「ゼロの世界」について

このコーナー設置当初は「オカルト遍歴」というタイトルでした。オカルトっていう言い方もあれだし、いまいちいいタイトル無いなあ、と思いながら書いてました。こういう昔の出来事を書いていると、いろいろ思い出してくるもので、ふと当時好きだったラジオ番組を思い出しました。ニッポン放送系列で、声優の熊倉一雄氏のナレーションによる、不思議世界の番組がありました。その名も「ゼロの世界」。10分間の番組でしたが、毎回一回完結でいろいろな恐怖話を語ります。あの熊倉さんの語りです。ほかの人が語ったらなんでもないものでも、それなりに怖くなります。熊倉さんといっても、知らない人もいるでしょうが、アニメ版の最初の「ゲゲゲの鬼太郎」のテーマソングを歌っていた人です。その「ゼロの世界」は毎回次のような語りで始まります。

ぜぇろのせかい・・・・・(ここで深~いため息)はぁー~・・・・・
あなたは信じますか? いま、わたしが歩いてきた道を
過去でも 現在でも 未来でもない ぜぇろの世界を
信じられないようなことが あなたのまわりに いまも おこっているのです
・・・・・・・・・・・・・ あなた・・・うしろをみてください!!
・・・だれも いませんね?
では あなただけに おななしをいたします。。。


「うしろの百太郎」

 小学校六年生くらいのときだったろうか?少年マガジン誌で「うしろの百太郎(つのだじろう作)」が連載されていた。あれで心霊などをはじめとする、今なら「オカルト」と呼ばれるものにハマった。
 日本の風土で生まれ育ったので、輪廻転生があるのが普通みたいな感覚はあった。その「うしろの百太郎」で”背後霊”というものの事を知ったのだ。それはかなりショックなことだった。恐ろしいという感じではなかったが、始終監視されているのかという印象のほうが強かったなあ。
 「うしろの百太郎」が連載されたころは、多分その漫画がきっかけで全国的に”コックリさん”が流行り、ある種社会問題にもなりました。その後の世代では”エンゼルさん”と呼んでいたようですね。我が家にも友達を呼んで、よくコックリさんをやった。質問するのは、全国どこでも同じパターンであろう「クラスの誰が誰を好きか?」というものが中心。小学生の質問だから。。いまどきの大人がやったら、もっと切実な質問が多いだろう。

 「うしろの百太郎」は後一太郎(うしろ・いちたろう)少年が主人公。彼の守護霊が先祖の後百太郎(うしろ・ひゃくたろう)なのだ。そのせいもあって、ワープロソフトの「一太郎」がその少年の名前にダブる。
 一太郎のお父さんの後健太郎は「後心霊科学研究所」の所長さん。といっても一人だけ。おそらく後健太郎のモデルは「橋本健博士」だろうと思う。なぜ小学校の脳みそでそんな推理ができたかというと、漫画の中で使われた超能力開発に使う「ESPカード」の注文先として橋本健氏の研究所が書かれていたからだ。それで橋本氏の本を読みあさった(もちろんカードは買った)。
 橋本健博士は電子関係を専門とする物理学者であり、数々の特許を持つ発明家でもある。今ではスポーツスタジアムでは当たり前のオーロラビジョン。あの類が最初に設置されたのは東京ドームの前身である後楽園球場の「マンモステレビ」だった。そのマンモステレビを発明したのが橋本博士である。今では植物にも心があり、電極を使うことで植物の気持ちをはかることもできるようだが(異論反論オブジェクションあり)、それのきっかけはサボテンだっ た。サボテンが特別頭がいいというよりも、あのように葉っぱにあたる部分が大きいので電極が設置しやすいのだ。橋本博士は、嘘発見器を応用してサボテンと会話する機械も発明した。
 今だったら、オカルト研究の範疇に入れられてしまうことも沢山やっていたが、もともとが一級の物理学者で電子技術者(と言うのか?)であったので、本の内容もただ怪しいだけではなく物理的な裏づけも書かれていた。自分が物理学に興味を持ったのも橋本博士の本の影響だろうと思う。12、3歳でプランク定数という言葉とその値を知っていたやつも珍しかっただろうし。それもこれも心霊ものとして書かれた橋本博士の本から仕入れたのだった。(決して専門書ではないので、興味があれば子供でも理解はできた。)

 そのころは心霊写真のブームもあり、特に中岡俊哉氏の本があふれていた。中岡氏は自身が霊能力があるわけではないようで、それの研究家という感じだった。何冊もの心霊写真集やハンドパワーの本なんかも出していた。一冊も買ったことはないけど。何しろ心霊写真集が「おいおい、これはこじつけがひどくないか?」というのばかりだったので。よくそういう写真集は、該当部分(霊が写っている部分)を白点線で囲ってあったりしたのだが、そういわれてもそうは見えないのが多くて。「オー!これはすごい」というのはまずなかった。
 ただ、一枚だけ今見てもすごいと言うのがあったのだ。一見なんでもないのだが、よく見ると縁側に座っている人は笑っているのに、ガラスに映っている横顔は怒っているのだった。ゆがんで映っているのでも、横顔だからそう見えるのでもない。明らかに大きく開いた口と閉じた口も違うし、目つきが別人。いまどきコンピューター処理で作ってもかなり高度な技術だと思うし、当時はそれは無理だし。。。
 自分のアルバムの中にも探しましたねえ。心霊写真を。そしたら、あるある。。茂みの中にいるはずのない、そして小さすぎる犬の首が写ってたり、隣の家の玄関あたりに人がいるようだが小さすぎたり、まだまだ、、、・・・。
 まあ、これらは最近見直してみると、「そういわれればそうもみえるかな?」という程度のものであった。が、しかし、墓参りを写した写真で、立ち上る煙がどこかのおじいさんとおばあさんに見えるのは見事すぎる、というのもあったし、なぜか葬式の参列を写したもので、この人は首から下がないんじゃないか、というのもあった。これらは、今どこにあるのか確認できないので、見直したら「な~んだ」となるやもしれぬが。

 「うしろの百太郎」に出会う前はそういうものはとても怖くて、テレビで心霊写真などやっていたら思わず目をつぶってしまっていた。橋本博士の本は、そういうものに科学のメスをあてるものだった。メスをあてると言っても大槻教授のように否定するのではなく、科学的な裏づけを与えようというものだった。そういうものが怖いのは正体を知らないからで、客観的にわかってしまえばむやみに怖いものではなくなる、と書かれていた。
 確かにその後もそういう方面の本を読んだり、同じ興味を持つ友人たちといろいろ情報交換などをしていくと、怖いと言うことは無くなっていた。夜中に心霊写真を見ても特にどうと言うことはなくなるほどに。馬鹿馬鹿しくなったからではなく、どういうものであるかが、そのときなりにわかったつもりだったからだ。しかし、それ以前のころに「アン・ビリーバボー」の心霊写真なんか見たら大変だったろうなあ。今見てもすごいと思うし。
 中学二年ころまでのことだったが、ESPカードで透視力(古い言葉では「千里眼」)の訓練したり、紐の先に錘をぶら下げたダウジングの練習をしたりとか、いろいろやったもんだった。(遠い目・・)


