場所変えようか  (2004.3.18)

 以前、知人と飲んでいた。カウンターで左右に並んでいた。

 しばらく話しながら飲んでいて、知人が
「場所変えようか」
と言うので、「あ、そう?」と思いつつ、何も考えないまま席を立った。

 知人は「何しとんねん?」という顔でこちらを見ていた。
席を左右替わろうか?と言うことかと思った。^^;
(当然、店を変えて気分も変えようか、と言うことだったのだ^^;)


出版差し止め問題  (2004.3.19)

 ご存じのように、裁判官一人の裁量で、週刊文春が出版差し止めになった。田中真紀子元外務大臣の、長女のプライバシー記事に絡んでのこと。あまりこのコーナーで、明るくないリアルタイムの時事問題を書くのは好まないのだけど、これはあえて言いたい。

 全体的な論調としては、裁判も経ず裁判官たった一人の一存で強引に差し止めてしまっていいのか?という部分が一番の問題になっているような気がする。しかも、このような大量発行部数の出版物の出版が直前に差し止めになったのは初めてだという。「大量発行部数の雑誌」というのが問題になるのは、結局は経済的な部分であるのは間違いがないでしょう。つまり損害の大きさの問題であると。
 なんだか、結局一人のプライバシーの問題よりも、大きな経済の問題の方が大事だ、と言っているにすぎない気がする。言論の自由の問題が前面に出されているけど、そういう建前で、マスコミがどれだけ横暴な暴力を振るってきているのか、全く自覚がないのだなぁ。

 今回の記事がどういうモノかは知らないけど、政治家でもない一市民である田中真紀子氏の長女のプライバシーを暴いたモノらしい。そういうことが許されるのか?という部分の問題が小さく扱われている。どう考えたって、文春側は単に雑誌を売りたいがための記事であろう。長女が何か重大な犯罪に絡んでいて、それを暴こうとしているわけでもないだろうし。

 このようなペンによる暴力は、身体的な暴力よりもある意味悪質である。広まる範囲が半端ではなく、その後の人生を狂わせるのには十分だし。狭い人間関係の中でプライバシーが暴かれたって、人は相当なダメージを受けるのだ。職業に貴賤はない、とはよく言われるけど、個人的には、自分の利益のために正義づらをして、他人のプライバシーを平気で踏みにじる部類のマスコミは、人間のクズの仕事だと思っている。自分に子供がいる、あるいは将来できたとき、自分の仕事を誇れるか?

 今回の問題の真実がどうなのかは、現時点ではわからないけど、本当に単なる一市民であるはずの真紀子氏の長女のプライバシーを踏みにじるモノであったのなら、強引に出版差し止めをするのは正しいと思っている。そのような処置が法律上どうなのか?はともかく、一度広められたモノは、どう謝罪されてももう取り返しはつかないのだから。そのような、ペンの暴力による一般人のダメージを、どのマスメディアの論調も、軽く見過ぎてるんじゃないのか?


枕をめぐって  (2004.3.23)

 前に、寝付きの悪さについて書いたけど、枕もあれこれ試したりした。不眠症というわけでもないのに、「寝る」ということに対して必要以上の意識を持ちすぎているのは自覚している。
 いろいろな枕が出ていて、枕のアドバイザーのいる店もあるようだ。どうも自分の場合、背骨の首から頭にかけてのカーブが、ちょっと良くないらしい。おまけに後頭部がやや出ているし。以前に、整体だかカイロだかの先生に言われたことがある。確かにその通りなのだ。その先生が言うには、普通の枕はせずに、タオルを2~3枚に折りたたんだ位の厚さがいいと。で、試してみたら、確かにそれまでのしばらくは、朝起きると首が張っていたのに、それが少なくなった。
 ただ、問題なのは、仰向けに寝ている分には快適だけど、横向きに寝ると首がつらいことである。横向きの場合は高い枕の方が楽なのはわかると思う。おサムライの使うような、高枕は横向きの時はちょうどいいでしょう。あの枕はちょんまげが乱れないためのモノだったと思うのだけど、今見ると、よくこんなモノで仰向けに寝られるなぁ、と感心する。自分があんなモノを使ったら、朝には大変なことになっているだろう。いや、寝付く前につらくなっているに違いない。
 数年前、いろいろな枕を東急ハンズで見ていたとき、枕の首から肩に当たる部分に肩こりに効くという磁石を巡らせたモノがあったので、試しに買ってみた。初日、1時間も経たずに苦しくなってやめてしまった。首が収まる部分が、急激に高くなっていて、首から後頭部が突っ張ってしまって、しんどくなってくるのだ。それにしたって、平均的な枕の高さよりは、気持ち低いと思う。
 その枕は自分用ではなく、母親用に買ったのだった。昔ながらの籾殻枕を使っていたのだけど、これでは首が張って頭痛が頻繁なのは当然だ、というモノだったので。それでその磁気枕を買ってみて、試用してみたのだ。その1時間も使われなかった哀れな枕は、ずっと物置に寝ていたのだが、先日久しぶりに試してみた。やはり30分も使えなかったのだった。

