貼った本は、古本屋側はイヤがったりする。

 以前、近くの図書館に、本を引き取ってもらえないかと電話をしたら、もうダブついてしまって新たには必要ないと言われた。その図書館には置いてない本もたくさん持っていたし、そもそもそんなに蔵書の豊富な図書館ではない。要するに引き取っても場所がいっぱいいっぱいだし、処理作業に手が回らないと言うことなのか?引き取りを拒否する図書館は、意外に多いようである。

 処分するときは、いつも慎重に選んでいるつもりである。でも、「おいおい!あれ処分しちゃったのかよぉ;;;」と後になって気づいたり、もう一回見たくなったけどすでに絶版でお手上げというのも多い。間抜けなことに、後で必要になって、いったん売った本と同じ本を、売った古本屋で買ったこともある^^;;。
 絶対に処分するはずもないのに、どこにも見あたらない神隠しにあった本も少なくない。まぁ、売っちゃったんでしょうけど^^;。


キーボード改造大作戦  (2004.4.14)

 現在使っているパソコンデスクは、木工自作である(ここ参照)。買った方がはるかに安いのだけど、気に入ったのがなかったし、作りたかったのだ。^^; どうせやるんだったら木造
で、と言うことで、木造建築よろしくオールヒノキ作りにすることにした。

 作る上で難点は、パソコンの機材のひとつひとつがでかいこと。スキャナーはA3用で、もちろんプリンターもA3対応。おまけにモニタはブラウン管である。画像を主に扱うので、液晶では具合が悪い。なので、デスク自体の重さを加えたら、合計100キロを軽く支える位でないと危うい。
 建築でもそうだけど、鉄筋コンクリートのほうが強度が強いかというと、全然そんなことはない。同じ重さの木とコンクリートだったら、木のほうがはるかに強い。(もちろん木によるけど)おまけに構造体の重さ自体が木のほうが軽い。そして何より、木造建築は千年以上持ちこたえている実績があるけど、理論上は強いはずのコンクリート建築は、手抜きでなくても、とても100年ももたない。

 木工・木造の神髄というのは、分解修理ができるという事だと思っている。だから、良いものだったら数百年数千年ともつ。現存する世界最古の木造建築である法隆寺を始め、日本には世界的に飛び抜けて長期間現存する木造が多いが、それは、木造技術の高度さに加えて、定期的に分解修理をしているからである。ただ単にそのまま建っているだけだだったら、とうに朽ち果ててしまっているだろう。バイオリンなどの木の楽器が数百年現役で使われているのも、分解修理が可能だからである。
 なので、そんなに何十年も使うわけはないけど、こだわって分解・組み立て可能な木工デスクを作ることにした。おそらくは必要ないのだと思うけど、若干の不安もあるために、一部補強金具を使っているが、釘や接着剤の類は使わない(木ねじは使っている)、組み立て式のデスクである。

 ご存じのように、パソコンデスクは異常に安い。しかも定価の半額近くというのも多い。だから、木工なんかで自作するとはるかに高くつく。デスク自体は、毎日手彫りで少しずつ、組み木の部分を切ったり彫ったりしていたため、10日前後かかっている。
 それ以前はコンパクトPCだったため、市販の小さめのデスクを使っていたのだけど、やっぱり木の机はいい!完成後は、そのまま何の支障もなく使っていた。その間、キーボードにいろいろこだわったりした。
 最も使用する入力装置であるキーボードなのに、なぜかかなりないがしろにされてるような気がして、もっと使いやすい疲れないキーボードはあるだろうと。最初のうちは、キーボードが真ん中で左右に開いたようになっている、キーボードを使っていた。これだけでもかなり疲れは違う。おまけにはるかに打ちやすい。
 ここからが悪い癖で、もっとおもしろいキーボードもあるだろうとあちこち調べて見つけたのが、輸入品のもの。完全に左右に分かれていて、設置の仕方は自由。それを1年ほど使っていたのだけど、最近あるPC雑誌で、キーボードの高さについて考察しているものがあった。通常の規格の高さの机の上に、さらにキーボードを置くと言うことは、位置が高すぎると言うことなのだ。キーボードは奥へ行くほど傾斜が高くなるものもあるけど、先のほうが高いために、長時間使っていると指先から血が引いていってひどく疲れると。そして、そのこだわっている人のキーボードは、触感改善のためにキートップに革を貼っていた。う~む・・・、これはいい! これは作らねば、、、。と、言うことで、今度はキーボードを改造することにした。