UFOなど

 UFOと書いて日本では「ユーフォー」と呼ぶ。英語圏では「ユー・エフ・オー」と言うそうです。
米軍放送がFENという名前だったころ、放送中でははっきりと「エフ・イー・エヌ」と言っているのに、日本人リスナーはみんな「フェン」と言っていたのと同じか?英語では「フライング・ソーサー」とも言いますね。ソーサーはコーヒーカップの受け皿のこと。

 UFOに興味を覚えたのもやっぱり”つのだじろう”氏の漫画ではなかったか?おそらく「恐怖新聞」のあたりか。それ以前からアポロ宇宙船とかの宇宙ものは好きでしたが。
 初めて週間漫画誌を買ったのは少年マガジン。忘れもしない、近所の小西酒屋の店先のマガジンラックで売られていたマガジンの表紙に目が釘付けになったのだ。そこには、当時人類初の月着陸を果たしたアポロ宇宙船の、月着陸船の写真(絵だったかもしれない)が表紙になっていた。それだけで欲しくて母上に買ってもらったのだ。中の漫画はまったく印象にない。

 中1あたりからもう、UFOは宇宙人の乗り物で太古から地球にやってきていて、と熱中しましたね。矢追純一氏のUFO番組は欠かさず見た。「UFOと宇宙」という月刊誌もよく買っていた。あの系列の雑誌で今も残っているのは「ムー」くらいではないだろうか?まだあるかどうか知らないけど、かなり最近売られているのを見た。

 「たけしのテレビタックル」では時々UFOやノストラダムスについての討論がなされていますね。討論と呼べるのかどうか。。はっきり言って、議論のされ方は馬鹿馬鹿しいのだが、たまにチャンネルが合ったときに見ることがある。あそこに並ぶオカルト肯定派を見ると、かつてその方面でよく見た名前の人が多い。正直、情けなや・・・・。肯定する仕方があまりにも・・・。皆さんあんななっちゃったのねえ。。。

 今現在自分はUFOをどう思っているのかと言えば、、、どうでもいいのだ。さめた、というのともちがう。UFOを肯定する人たちはあまりにも極端で(UFOに限らずオカルト全般でも)、まるでゼロかすべてかみたいな印象が強い。自分も大いに興味をもっていたころは、そこまで極端ではなかったがまず肯定ありきだった。科学も大好きだったが、現状では相容れないその方面も好きだった。今は、特にどうでもいいと思っていると言うのは、それほど大事なことだとは思っていないからだ。
 好奇心からではなく狂信的にUFOを信望する人たちは、UFOがやってきて宇宙人に自分を救ってもらいたいという願望が強いのではないだろうか、とさえ思える。新興宗教にはまるのと基本的には同じように見える。

 好きで見ていた矢追氏の番組に疑問をもつようになったのは、アメリカ政府のUFOや宇宙人に関する秘密文書を入手した、などの事柄が多くなってからだった。好意的に見て矢追氏がうそをついているとは思えないのだが、そうするとそのネタは偽物をつかまされたか、仮に本物だったとしたら極秘ルートで入手したのではなく公開したいアメリカ政府に利用された、と考えたほうが筋が通ると思ったからだ。利用された場合は、本物の情報を流したいタイミングの問題で利用されたか、後で「なあんだ」と思わせるガセネタをわざとつかまされたか。
 最近はマヌケな失態も演じるCIAだが、国家に関わる重大な機密が、たかが日本の一テレビプロデューサーにやすやすとわたるか?と。いくらなんでもそんなにCIAは甘くないと思うし、ましてや日本の一民間テレビが放映なんてできるはずもないのに。しかもそんな重大なスクープをのんきにコマーシャルまではさんで。。
 
時々CIAなどの諜報機関は機密が漏れたように見せて、実は利用して発表させているということもやると聞いた。いわゆる諜報機関の常套手段である「情報操作」である。

 それで馬鹿馬鹿しくなったと言うわけでもないのだが、そのうちに大して重要なことではないと思うようになったのだった。決して否定しているわけではない。

 ただ、熱中した時期と冷静になった時期の両方を経験した身としては、UFOや宇宙人目撃談に対して「うーん、どちらともいえないな」というものと「いくらなんでもそんなわけないじゃん」というものとが見えてくる。
 現代科学というのは、否定派の言うとおりまだまだわかっていないことが多い。それは確かだ。ハナから相手にしない科学者に問題があることもある。ただ問題なのはオカルト狂信派に多い、極端に科学を否定してしまう姿勢だろう。

 現代科学はわからないことも多いが、明らかにわかっていることも多いのだ。将来どうしてもくつがえらない明らかな科学的事実も多いのだ。そういう点をあまりにも勉強しないで、否定する輩が多すぎる。だからUFO肯定派の間では支持される話でも「・・おいおい。。」と言うものが多いのだ。
 一時期、船井幸雄氏がバックアップして「波動」関係の本が売れたそうだが、ちょっと読んでみた本で「これちょっとひどくないか?もうちょっと物理学を勉強してから書けよ。」という内容のものが堂々と「ビジネス書」の棚に山積みされたりしていた。ベストセラーにもなった本もあります。
 しかし、なにより問題なのは、UFO現象などを現実逃避の道具にしている人が多いだろうということだ。

 

木彫り人形・・人間?

 二つか三つのときでした。(このあたりの年齢はかなり詳しく覚えています。)
今の土地での出来事。土地は同じなのですが、今の家は建て直しています。多分、午後のことだったと思います。お茶の間のふすまが開いていたので、開けっ放しで寒くなかった時期でしょう。お茶の間に座っていると、廊下をスーッ、スーッと歩いていくものがあります。一応足は前後に動かしていますが、体の上下動はなく、すべるように歩いている。頭の位置から言って身長は180cm近くはあったでしょう。それは廊下をすべるように歩いていって、台所に入っていきました。僕は不思議に思って台所をのぞいたけど、何もいません。そのくらいの時の子供って、案外おかしなものを見ても、ありえないものがいる、なんて思わずに、単に見慣れないものがいるから、 あれー?という感じで見に行ったりするのですね。
 で、何が歩いていたかと言うと、木彫りなんです。ピノキオのように鼻が棒のようになっていて、全身木でできている人間なんです。木でできているから人間ではないのですが、要するに人間の形。木彫りといっても、ノミで彫ったようなあとがあるわけではなく、木でできているから木彫りとしか考えようがなかったわけです。