 今は、その後に見つけた、枕の中の詰め物を三カ所で調整できるモノを使っている。横向きの時は低すぎるのだけど、まぁまぁではあるので。肩や首がつらいときは、以前のように大きめのタオルを折ったモノにしている。
 もう何年も、入眠儀式もかねて、寝る前には本を読んでいる。眠気が走るとスタンドの明かりを消して寝るのだが、タオルを枕にしているときは、その上に枕を置いて、それを枕に本を読み、枕を外して寝る。ここ数日は、またそんな日々の夜なのだった。


思いやりのプレー  (2004.3.25)

 卒業した高校、法政二高の遙か昔の先輩に、元巨人の柴田勲氏がいる。赤い手袋の盗塁王として、巨人のV9を支え、コーチになってからは三塁コーチとして「壊れた信号機」と揶揄された偉大な人である。^^;;

 高校は、自分の頃は一学年850人18クラス、全校2400人。野球部も大所帯だった。2年か3年の時の文化祭の時、講演会にその柴田氏がやってきた。と言っても、開かれたモノではなく、在校生・体育会系向けための講演会。
 現在は知らないけど、当時の法政二高の文化祭は、つまらない文化祭ワーストワンに輝いていた。逆におもしろい文化祭の上位には法政一高が^^;。確かにつまらないのは頷ける。学校側の規制が厳しく、生徒側が積極的に参加しているような代物ではなかったし。


卒業アルバムより転載

 さて、その講演会、前列はもちろん現役野球部員が背筋を伸ばして聞いていた。内容のほとんどは忘れたけど、話の中心を貫いていたのは、野球の中での他人に対する思いやり、についてだった。いいプレーをする、いい選手になるためには、相手に対する思いやりが大事で、それが本当のチームプレーだと。

 まず基本のキャッチボール。ただ相手に向かって投げればいいのではない。相手が捕りやすく、次の動作に移りやすいところをめがけて投げるのが大事。トスバッティングなどの練習でも、相手の練習の目的にあうところに投げてあげる。こうして、すべてが相手のことを考えた、思いやりの心が必要だと。
 実践に入っても、たとえばセカンドなどに送球するとき、やはり相手が取りやすい、またはタッチしやすいところへ投げるのが大事。この場合ならば、二塁手への思いやりである。
 勝つための行動として考えるのが普通だが、そうやって相手のことを考えた思いやりのプレーが根底にあるべきだと。

 この話は、ある意味眼からウロコだった。ただオウム返しのように「チームプレー」を言うよりも、遙かに本質的に響いてくる感じがする。柴田氏は、日本の野球の頂点を極めた一人である。やはりそこまで行った人は、、深い。


お茶漬け  (2004.3.27)

 お茶漬けと言えば○谷園。ほかにもあるらしいのだが、ほとんど印象にない。基本形のお茶漬けのほかに、さけ茶漬け、梅茶漬けなんかがありますが、やっぱり一番おいしいのは基本形。カップ○ードルが、やっぱり基本形がおいしいのと同じか?そういや、お茶漬けが苦手だとか嫌いだとか言う人は、聞いたことはない。

 さて、生まれてからこのかた、そのお茶漬けを何百杯食べたかわからない。いや、千杯以上は食べてるでしょう。いつだったかCMで、そのお茶漬けにお湯を注ぐシーンが出てきたとき、初めてあれはお湯を注ぐモノだということに気づいた。何しろ今までは「お茶」を注いで食べていたのだ。お茶漬けというくらいだから、お茶を注ぐモノだと思っていたのだし、物心ついてからそうしてた。