  詳細は省くけど、できあがったのは、前述のキーボードをバラして机に埋め込んだもの。キートップにはもちろん革を張った。こんなもの作る人はほとんどいないと思うけど、革を貼るだけでかなり違います。安い革で十分なので、お試しあれ。薄い革を買ってきて、キートップの長方形に切り、角を落として両面テープで貼るだけ。それだけでも、いちいちやらんて?^^;;。
 キーを埋め込んだことで、打つ位置が低くなり、革のキートップで食感も良くなって指先に跳ね返ってくる反動も柔らかくなって、かなり具合は良い!
 後は、モニタをもちょっと下げたいのだけど、これは大がかりな改修、と言うか、作り直した方が早いので、これは当分はやらない模様。結局はなんだかんだと、作ることに意義があったりするのだった。^^;


2012.12追記
今は全然違うキーボードを用いております。


レンタカーの乗り捨て  (2004.4.18)

 今では普通のサービスの、レンタカーの「乗り捨て自由」。あのサービスが始まったのは、せいぜい20年くらい前ではなかったかと思う。同じレンタカー屋であれば、どこの営業所に返しても良い、というもの。もちろん、通常より料金は高くなる。

 このサービスが始まった時は、盛んにCMで宣伝していたような覚えがある。で、「乗り捨て自由」という言葉を聞いて、大いに疑問だったのだ。
 乗り捨て自由って、どうやってキーを返すんだ?郵送するのか? 乗り捨てた場所を電話で通知するのか?と。

 「乗り捨て」という単語をそのまま受け取って、どんな場所でも自由に乗り捨てて良いサービスなのかと思った。^^;;
 でもこれは、勘違いしていた人、未だにそう思っている人は多いんじゃないかと思われ…。


年齢の錯覚  (2004.4.20)

 自分が10代の時、20歳過ぎの人はとても大人に見えて、30、40となったら、もう立派な中年だという感じでしたね。
 それで、自分がその年齢になってみると、全然そんなことなかったりする。こんな感覚は、誰でもが経験のあることだと思う。これは、自分が当事者だから変化の実感がないというのもあるけど、日本人全体が幼稚化しているという事でもあるのでしょう。

 さて、小学校の時の先生。みんながみんな、もうバリバリの中年だと思っていた。自分との年齢差を考えたら、それは仕方ないのだろうけど。
 ところが、今振り返ってみると、その多くは今の自分よりも年下だろうと思う。最初に新卒で就職した時、自分の教育担当の上司は、今の自分よりはずっと年下であった。でも、やはり今思い出しても、そうは思えない。^^;
 自分は割合、実年齢よりかなり若くは見られるのだけど、それを差し引いても、どうにも腑に落ちない。かなり前の世代だと、その傾向はもっと顕著で、二十歳くらいの大学生でも、今の感覚からしたら、もう立派なおじさんだったりする。そのころの写真を見せてもらっても、立派に中年の風格だったりする。

 自分自身はいつも自分と一緒なので、変化に気づきにくいと言うこともあるけど、やはり最大の要因は幼稚化かな、という気はする。海外へ行ってみても、平均寿命の短い国の人たちほど、精神的肉体的な成熟は早いように感ずる。それはある意味、寿命の長い日本人より人生の密度が濃く、精神的成熟が早い、という印象を受けるのだ。
 単純に寿命が長い方が良いのだ、とは安易に言えないように思ったりもする。なんかこの項の話の方向が、ズレていっているようにも思ったりもする^^;。


テレビは話半分以下に…  (2004.4.22)

 「カラス なぜ遊ぶ」(杉田昭栄著)という、カラスを多角的に研究した読み物を読んでいて、こんな記述があった。

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 2001年、あるテレビ局から「田舎のカラス(ハシボソガラス)と都会のカラス(ハシブトガラス)の脳は進化的に違うはずだ。都会のカラスは都会に適応してしたたかに生きている。また、100年前はこれほどカラスがいなかったが今、このように増えて問題になっているのは進化したからだ。そう考えると、脳に違いがあるはずだから、先生そこのところを語ってくれませんか」という依頼を受けました。
 もちろんわたしは、そんな簡単に脳の構造が変わるような進化はあり得ないと言って、その内容での解説は断りました。しかし、「先生の考えでよいので何とかお願いします」と言われ、仕方なく「学習によりしたたかに生きる能力を身につけていたカラス」という趣旨で解説しました。
 ところが1枚貸したカラスの脳の写真が改ざんされ、あたかも都会のカラス(ハシブトガラス)と田舎のカラス(ハシボソガラス)に脳の構造変化が生じ、進化が構造的にあるように放送されたのには驚きました。番組にもよるのでしょうが、テレビは話半分、いや、それ以下と思って見るのがよさそうだとつくづく学習したわたしでした。
 ある生物の脳の構造がそんなに簡単に変わったら、大変です。たとえばCTスキャンのような断層撮影で診断してみたら、50年前のヒトと今のヒトの脳の断層写真で構造が変わっていることを仮に想像してみてください。医者は混乱に陥ります。
 生物は、気の遠くなるような長い時間をかけて今日まで進化してきているのです。たかだか100年で脳の構造が変わるなんて、突然変異でもない限りは起こりえないわけですから、まったくもって乱暴な企画でした。