 この記憶はかなり長いこと何度も思い出していました。ただ、子供と言うのは脳波で言うと、一日中夢見と同じような状態であると読んだことがあります。だから、現実と夢と幻覚が入り混じっていただろうし、明らかに夢か幻覚でしかない記憶もあります。やはり三つくらいのとき、目覚し時計を眺めていて、どうやって動いているのだろう、と、不思議に思ったことがあります。そうすると、とたんに時計の針が猛スピードでグルグルと回りだしました。このような記憶はそんな入り混じった記憶ですね。面白いのは、やはり何で時計が動いているんだろうと思っていたら、母親が、時計のぜんまいを巻きに来ました。「あっ、ああやってうごいているのか」と納得してしまったこともあった。^^;;

 また、記憶と言うのは誰でもそのままの記憶と言うのは残っていないそうで、多かれ少なかれ、蓄積された記憶やその後の体験、他人の言動によって脚色されてしまうらしい。記憶を反芻しているうちに、どんどん話が膨らんでいったと自覚している記憶もありますし。
 だから、この木彫り人間のはなしも、それでチャンチャン♪にしてもいいのです。一般的には。ところが、あるとき(大人になってから)妖精の本場イギリス(ほんとに本場なのかな?)での妖精目撃集と妖精の解説に関する本をたまたま読みました。そしたらなんと、あの木彫り人間とほとんど同じ特徴の妖精のことが書いてあった(!)。一般に妖精とは手のひらに乗るくらいの大きさを思い浮かべるが、かなり大きいものもあると書いてある(この辺の話は、存在の有無の議論より、その本に書いてあることが事実としておいてください)。そもそも妖精は肉体という実体を持っていないので、「小さい」という考え自体が間違っているとか。それに、大体目撃された証言によると、中世の道化の格好をしているものが多い。この辺の解説がうまかったが、本来実体がないので、人間に見えるように姿をあらわすときには、「妖精とはこういう姿だ、という人間がもっているイメージを借りて出てくる」と。
 北海道のコロボックルも妖精に分類されたりする。「ニングル」はそういうものではなく、はっきりした人間の仲間だとか。

 そのころ、面白くなって、いくつかの妖精に関する本を読んでみたが、いわゆる風の精、水の精、花の精、、、と色々いるようで、見方によっては、あらゆるところに神様がいるという日本古来の考え方に近いのではないか?水の神様、木の神様、山の神様、サッカーの神様・・・ジーコかよ!!

妖精写真 目撃された妖精といえば、少女の目の前で羽を広げて踊る妖精の写真が有名だ。その写真が載っている本が手元にあるが、はじめてみたときに、確かにトリックには見えないが、少女漫画みたいな画風の妖精だなあ、と思ったもんだった。少女の目の前にしか姿を現さないので、撮影のときはカメラを預かって撮っていた。現像された写真は専門家によりトリックの可能性を綿密に調べられたが、トリックの痕跡は発見されなかった。どのような手段を使っても合成などはできないと証明された。シャーロック・ホームズで有名なコナン・ドイルは心霊関係の研究者でもあった。ドイルもこの少女の写真に感激し、かなり関わったようではある。
 死期も近い年となったその少女だった老婆が、数十年の沈黙を破って、あれはトリックであったことを告白したのだ。1990年代前半のことだったと思う。どうやって、誰も見破れないようなトリックができたのか?なんと、紙に描いた妖精を切り抜いて、ピンで木の枝に留めただけなのだと。あまりといえばあまりな単純なトリックである。トリックと呼べるのか?
 
 では、なぜ誰も見破れなかったのか?まず、誰もが合成写真の可能性を疑った。ほとんどその観点から調べていたのだ。確かに合成ではない。ある写真専門家などは、合成を見破ってやると意気込んで公開検証をした。しかし、スクリーンに拡大投影された写真には拡大されてもまったく合成の跡がない。それで、一転、擁護派にまわってしまった。
 長年にわたって本物として掲載される間に、写真自体も古くなり、修正も加えられてより本物らしくなっていったと言ういきさつもあるらしい。トリックと言うのは単純なほど見破るのも難しいという好例である。コナン・ドイルも半生をささげた研究が死後にこのような結果を迎えてしまった。

 ただ、この少女以外にもたくさんの妖精の写真がある。「そうかなあ??」という紛らわしいものがほとんどだが、いまだに謎の写真もあるようではある。ちなみに妖精と天使をゴッチャにしている人も多いが、明らかに別物のようだ。天使は旧約聖書の中に出てくるものであるし。


「人間は肩が命」

 幼少のころの記憶が夢うつつのごっちゃ状態であり、記憶そのものからして、常に脚色が加えられているというのは「木彫り人間」に書いた。そのような明らかに事実と異なる幼少のころのおかしな記憶がある。人間は死んだらどうなるのか?に関する事を聞いた記憶である。

 三歳のころの事、母親と祖母(母の母)に人間は死んだらどうなるかを聞いた。二人とも人間は「肩」に命が宿っており、死ぬと「肩」が雲の上に上っていくと言う。「肩」というのは肩の関節あたりのことであった。
 その頃、父の実家の埼玉東松山で祖父が亡くなった。火葬になって骨をハシで拾っていくが、そのときに焼けた肩を摘み上げた。スポンジのようにスカスカの軽石のようになった小さなおにぎり大の肩である。その部分が祖父の命の部分であり、これが天に昇っていくのだと。
 それからしばらくして、新聞の一面に日本の上空から撮った雲の写真が載った。かなりのスクープのようである。うろこ雲のような雲で、もこもこと並んでいる雲である。天に昇っていった大量の「肩」がはじめて写されたと。そのもこもこしているのが、雲に姿を変えた「肩」なのだ。僕は「わー、本当だったんだ」と新聞の写真を眺めやった。そのもこもこした雲の突起の一つが、こないだ亡くなった祖父のものであるらしい。

 「わー、本当だったんだ」って、ホントなわけはない。言うまでもなく夢を現実として記憶しているか、もしくは入り混じっている。後年、母にこのようなことを話した覚えがあるか聞いてみたが、もちろんあるわけはない。おそらく古今東西(←思い切り死語やな)、「肩」が人間の命の根源であると言っている民間思想もないだろう。

 しかし、あまりにもこの記憶がリアルなのだ。リアルもリアル、日常の現実の記憶としてしっかり刻みついている。誰がなんと言おうと、そのような事実を経験したかのように。記憶の「スジ」も「肩」の話が奇妙である以外は、常識的におかしなところはない。

 埼玉の祖父がその頃無くなったのは事実であり、火葬のあとに骨をハシで拾ったのも事実だろう。火葬のあとにハシで骨を拾うなんて光景を、二つや三つの子供が空想ででっち上げることもないだろうし。ただ、そのあとにお墓に収めるとき、結構喜んでお墓の土をスコップで掘っている記憶がある。
 これはかなり後になってからそのおかしさに気づいたのだが、その時代にお墓に骨壷を収めるのにスコップでお墓の前の土を掘っていたと言うことはないだろう。骨壷を収める収納が墓石の下にあるはずなのだから。
 
 結論として、祖父が亡くなって骨をハシで拾ったのもお墓に収めたのも実際に経験したのだが、その他の「肩」に関する事を夢で見たか、幻想を見たか、、それが脚色されてかぶっているのだろう。

 人形は顔が、、じゃなく、、「人間は肩が命」という発想はそれはそれで面白いが、なんかのナンセンス小説の題材にもなりそうもないしなぁ。。


幽体離脱?