 で、先日生まれて初めて、お茶ではなくお湯を注いで食べた。今まで、お茶で少々濃いめのお茶漬けだったので、そのサッパリ感に感動したのだった。そんなやつ、ほかにおらんか?^^;;


葬式イベント  (2004.3.29)

 標準的な現代のお墓は、中に骨壺が10個ほど入るようになっている、と墓石業者に聞いた。だいたい平均すると、一世帯あたり20年に一人亡くなるそうだ。そうすると、200年で墓の中は満員御礼になる。ひとつの連なる家系が墓を管理できる年数は、そのあたりでちょうどいいという。
 そして、いっぱいになった後で、次に骨壺が入ることになったら、古いモノから土に返すのだそうだ。

 1998年に父親が、82で永眠したのだけど、存命中に墓所は買ってあったものの墓石を作っていなかった。それで、納骨の四十九日にはちょっと間に合わなかった。しかし墓所も墓石もなんであんなに高いんだ?(-_-) 墓石を決めるとき業者は、「皆さんいろいろ高いモノとか凝ったモノを作りたがる人がいるけど、手頃な値段のシンプルなモノが一番ですよ。そういうモノの方が長持ちもするし、手入れもしやすいです。」とも言っていた。結局一番安い価格のオーソドックスなモノを薦められて、それにした。
 よけいな飾り物のオプションもあったのだが、それも業者が薦めなかった。もちろんこちらも最初からそのつもりだったが。

 ここ数年父親関係の親戚で亡くなる人が多い。もうそういう年代になっている。自分が喪主を勤めたのは、父親の葬儀の時が初めてで、今のところまだそれだけだけど、どうにも納得のいかないことは多い。

 葬儀というのは、結構小さいときは何か妙に楽しいモノだったりする。楽しいという言い方は誤解を招く表現だけど。 人の出入りが多く、なんとなく普段と違う雰囲気に、どこかワクワクしていたり、という経験は少なからずあるでしょう。
 これが自分の家族だったりすると、大変なことになるのはご承知の通り。親族の悲しみとか、そういうことはまぁ置いといて、あの葬儀そのものだ。まず、戒名。これはどう考えても納得はいかない。自分だったらつけないでもらいたい、と言いたいところ。必要を感じないし、死んでからつけるというコンセプトも理解しがたいし、あの奇妙きてれつな金額も・・・。
 葬儀自体もどうしても必要なモノ以外が、やけに多い。絵の関係の知人が、親が亡くなったときに言っていたが、「人が死ぬとお金がかかるのよ~~~;;;」。

 最近は葬儀費用を抑える工夫や知恵が普及してきたようだけど、まず、もっと考え直した方がいいものがある。香典と香典返しの類である。こういうモノがいつの時代に発生したのかはわからないけど、最初は助け合いの精神による援助金だったのは間違いないでしょう。いや、今だって一応はそういうことになっているのだろうし。
 問題なのは、何故に香典返しをする必要があるのか?である。確かに、援助していただいた方への何かしらのお礼は、してしかるべきだろう。でも、よけいな神経を使ってあれこれ苦心惨憺して、贈り物を考えるのはなんなのだろう?おめでたい場での引き出物ではないのだから。
 知人の故郷では地域で申し合わせて、葬儀の香典は一律何千円とかと決めているそうだ。それでお返しは一切しないということになっている。これはとてもいい制度だと思う。
 葬儀などという物理的にも精神的にもハードに忙しいときに、なんで「お返し」のことまで気を回さなきゃいけないのだ?と思っていた。世間づきあいとかそういうのとは、なんか考える次元が違うし。
 葬儀一切などで忙しくしていることで、悲しみに沈みがちな気持ちを紛らわすのにもいい、と言うのも聞いたことがある。でも、「お返し」に気を遣わなければいけないのは、やっぱり違うだろうに。

 披露宴のご祝儀や引き出物は、もう双方で勝手にやってもらっていいと思う。シンプルにするもよし、見栄を張り合うもよし。でも葬儀の場合は、そんなよけいなことに神経をすり減らさなくてすむだけでも、かなり違うと思うのだが。
 参列者にしても、どういう関係だからいくら包んだ方がいいのか?などと、よけいな部分に頭を使う必要もなくなる。そんな次元のことは、葬儀の心とはかけ離れたことだと思うのだ。
 喪服ではなく、普段着に喪章をつけることで、取るモノもとりあえずやってきたのだ、というのを表すのも良い、などという社会マナー(?)のテクニックをテレビで流していたこともあった。ホントになんだかなぁ・・・・である。