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 日本テレビの「特命リサーチ2000」でこんな内容のものを見た記憶があるけど、あれがそうだったのかなぁ?
 あらゆる面で、今のテレビ制作はレベルが下がり、制作者のプロ意識もなくなり、ひどい作りが多くなったと思っていたけど、ここまで事実をねじ曲げてまで作るか?


平均寿命  (2004.4.24)

 もう今や男女とも、日本の平均寿命は80歳を超えている。

 大阪で就業していた1985年頃のこと。仕事の合間に、自分の教育担当であった課長代理が、新聞を見ていた。そこには男の平均寿命が、74歳を超えたという記事が載っていた。

 当時37歳だった課長代理がボソッと、
「え~~!まだ倍も生きなあかんの?^^;;;」


勝ち組・負け組  (2004.4.26)

 「勝ち組」「負け組」という表現がなされるようになってから久しい。ハッキリ言って、とても卑しい表現だと思っている。何をもって、勝ち負けを決めているんだ?というのもあるが、割合からすれば、圧倒的に負け組の方が多いはず。
 本来は無用な競争をあおり立てて、経済が発展する代わりに失ったものが多かった社会を経験してなお、まだ懲りずに「勝ち負け」で生き抜くことを奨励しているのか?もっと違う、ほんとうに幸せになれる生き方はあるだろうに、と思ってしまう。甘いだろうけど。
 向上するというのと「勝ち負け」は違うことのはずで、本当に自分が勝ち組になれるとしたら、その分たくさんの負け組も作ることであって、どんどんひずみを生んでいくはず。単に、同業種の他社や他人を打ち負かすのではなく、ある種の協力と調和が必要なのだ、という方向に、だんだんとなっている部分は多いと思うのに、その一方で、より以前より勝ち負けがとやかく言われているような気がするのだけど…。
  まぁわかっちゃいるけど、現状ではそういう風にするしか、収入を得る生き方ができない社会である、という点もあるのでしょうが。

 先日、名刺作成ソフトで「勝てる名刺」というのがあるのを知った。機能その他もろもろでは、結構使えるソフトだな、という感じではあるのだけど、どうにもこのネーミングがいやらしい。このソフトを使うことで、名刺作成に差をつけられる、というのと、これで作った名刺を使うことで差をつけられる、つまり「勝てる!」という意味にかけているようだけど、やっぱり卑しいネーミングに感じる。

 経済社会を勝ち残る時のたとえに、野生動物社会での「弱肉強食」が言われたりしていた。でも、 野生の世界は決して弱肉強食ではなく、生物学の世界では、その辺は大いに見直されているのに。


やけどに耳?  (2004.4.28)

 小さい時から、主に漫画を見ていて、なんでだ?と思っていたことがある。熱いものにさわった時、「あちっ!!」っと言って、その手で耳たぶをつかむという行動。そういう漫画が多かったのだけど、実生活でそんな人はまず見たことないし、自分でもそんなことはしない。
 でもある時、実写のドラマの中でそういう行動を目撃したことがあって、「え?」と驚いたのだった。

 何ゆえにこういう行動をとるのかと言えば、「あち!」っと反射的に手を挙げて、ちょうどつかみ所の良いところに耳たぶがある、とか、手頃な温度の低いところが耳たぶである、というもっともらしい説明を聞いたことがある。でもこれはどうにも腑に落ちない。何しろ、そんな行動は今までにだって、現実には1~2度見たことがあるだけなのだ。
 自分でもそうだけど、「あちっ!!」っと反射的に手をのけて、まぁそれが耳たぶの近辺にまで及ぶものの、その手は空中をさまようのが普通だ。まずほとんどの人はそうするでしょう。
 今までに実際に見たことのある、耳たぶをつかむ人の動作を見たとき、どうもその動作が作り物くさかった印象がある。なんというか、熱いものにさわった時は、耳たぶをつかむものだ、と教えられた上での動作に見えた。つまり、刷り込まれた行動でない限り、自然にそんな風に耳たぶをつかむということはあり得ないだろう、と、思っちゃいるのだけど・・・。

 実際に、耳たぶをつかむという動作を自然にやっている人がいたら、その辺のことを是非聞いてみたいと思っている。
 と言っても、本人が自然にそういう動作をしているとしたら、理由を聞くこと自体が無意味なのだろうけど。