 つのだじろう氏の「うしろの百太郎」の中で、一太郎が幽体離脱するお話があります。お話の中ではそれなりの儀式と方法によって、積極的に幽体離脱する練習をして成功している。自分もやってみたくて、漫画の中に書かれていたとおりにやってみた。もちろん何も起こらん。小学校の頃のことでした。

 そんなことはもうすっかり忘れていた30代前半のことだったと思う。
 風邪で寝込んでいたが、もう回復に向かっていた。午後ウトウトしていると、布団が持ち上がっていく感触がある。布団のほうが持ち上がっていると言うよりも、自分の体が布団を持ち上げている。そう、体が浮き上がっていくのだ。
 
 目で見て浮いているのがわかるのではなく、意識は半分と言うかほとんど起きているのだが、目はつむっていて体が浮いていく感触をはっきりと感じた。「あ、あれ??」と思って、目をあけようとすると、スーッと体は沈んで目を開けたときには元に戻っていた。
 またウトウトすると、再び体が浮く。背中と布団の間に隙間ができる感じがして、体が沈みかけたときに背中にゲンコツをまわすと、沈もうとする体がそのゲンコツにつかえた。
 次の明け方だったか夜中だったか、また体が浮く感じがする。今度はかなり高く浮いて、体は寝ている状態でまっすぐ伸びているが、それがヘソのあたりを中心にクルーッと前転方向に回転して、頭と足が逆になった常態で体の中に戻ろうとする。頭がつま先の中に戻ろうとしているので、「あーっ」と驚いて完全に目を覚ますと、その瞬間に体は元に戻っている。
 
 そう、一度たりとも目があいている状態はなかった。途中から、目をあけると一瞬で元に戻ってしまうとわかったので、事の次第を見届けるまでは目をあけないようにしていた。

 これをきっかけに、しばらく夢うつつの状態のときに体から抜ける感触をたびたび感じた。そのつど、目をあけないようにしていたのだ。終わっちゃうとつまらないから。だから、夢だと言われればそうだし、その割には感覚だけはものすごくリアル。完全に夢の中のことであるが、頭の先から掃除機で吸い出されるように抜ける感触のときもあったっけ。ものすごい勢いで頭から抜けてそのまま屋根を越えて町の上まで上った感じがしたときもあった。このときも目をあけたら一瞬でいつもの状態に戻ってしまうのが分かっていたから目はあけず、何も見えない。

 まあ、そもそも本物の幽体離脱だったら、目をあけているか閉じているかは関係ないのだが。最近はまったくそういうことがないなあ。ちょっとつまらない。。


生首(怖くないから読んでね

 いろいろな超常現象は好きだったのですが、実際にUFOや霊魂を見たと言うことはありません。正夢らしきものを見たとか、まるでパイプがスーッとつながったみたいに、そのときのことが良くわかる、という経験はある。
 スーッとつながった感じというのは、例えばテレビのクイズ番組とかで、知識で推測しようのないゲームと言うのがある。いわゆるカンで当てるもの。そういうものを見ていて、ピーンという感じで200%自信を持って、というか完全にわかっているという状態で正解がわかるとか。

 なんでそんなことをしていたのかわからないが、8年程前、中近東博物館で友人と博物辞典見たいなものの一冊一冊が、何年発行の第何版かを当てるのに99%の確立でわかったこともあった(当たったのではなく本当に「わかった」という印象だった)。単なる推測であったとしてもすごい確立でしょ?

 で、話がそれたけど、中学三年のある秋の夜更けのこと。ウトウトとしていたのに眼が覚めてしまった。ふと天井に目を向けると、視界の端に「首」がある。
 「ドッキーッ!!」としましたね。“うわーぉ、とうとう見ちゃったようぉ”と。喉から心臓が飛び出るくらい驚いた。何しろ、そういう不思議なことは好きだったけど、何も見たことはなかった。
 いったん目をつむったものの、はっきり見ておこうと思って、目を開け、そちらを見ると「???」、、
 それは、修学旅行でお土産に買ってきてそこにかけて置いた「御用」ちょうちんだった。♪チャンチャン♪


コックリさん

 「うしろの百太郎」でコックリさんが流行った頃、自分たちも良くコックリさんをやった。たいていは我が家の二階に友達数人を集めてやったのだ。小学校五、六年の頃です。
 やり方は「うしろの百太郎」に書いてあるとおりにやった。紙の真ん中に鳥居のマークを描き、ひらがな五十音、数字、「はい」「いいえ」を書く。コックリさんをやっている最中は、この鳥居がホームポジションで、呼び出すとき、十円玉が動く前後のとき、そして帰るときはこの鳥居のマークの上に十円玉がある。(後年、幹事役が多く、また凝り性の自分は、この用紙を「キレイ」に作ることを嬉々としてやったものだった。「コックリさん専用紙」として販売できるくらいに毎回丹念に作った。(爆))
 そして、鳥居の上に十円玉を置き、その十円玉に三人が人差し指を軽く添える。準備ができたら「コックリさん、コックリさん、、、(なんたらかんたら、、忘れた《笑》)、、ここは○○○(住所)です。」といって「出てきてください」みたいなことを言うんだったかな?後の世代は「エンジェルさん」だったりするから「エンジェルさん、エンジェルさん、、」と呼び出したみたいです。
 十円玉が動き出したらコックリさんがやってきた、ということだったかなあ?終わると、その紙は焼き捨てる。みんなで庭に出て焼いたのだ。まだ、庭で燃えるゴミを燃やしても問題の無かった時代でした。(遠い目・・)
 「鳥居」という神道を使うのはなんなんだ?という気もするが、日本人になじみのある神聖なモノを象徴していれば良かったのだろう。

 ちなみに、ほとんどは十円玉に三人が手を添えるのだが、「うしろの百太郎」の中では、逆さにした杯の底だったところにお酒をナミナミと注ぎ、三人が人差し指を上に向けて杯の下を三方向から支えると言うやり方だった。日本ではコックリさんだが、他の国でも似たようなものはあって、イギリス(だったかな?)では丸い小さな机の上に三人が手をかざすと机が動き出し、その動き方(机の傾き)で答えを推測すると言うものがある。自動書記というのも日本や中国にもあるが、あれは大体一人でやりますね。
 自動書記というのは例えば筆を持った人がトランス状態になり(シラフの場合もある)、筆が勝手に動いてお告げが紙に書かれると言うもの。今でも結構これで占いみたいなことをする人がいるんじゃないだろうか?中国では比較的近世でも、自動書記で国家的なお告げをいただいたということがあるようだ。イギリスに一人でやるコックリさんのようなものがあって、アルファベットの書かれた紙の上に「ウイジャ盤」という文字を指し示す道具を置き、それでお告げをもらうものもある。