 昨年暮れの親戚の法事で住職が、「最近は四十九日を終えると、それ以後一周忌さえもやらなくなるところが増えています」と言っていた。葬儀も、タダの儀式と化してきている部分があるのか?
 ひとつ覚えになっている「G線上のアリア」のBGMもちょっとなぁ・・・。
あまりにあの曲ばかりがこれでもか!とかかっているので、過剰な演出を感じてしまうのだけど・・・。


「と、言うわけで・・・」  (2004.3.31)

 中学から社会人になるまで、テレビよりはラジオっ子でした。深夜放送も好きだったけど、まぁ長くても午前3時まで。

 ラジオのDJの話術の中で、よく気になることがあった。これはラジオに限らず、ニュース番組でもアナウンサーやキャスターが同じことを言ったりする。
 CMが終わって番組に戻ったとき
「っ、と言うわけで・・・」と言うが、いったいどういうわけだ?^^


昼メロ  (2004.4.2)

 テレビの番組編成が変だと思ったら、野球シーズンへの番組改編と春休みの編成だったのですね^^;。春・夏・冬の長期休みは、子供が昼前後のテレビを大手を振って見られる時期でもある。ただ、それは休み期間中であるための、公認(?)されたもの。
 今時はどうだか知らないけど、自分が小学生くらいの時だったら、学校にいて見られるはずのない時間のテレビを見ているというのは、ちょっとワクワクするモノはあった。特に「昼メロ」。子供に見せられないようなエロいモノではなくても、なんとなくこっそり見てみたいような雰囲気はある。

 ちなみに、昼メロと懐メロって響きが似ているけど、先に知った言葉は昼メロだった。それで、懐メロという言葉を聞いたとき、昼メロが「昼のメロドラマ」なので、ナツメロは「夏のメロドラマ」だと思っていた。夏期間限定のメロドラマなのか?と。^^;
そして、どうもそうではない、んじゃ夏のメロディーか?とも^^;;

 さて、そのときのメンバーからして小学校2年の頃だったと思うが、掃除で放送室担当の時があった。放送室と視聴覚室がつながっていて、そこには当然テレビがある。
 掃除中に友人がテレビをつけてみた。そこでは、あの昼メロが放映されていた。一同「おお!」っと言う感じで、なんか禁止されているモノを見つけて観ているようなワクワク感を覚えたモノだった(遠い目・・・)。それに、夜のドラマと違って、昼メロは妙ななまめかしい雰囲気があるし。
 テレビに向かって、イスが並んでいたのだが、リーダー格の者が前列に陣取って鑑賞し、後ろの者は半分見張り役みたいな感じであった。別にドラマの内容はわかってはいない。昼メロは基本的に毎日の連続ドラマだから、そのうちの一回だけのほんのちょっとを観てもわからないし、別におもしろいわけではない。でも、その時の自分たち、というか子供たちにとっては、観られるはずでなかったモノを、他の友人たちををさしおいて、先生たち大人に隠れて観ている、という事に意味があったのだった。
う~~む、ほほえましい^^。


エリンギ万歳!  (2004.4.4)

 キャベツの千切りを食べるとき、普通はまぁ、ソースかドレッシングでしょう。でも自分は、塩をふるのが一番好きなのだ。フライものでも、ソースをかけるより塩の方がおいしかったりする。なんだかんだと、やっぱり塩が一番おいしさを引き出す調味料ではないだろうか?以前、熱々のご飯に塩だけをふって食べてみたときも、やはり感動的に旨かった。

 先日、初めてエリンギを買ってみた。今までは、存在を知ってても、なんかいまいち大味そうで気が進まなかった。たいていは太っといやつが小さいのと組んで売られているけど、小さいやつを袋詰めにしてあるのがあったので、買ってみた。どうやって料理するのが良いのかは全くわからなかったけど。で、ネットでエリンギの料理を調べてみた。いろいろあったけどその中で「塩をふって焼く」と言うのがあった。これは自分好みのやり方だし、なんだか旨そうだった。簡単だし。