計算された演技  (2004.4.30)

 演劇というのは、ライブ感覚の良さもあるし、結構好きではある。あまり行く機会はないのだけど。そしてなぜか、友人に演劇をやっているのも多い。

 もう10年以上前になるけど、中央線沿線のライブハウスで、友人たちの演劇があった。普段はそれぞれ勤労していて、時間を作って演劇を続けていた。演目は、アメリカだかイギリスだかの作品で、演劇をやっていたら誰でもやってみたいモノだと言っていた。友人はモンゴルの旅仲間の一人で、普段は銀行に勤めている女性だった。

 正直言って観る前は、素人の劇団(職業でやっているのではないという意味)という先入観を持っていた。でも、徐々に引き込まれていった。一人一人が役に没頭して、全身で演じている熱意と迫力にも魅了された。

 ところが、途中で出てきた男優の演技で、ちょっとテンションが下がってしまった。舞台や客席のテンションが下がったかどうかは知らないが、自分は下がった。なんというか、ものすごく計算高い演技を感じたのだった。ほかの演者よりも一段高いというか、こういう舞台になれているという印象が強かった。
 セリフの一言一言、間の取り方、息の継ぎ方、身体のこなしや手先の動かし方など、何から何まで計算して演技しているというニオイがしてたまらなかった。彼だけが妙に余裕がありすぎる感じもあった。おまけに、その計算し尽くしている演技は上手いわけではなかった。それ以外は、とても良い舞台だった。

 舞台が終了して、楽屋に友人を訪ねた。まだテンションの上がったまんまの友人に感想を聞かれ、とても良かった、感動したことを伝えた。ただひとつ、その一人の男優の事について正直に告げた。彼の計算しつくしているような演技が鼻についた、と。
 友人は苦笑した。納得した顔で苦笑した。
「う~ん・・・、実はね、あの人、○○○○さん(誰でも知っているベテラン人気俳優)の弟で、プロの演出家なのよ^^;;;。」

 なるほど!と、妙にフに落ちるとともに、ちょっと考えさせられた一件だった。


アニメ業界の危機   (2004.5.2)

 15年ほど前、勤めていた印刷製版(レタッチ)の会社を辞めるにあたり、その仕事でフリーになるか、アニメの背景画を描く会社へ入るかの選択があった。以前その仕事をしていた同僚に勧められたのだった。背景画を描く小さな会社でいろいろ話を聞いたのだけど、あまりに条件が悪いのでそちら方面はやめた。

 先日、TBS「筑紫哲也News23」の中で、日本のアニメ業界の特集をやっていた。世界に躍進する日本アニメの華々しさとは裏腹に、その行く末がきわめて危機的状況にあるという。アニメ制作は、いくつもの分業になっていて、背景画を描いたり、動画を作成したりといろいろある。特集に登場したのは、動画を作成する部門。平たく言えば、誰でもが子供の時にノートや教科書の隅に作ったことがあるであろう、パラパラ漫画の要領である。あの変化する動きを1枚1枚描いて作っていくのだが、その単価がなんと1枚2~300円だという。
 中には複雑で一日がかりになってしまうこともあり、その場合だと一日あたりの収入が300円などの世界なのだ。時給ではなく日給である。平均でも月収は5万円ほど。決して副業ではないのだ。何故にこのようなひどい労働条件なのかと言えば、制作費が20年前とほとんど変わっていない事があるという。しかもその20年前でもきわめて安かった。
 以前、背景画方面へ誘ってくれた友人によると、某大漫画家がアニメ業界の人件費をひどく低くしたのが尾を引いているとか。それにしても、あまりにひどい。好きじゃなければやれない、という仕事は数々あれど、最低限の生活もできないほどの安さだ。

 根底にあるのは、日本では目に見えにくい「能力」に対する評価が低いと言うことがあると思う。積み上げたノウハウや能力は、誰でもが持っているモノではなく、それなりの努力の積み重ねである。天性のモノであっても、他の人にはできない特殊な能力であり、それなりの評価と報酬は得てしかるべきだろう。そういうモノに対する評価が、日本では異常に低いように思う。
 また、確かに優れた能力であるとわかっていても、それが経済効率を潤すモノかどうかが基準になっているでしょう。世界の最先端技術には、日本の職人仕事が求められているのに、日本国内では効率だけを求め、真の優れた仕事が軽んじられていて、その仕事をする環境がなくなってしまっているし。

 アニメの制作は、今どんどん韓国などへの発注が増えている。今のところは下請け仕事がほとんどだが、その経験を蓄積して花開き、逆に日本の業界がつぶれるのは目に見えている。

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