 さてコックリさんの場合、三人の指が乗っている十円玉がスーッと動く様子は、精神科医が集団催眠だ、と言ってもなかなか納得はいかない感じだなあ。まあ、日本人が集団催眠にかかりやすいのは納得がいくけど。大体質問に対する答えは、皆が予想していることだし、指を置いている三人の知らないことはまともな答えが返ってくることはなかったですね。まあ、ほぼ、期待通りのことが起こっていたと言うところ。最後にやった一回を除いては。。。。
その一回とは。。

 またいつものようにうちの二階に3~4人が集まってコックリさんを始めた。そのときは何かが違った。われわれが違うのではなく、やってきたコックリさんの様子が挙動不審なのだ。
 動く十円玉が挙動不審と言うのも良くわからないだろうが、動き方とか、答え方や内容がまったく落ち着きがなく慌てている感じだった。途中で本棚から国語辞典が落ちてきて、驚いたわれわれが「あなたが落としたのですか?」と聞くと「はい」と答えたのはご愛嬌としても、常にそわそわと十円玉が動き回って、質問に対する答え方も「上の空」と言う感じだった。
 くどいようだが、十円玉の動きが「上の空」とか「挙動不審」というのも納得がいかないだろうが、雰囲気としてそうだった。どう見ても「あせって」いるのだ。
 
 そして、とうとうたまりかねた様子で「もう、行く」というような言葉を並べて、十円玉は紙をはみ出し、開けてあった北側の窓の方へ進み机の端で止まった。普通は、鳥居のマークの上で動きが止まって終わるのだ。
 われわれは驚いて、もう一回呼び出した(驚いたのにまた呼び出すうちらもなんなんだか。。)。すると、今度は明らかに違う性格の「もの」がやってきた。動きがまるで違う。2~3の質問に答えた後、十円玉は驚くべき言葉を並べた。

「ワレワレハ レイカイノ ケイサツノヨウナ モノデス(霊界の警察のようなものです) イマノヤツヲ オイカケテイル モウ コンナアソビハ ヤメナサイ」

と言い残して、同じように先ほどの「もの」が消えていった北の窓へ紙をはみ出して進み、机の端で止まった。

 不思議なほど恐怖感というのはなかったのだが、それを最後にわれわれは「コックリさん」から卒業した。


輪廻転生について

 こういうコーナーで御託ならべているからには、このことに関して、自分の立場をはっきりさせたほうがいいだろうと思っていました。輪廻再生をどう思っているのか?ひらったく言えば信じているのか?
 結論から言うと「UFOについて」でのUFOに関しての立場と同じです。否定も肯定もできないし、そもそもそれ程大事なことだと思っていないと。

 否定も肯定もできないというのは、どちらの考えもはっきりと支持できるほどには何も知らないし、白黒させなきゃいけないと思うほど大事だとも思っていません。大事だと思っていないというのは、たいしたことではないというのではなく「今を生きること」に比べたら、こだわる大事さの割合は自分にとっては無いに等しいと思っている、ということ。

 おそらく日本という風土に生まれ育ったからでしょうが「生まれ変わり」と言うのは自然にあることだという感覚は持っていた。ちなみに父はまったくそういうものは信じない唯物史観者でした。霊魂なんてものがあるんだったら「今まで無数に死んでいるんだから、こうやって手を伸ばしたらぶつかっちゃうじゃないか。」と。その論もちょっとなぁ。。

 で、自分はなんとなく「生まれ変わり」というのは当たり前にあるものだと思っていました。まあ、今でもなんとなくそう思っています。だいたい「輪廻」があると仮定すると、その意義はこの世での修行ですね。霊性を高めるための修行に親を選んでこの世に生まれて、過去世でのやり残した勉強や償いをしたり。輪廻自体の真偽はともかく、この「親を選んで生まれてくる」というのはとてもいい考え方だと思う。最初から自分で自分の人生に責任をもてるということです。自分で選んできたのなら、自分の意思で人生を変えられるということになる。

 自分もなんとなく、そういうものだという感覚を持っていて「うしろの百太郎」あたりで書いたように、漫画や本の影響でより突っ込んだ興味を持つようになった。そのころはそういう方面でも、あまり「輪廻」にこだわる風潮は見られなかったように思うのだけど・・・。

 「過去世」「未来世」ということでの輪廻に皆がこだわりだすようになったのは、シャーリー・マクレーンの一連の本が読まれるようになってからのように思います。世代的に自分にとっては知らないことですが、現在のニューエイジ思想は、かつてのヒッピー時代に流行った精神世界の頃のリバイバルなのでしょうかね?その思想を聞いていると、東洋の神秘として西欧に渡った禅の思想が、形を変えて日本に逆輸入されたような感じですが。

 で、シャーリー・マクレーンの本を僕も興味深く読みました。一冊、二冊と興味深く読んでいったのだが、だんだん「あれ?」と思うようになって、ちょっと違うんじゃないか?と。違うというのは、「うそだろー?」ではなくて、思想の活かし方が違うんじゃないか?ということです。彼女の本は、彼女の現世に連なる過去世の謎解きがほとんど。面白く読めていたときは、その謎解きがそれなりに面白かった。
 でも「この人って、過去世のために生きてるんかいな?」とわかったら急激にさめてしまった。矛盾も目立つようになったし。残りの半生をかけて、過去世の謎を解くために生きて、意味付けに縛られて生きていくつもりなのかね?と。べつに、その人がそのことに価値を見出すのなら、それはかまわないことだし、他人がとやかく言うことではない。その人の人生だ。でも、自分には相容れない。繰り返すが、輪廻を否定しているからではない。仮に輪廻が事実としても、逃げの目的で、今の現在よりも過去世のほうにばかり目を向けているのは見当違いだと自分では思っているだけなのだ。本当にそれに意味がある人がいれば、その人はそれでいいのだ。

 それに、なんとなく「生まれ変わり」というものがあるような感じでいたし、精神世界関係に興味を持ったときにも、そういうことが当然のように言われていたが、考えたら自分は本当には何も知らないのだと悟った。すべてそれまでのそういう知識は、誰かが言っていたか、何かに書いてあったことで、自分が実感として知っていたり、霊能みたいなものがあってそういう世界を見たわけでもない。自分は何も知らなかったのだ。そもそも知っていたとしても、自分の性格からして、この世が修行であっても「めんどくさいから、そういうことは来世におまかせね~」と怠ける人間である。^^;;

 過去世が何であるか異常に探求する人もいるが、まあ、好奇心としてなら興味が無いことはない。いつだったか、占いか何かで、「あなたの過去世は メス猫ですね」と言われたことがあって、妙に納得してしまったこともある。しかし「メス」猫というのも。。かりにどこだかの教祖さんみたいに、あなたは「仏陀」や「キリスト」の生まれ変わりです、といわれてもそれ程は驚かない。本気にしていない、というのがほとんどだが、過去世がそうでも、今はまったく違うじゃん。という感じで。