 さて、手始めに小さいやつを裂いて、竹串に刺して塩をふってガスレンジであぶり焼きしてみた。これが旨い!次に網焼の網がないので、グリルで焼くことにした。アルミホイルで受け皿を作り、適度にエリンギを裂いて、全体に塩をふって焼いてみた。
 グリルで焼くときは、ほとんど全部アルミホイルで受け皿を作って焼いている。鮭などの焼き魚も、このようにして焼くと、今までの焼き方はなんだったんでぃ!というほど、感動的にプリプリにおいしく焼けます。お試しあれ。安物の鮭が、ちょっとした小料理屋並においしく焼けまっせ。
 魚から出る油はホイルにたまるけど、問題はない。おまけに後の掃除も楽。そのままグリルで網に乗せて焼くと、なんかパサパサした焼け具合になりがちだけど、ホイルで受け皿を作って焼くと、そういうことにはなりませぬ。ホイルを使わないときより早く焼き上がるので、そこだけは注意のこと。

 閑話休題、グリルでまとめて焼いたエリンギ。これがまた感動的に旨かった。塩がほどよくうまみを倍増している。最近、何気ない素材で、これほど旨いと思ったものもそうはない。
 七輪で炭で焼いたら、これまた旨いのだろうけど、さすがにそのためにわざわざ買おうとまでは思いませんねえ。^^; やりかねないと言われるけど。(七輪を作るところからやりそうと言われたり^^)


完成されすぎ?   (2004.4.8)

 荒削りでも良い味だったミュージシャンが、うまくなるに連れて魅力を感じなくなったりする。特に演奏家に多く感じるのだけど、テクニックが格段にうまくなっていくのだけど、そのうまいテクニックが目立って、「音楽」の楽しみを感じなくなってしまったり。
 逆に、まるでお手本のように上手い演奏家だけど、ただ上手いだけだった人が、次第にその人らしくなって魅力を増す人も多い。そういうときは、完璧だった演奏テクニックから外れて行くような部分も感じたりする。ちょっと音程が外れても気にしないで、そんな細かいことよりは、全体の自分の表現を大事にしているというか、、上手く言えないけど。

 絵の世界でもそういうのはある。ハッキリ言って、絵の技術はヘタなのだけど、でもとても魅力のあるという絵。もう、テクニックのなんたるかなどは超えて、ただ「いい!」という絵をたまに見かける。そういうときは本当に見ほれてしまう。
 そうかと思うと、とても上手い絵がある。半端なテクニックではない。その高度な技術に圧倒されてしまったりして、こまごまと絵を眺める。でもよく考えたら、技術のすごさに圧倒されたのであって、絵としての魅力は感じてなかったりする。その両方がすごいという人は、そうはいないですねえ。

 自分の好きなミュージシャンに、ギリシャのキーボード奏者のヴァンゲリスがいる。映画「炎のランナー」や「南極物語」など、数々の名曲を作って演奏している。ドキュメンタリーやニューススポットなどでも、頻繁にこの人の曲がかかっているので、名前は知らなくても曲を知っている人は多いはず。
 彼はシンセサイザーを駆使して、まるでオーケストラなどで大勢で演奏しているような曲を、作曲から演奏、録音まですべて一人でやっている。(ちなみに、初めて聞いた彼の曲はピアノ曲だったのだけど、ずっとクラシックだと思っていた。)
 シンセサイザーをメインで使う演奏家の曲は、だいたい聴いた瞬間に「シンセサイザーを駆使している」というのを最初に感じる。でも、彼の演奏にはそれを感じない。まず何よりも、曲のすばらしさ、演奏のすばらしさなど「音楽のすばらしさ」に聞き惚れてしまう。そして、その後で「そういえばシンセサイザーの音なんだ」と気づくと言う感じである。
 知人のギタリストにもそういう人がいる。日本でも有数のギタリストなのだが、演奏テクニックはものすごい。なにがすごいって、聞いているときにそれを「感じさせない」のだ。そんなことを感じるよりも、その人の奏でる「音楽」が心地よく楽しくて、聞き惚れるのだ。そして後から、そのすごさを感じたりする。
 もちろんそれは、自分がギターを弾かないからで、ギターをたしなむ人は、最初からそのテクニックを注目するのだろうけど。そういう人の「表現」を感じると、そのものすごさを実感する。初っぱなから、テクニックなどのすごさを漂わせているうちは、まだまだなのだな、とも感じたりする。

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