 もうひとつ、輪廻を重要視していない理由は、すべての答えは「今」にあるはずだからだ。自分の過去世を異常に探求する人は、現在からの逃避の材料にしているように見えるのだ。本当に霊障というものがあって、その人の過去世に関係があるというケースがあるのなら、そういう場合は別にして、ほとんどは現在の自分の人生がうまくいかない原因を「過去世」に持っていきたいのではないか。同じ自分の本性の過去世とはいえ、「過去世」であれば「現世」の自分がどう努力しても手が届かないし、ある意味他人同然の自分がやったことが原因だから、「今」の自分の責任ではない、と逃げられる。現在の自分のおかれた状況の原因は、そんな「過去世」までさかのぼらなくても、現世の自分の昨日、一ヶ月前、一年前、数十年前に突き当たるはずじゃないか?と思うのだ。。

 最初のほうで「『今を生きること』に比べたら、こだわる大事さの割合は無いに等しいと思っている」と書いたのは、そういう意味でもある。


大槻教授のこと

 オカルト関係には強固に否定対立している大槻教授ですが、冷静に見ると、そういうものを否定している科学者としては珍しく正しい態度を有していると思います。まあ、あの方の出演したものをみんな見たわけではないし、本もそんなに読んでいないから、中にはおかしな否定の仕方をしているものもあるのかもしれませんが。
 UFOや霊的なものを否定している科学者の大半は感情的に否定していますね。そういうものに対して、頭から「馬鹿馬鹿しい!」という態度をとるだけの科学者です。ハッキリ言って、そういう人は科学者としては失格です。
 今年か去年の正月番組で、沖縄の与那国に見つかった海底遺跡らしいものの特集をやっていました。ムー大陸の証拠だといきり立つ学者もいました。
 肯定する側は、あまりにも人工的に見える岩の切り口やその形をあげ、否定側は、同じものが自然に出来得るし、階段状に見えたりするものが実用的にはおかしな点が多すぎると言った話だった。
 その中で一人、考古学の考証に詳しい学者が、その当時の文明水準やいろいろなことから考えてありえない、と否定した。ハッキリ言って、この学者には直ちに辞表を提出して辞めてくれ!と言いたい。一番科学者としてあるまじき態度である。なんら検証したわけでなく、それまでにわかっている事から判断して否定しているのだ。

 科学と言うのは、自然界の真理を探り出したいと言うのがその根本だと思います。従って、わからないことが出てきたら、謙虚にその対象に向かい、偏見や先入観を捨てた態度で実験や検証をしなければなりません。そのために科学に限らず、あらゆる学問は「分類」という作業が基本になります。

 別に大槻教授が好きなわけではないし、弁護したいと言うわけではないのだが、あの方はちゃんと科学者として正しい態度をとっていると思える。ハナから否定してはいない。ミステリーサークルにしろ、超能力にしろ、ちゃんと実験や実地調査をしているのだ。その上で、単なる自然現象や既知の科学的事実で十分説明できると言っている。
 多分、大槻教授は、むやみにそういう超常現象を否定したいのではなく、ちゃんと調べればそのように既知の事象で説明のつくものでも、オカルト信者が安易に超常現象にしてしまうことに危機感をもっている、というか気に食わないのではないだろうか?ミステリーサークルがプラズマ現象でも十分説明されうることなどは、とても納得のいくものだった。
 超能力和尚(多分、織田無道氏)を対象として本当に手からパワーが出ているのかを検証もしていた。その結果、何だったか忘れたが、手のひらの中央から「1Hz」のエネルギーが出ていることが測定された。それが即、言われるような超能力かどうかは結論できないが、確かに何らかのエネルギーが出ている、と認めている。
 またある時は、超能力サラリーマンの高塚光氏のもとへも赴き、五十肩の治療を受けるモルモットになった。その結果、確かに大槻教授の肩は治ったのだった。映像では、かなり教授は喜んでいた。「あらら~、ホントになおったよ!」と。ただ、それが気のパワーかどうかの明言は避けている。
 その点も、正しいと思う。言われるとおりの結果が出たからと言って、即、先方の言うようなパワーである、と認めるのも安易である。そう結論するには、まだそれなりの検証が必要なはずだ。このときは、それが何らかのパワーなのか、単なる暗示なのかはわからないが、確かに治療の効果が間違いなくあった、と認めている。テレビだと感情的に言っているように見えるが、客観的に肯定できるものは認め、否定できるものは否定しているのだ。
 大半の超常現象を否定する科学者は、そこまではしないだろう。研究室かテレビのコメンテーターで出演して、「そんなことはありえない」と言葉で否定するだけだ。

 くれぐれも断っておきますが、決して大槻教授を弁護したいわけではない。肯定派も否定派も、安易な感情的な部分で論争せず、ちゃんとお互いの言い分を聞き、検証をするべきだと言いたいのだ。
 ただ、大槻教授の態度で残念なことがある。霊能力者(と言われていた)故・宜保愛子さんに関してだが、「宜保愛子さんの霊能、霊現象が本物だったら、教授職を辞める」と辞表をマジで用意していることだ。一見、敗北を認める態度としては潔く見えるし、本人もそのパフォーマンスのつもりなのかもしれないが、間違った態度だと思うのだ。
 本当にその霊現象が大槻教授の考えを覆すものだとわかったのなら、辞めないでその真理を追究するのが正しい科学者の態度だ。しかも、それまでの科学を覆してしまうのだから、科学者としてこんなエキサイトな研究は無いはずだ。「違ってたから、や~めた・・」ではだだっ子と同じだ。


もうひとりの自分が?

 平成5年の話。ある時、友人の友人を紹介された。初めてには間違いないのだが、見覚えがある。彼も見覚えがあると言った。でも、間違いなく初対面なのだ。

 どこであったんだろう、と考えても分からない。すると友人が思い当たった。
「○○の時だよ。二人とも来てたし。」

 でも、つい先日のその集まりには、誘われたけど、都合がつかず行っていないのだ。手帳を見ても、その日は他の人と会っており参加はしていない。でも、その友人はおろか、ほかの友人も僕がその集まりに参加しているのを見ているという。しかも、その見覚えのある人としゃべっているのを見ていると。
 ただし、その見覚えのある人は、僕としゃべったかどうかは記憶していないが、そこで会ったような気がすると言う。

 

 どう間違っても参加していないのだし、参加した記憶はもちろん無い。でも、その人に会った記憶はある。どこでなのかは分からないけど。

 その後、その集まりに参加した他の人も、僕がそこにいたのは覚えているという。
いったい、自分って何?;;;


オーラ見えますか?

 年々「オーラ」という単語が、市民権を得てきているように感じる。大概は、その人の「雰囲気」を表す時に使われているようだ。語源とか、本来の意味というのは知らないのだけど、自分が知る限りでは、人体が発する霊的な光を意味していたと思う。
 仏像画や宗教画に描かれている後光なんかがそれでしょうね。かつてソ連でだったと思うけど、オーラを写真撮影する技術も開発されましたね。「キルリアン写真」と呼ばれていました(以前友人が「チロリアン写真」と思いこんでいた)。それが霊的なモノなのかどうかは、自分には断定できませんが、それなりの技術を使えば写真に撮ることが出来るので、存在していることは確かなのでしょう。オカルト方面に熱中していた頃は、オーラを見る訓練なんてモノも本で知って、やったことがある。

 さて以前、知人経由である小さな出版社内で絵の教室もどきをやったことがある。それは、その当時自分がやっていた、色鉛筆を使って色出しをして、ある円形を組み合わせた図形を描くという企画が精神安定に役立つのではないかと言われていたからである。そのために、雑誌のコスモポリタンのヒーリング特集に、その絵のワークショップについてが掲載されたこともあった。3~4行ほどの紹介で^^;;。
 自分がやっていたのは、あくまで絵に対する苦手意識を無くすためのモノであって、決してヒーリングを目的としたものではなかった。だから、そう扱われることに対して、心の中では抵抗が無いこともなかった。

 その小さな出版社でやったのは、社員を対象とした実験であって、有用であれば出版社主催のワークショップにしたいということだった。社員は大乗り気だったのだけど、社長は疑り深い人間で、自分が精神性が一番高いと思いこんでいる人だった。そのために、仕事上のトラブルも絶えなかったようだった。ちなみにそこの出版社は、神道に傾倒しているのだが、精神世界関係(いわゆるニューエイジ本)の本をたくさん出していた。そこの本は一冊しか読んだことはないのだけど、とても綺麗綺麗に精神性を説いている内外の本を出版していた。

 さて、実験での教室をやる日、初めて社長に会ったのだが、開口一番目を合わさないような言い方で「オーラ見えるの?」である。
「は?・・いいえ。」と答えるしかない。このおっさんは、初対面の人間に対して、まともな挨拶も出来ないのか?と思ったし、オーラが見えることが偉いとでも思っているのか?と大いに疑問だった。どうも、その社長はオーラが見えるらしい。そう思いこんでいるだけだと思うが。もし本当に見えて、いくらか精神性の高い人だったら、決してそんなことを言うはずはない。

 教室が一通り終わり、参加者の絵を壁に貼り出して並べた。参加した社員は大いに楽しかったようである。みんなうれしそうに、お互いの絵を見ては感想を述べていた。もちろん社長は参加しなかったのだが、壁に貼ったところで現れた。
 一人の社員が「どれが誰の絵だかわかります?」と聞いた。社長はちょっと考えてから、ひとつの絵を指さして描いた人物を当てた。
 「お~、やっぱりさすがですねえ」とどよめく。
 「○○君のエネルギーが現れてるよ」と社長はおっしゃいました。
 そして、次々に絵を指さして、描いた人物を述べていく。結果は、最初の一点以外は全てハ・ズ・レ。このときに参加していたのは、5~6人なのだから、残りの4~5人を全て外すというのも確率的にはかなりなもんである。^^ 大いに腹の中で笑わせてもらった。
 参加した社員はみんな、このイベントを定期的にやろうと言っていたようであるが、もちろん社長が却下したようだ。オーラを見ることの出来る偉い社長が、オーラも見えない輩に、自分が良く思わなかったのに好評だったイベントをやらせるなんて我慢は出来なかったのだろうから、無理もないことだった。


サイババ

 最近、とんとこの人の話題は聞かない。健在なのか、以前と変わらず信者を集めて奇跡を見せているのか、全然知らないし興味もない。

 自分が精神世界方面に興味を持っていた平成5年頃が、このサイババも日本で一番もてはやされていた時期なのではないか。その方面に興味を持っていた人は、たいていサイババにも興味を持っていた人は多かったけど、不思議に自分はなんの興味も持たなかった。
 彼の行っていた奇跡、ビブーティー(だったっけかな?)と呼ばれる砂のような聖なる粉を手から出現させたり、いろいろな小物を何も持ってなかったはずの手の中かから出現させたりする奇跡は、実は簡単なトリックによるマジックで、すべてはウソだった、というのが暴かれたりしたことがあった。
 それについても、「暴いた」というのがウソで、サイババの奇跡は本物である、という知人もいたし、後日談も聞かないのでよく知らない。まぁ、どっちでもいいし。

 精神世界どっぷりの友人で、インドへ自分探しに行き、いつの間にか帰ってきてメールをくれたのがいた。その人のメールには「サイババの教えに真実を見い出した。これからはその教えに従って生きていきたい」と書かれていた。サイババに絶大な興味を持っていた人で同じような事を言う人は多かった。
 おもしろいのは、そう言っていた人が、例のサイババトリック事件を知って、今度はサイババを否定していたりすることであった。サイババの言うことまで否定したりするのでさらにおもしろい。
 だって、彼の「教えに真実を見いだした」のだったら、奇跡を見せていたのがトリックであっても、関係ないのではないのか?と思うからだ。サイババが自分に注意を引くために、奇跡と称してトリックを行っていたとしても、教え自体に真実を見いだしたのなら、その思想は大切なものとして受け止めても良いだろうと。

 そういうのを聞いてしまうと、結局は奇跡に驚き、言っていることまですごいことなんだと錯覚していただけなんではないのか?と思ってしまう。詐欺の新興宗教に引っかかるのと大差はないじゃん、とまで思ってしまう。教えがどういうものなのかは、まったく興味を持ったことがないので知らないが。
 学問としての宗教学のようなものにはとても興味があるのだけど、それによるとサイババは、ヒンドゥー教サイババ派の二代目で、ヒンドゥー教の中の新興宗教らしい。

 いまはもうないような気がするけど、何年か前に久々に大阪へ行ったとき、難波で「カラオケ サイババ」というベタベタのカラオケ屋の看板を見つけたときは、さすが大阪だなぁ、と感動したものだった^^:;。

過去世

 某宗教団体の代表は「私は仏陀の生まれ変わり」だと言っており、美輪明宏氏は「天草四郎」の生まれ変わりだと言っているらしい。同じく、自分の過去生を語る人は多いが、やたらに重要人物ばかりなのはなんでだ?と思ったことがある。名もない一般市民の方がはるかに多かったはずなのに。
 おそらく、占い師や霊媒師に過去生を見てもらうときに、何の特徴もない一般人だったと言われても、それじゃイヤだから、自分が納得できる過去世を言ってくれるまで、他の人に見てもらい続ける人も多いからだろうけど。

 ま、ここまでは、他にも同じ疑問を持った人がいるのは良く聞く。こないだふと、もっと面白い疑問を思いついた。
 なんで有史以降、つまり歴史的にバックグラウンドなどがわかっている時代の過去世を持った人しかいないの??と。(アトランティスでの過去生を持っている、というのはここの話では棚上げにする。)
 日本だったら、縄文時代以前はもちろん、1万年以前だってそれなりの文化をもって生活していたはずだし、「人間」としてはそれほど現代人と違う人間だったわけでもないはず。その頃の生まれ変わりって聞いたこと無いぞ^^。クロマニヨン人時代の生まれ変わりもいたって良いじゃん。

 そういや、他人の過去生がわかるという人に「貴方はアフリカのとある部族の酋長だったみたいだ」と言われたことがあったな。メスネコだったと言われたことも^^;


【追記】
某有名霊能者が他人の過去生を語るときに、地域や時代に偏りがありすぎる、という疑問がすでに大々的に言われていたのね。その方面のTVを見ないので知らんかったわぃ。^^;


すべてに意味はあるのか?

 以前のブームの時のニューエイジでは盛んに言われていたから、昨今のスピリチュアルブームでもきっと言われているんだろう。「人生に起こるすべてのことには意味があるのだ」と。ここで言う「意味」とは「起こった出来事には運命(?)として仕組まれた理由があるのだ」という様なことです。
 自分がニューエイジにそれなりにはまっていた頃は、やはりそう思っていた。というか思わされていたというか、ノセられてそうなんだろうと思っていたというか。これらのことについてはHP内で何度か書いたけど、現在の自分は、別にその事を否定しているのではない。自分はそういう風に、起こることに意味があるのか無いのかは知らないだけなのだ。で、意味があるにしてもその意味を考えるのは無意味だと思っている。無意味と言ってしまっては実もフタもないならば、強引に意味を考えない方が良いと思っている。自分で意味を考えても、結局都合の良い意味しか考えないものだし、そんなこと考えてる間に次の行動に移った方がましだ。自発的に考えるのではなく、腑に落ちて「意味がわかる」時があると思うが、それなら良いのだけど。

 そもそもがそういう事にはまっている人たちの中で、自分で「意味があるのだ」と「実感」している人がどれほどいるのだろう?ほとんどはスピリチュアルリーダーが言っていることに追随しているだけではないのか?自分もかつてはそんなもんだったから。そして現代科学は機械的で無味乾燥で、神秘的なものを一方的に頭から否定していると思ってたりした。今は逆で、むしろスピリチュアル方面の方が、何の根拠も無しに思想をまくし立てているように見える。対して科学方面は、起こっていることにどのようなことが考えられるのか?どのようにその存在を証明できるのか?を万人に示すことが出来るようにすることであり、頭から「そんなバカバカしいことはあり得るわけないし、考えるだけくだらない」と拒絶するのは、ごく一部の、科学者とは呼べないやつらだけかと思う。スピリチュアル方面はもっと度量が狭く、「信じるのか信じないのか」だけしか無いように見える。「どうなのだろう?」と考える隙間を与えない。「信じない」者は、まだまだ魂のレベルが進化していないと決めつけられたり。

 繰り返すが、自分は「意味」があるのか無いのかは知らない。意味がありそうに感じることも多い。いやむしろ意味があって欲しいと思うことが多いし、意味があるのではないか、と感じることも多い。でもだからといってどういう意味があるのだろう?とは考えない。考えないようにしているわけではない。考えるとすれば「意味」よりも「希望」でしょう。こういう意味であって欲しいという。

 意味があるかないかは否定も肯定もしないと書いたが、自分の思っているのは、出来事には中立的な事実があるだけで、意味を付けるのは、それに対しての自分の生き方なのだと。ある事が起きた時、それが良い出来事か悪い出来事かを決めるのは当人の感情でしょう(ちょっと乱暴な理屈だけど)。それにまつわる経験を生かせばよい意味になるし、逆なら悪い意味になる。
 だから、同じ事実に対する意味は、その時によって変わってくる。ある時は「○○のため」だったと思い、もっと後になって「××のため」だったりする。自分がどのようにその経験を生かして、どのように生きるのかで、同じ事実でも意味づけは変わってくる、というのが本当だと思う。あらかじめ「宇宙」なり「神」に仕組まれた意味などは無いと思うが、自分がどう生かして意味づけするかが大事でしょう。

 元ジャイアンツで、39歳にして大リーグデビューという夢を果たした桑田真澄投手は、常に「野球の神様に感謝している」と言っており、また「この世に意味のないことなんてないんですよ。」とも言っている。彼はPL学園出身で、自ら「僕はPL教の信者です。」と公言していた。PL教がどういうモノかは知らないが、彼の言う「すべてに意味がある」というのは、運命として仕組まれた意味がある、と言うことではなく、自分に起こるすべてのことを無駄な経験にはしないで、すべてを生かして生きていく、生かされて生きていく、と言っているのだと思う。

 いや、そんなことはない、この世の事柄はすべて意味がある、と「言い張る」人の多くは、良く聞いていると自己責任を回避したいためなのだろう?と感じる事が多い(もちろんまじめに意味を考えている人も多いと思うが)。「すべては宇宙の意志によるものであって、自分にはそのことに対して責任はない」と逃げているようにも見える。
 自由意志が通りにくいという点では窮屈だけど、スピリチュアル人達が大好きな困難な事態のときには、自分で考えて自分の意志と力で解決する、というはるかに大変な生き方をせずに、宇宙の意志の責任にできる。だって運命なんだも~ん、と。または、自分のせいかもしれないけど、今の自分じゃなくて過去世での自分のせいだも~んと。
 自分の価値判断で正しく意味づけが出来るとしたら、それは臨終の時の総決算しかないのでは。哲学者のカントは、臨終の間際に「これでよし(エス・イスト・グート)」と発して逝ったという。人生の最後に「これですべて良かった」と思えれば、自分の人生に起きた事は、すべて意味のある良い事だったのだ、と思えるのかな。松本零士氏の漫画の中で、時々「何が正しくて何が間違っているのかは、宇宙のすべての歴史が終わってみないとわからない」というセリフが出てくる。これ、かなり真実をついてるな、と思ったのだった。


来世のため?

 形と意味合いは違うけど、多くの宗教に「生まれ変わり」の思想がある。日本では仏教的な輪廻の思想がもっとも根強いけど、日本独特の仏教に色濃く染まっている感は当然のごとく否めない。

 さて、死んだらそれで終わりではない、死後の世界があり、また生まれ変わりもするのだという思想では、そのような事を心の中心にすることで、よりよく現世を生きることができる、と強く考えている風潮がある。
 死んだらそれで終わりすべてが無になると思っていては、誰もが自分勝手好き勝手に生きて、世の中はメチャメチャになってしまう。この世は修行の場であり、現世でいかによく生きるか(徳を積むか)で、より良い死後や来世が保証される、という考え方だけど、それを聞いたり読んだりするたびに「なんだかな・・・」と思ってしまうのだった。
 死んだらすべて終了~、と考える人間は、そんなに誰も彼もがメチャメチャな生き方をすると思っているのか?もちろんそうなってしまう人は多いだろうけど、人間はみんなそんなにどうしようもない心しか持たないと卑下しているのか?と。それに、現世での生き方が「自分の来世や死後の世界に影響するから」よく生きようというのは、よく言えば向上的と見えるけど、だからちゃんとしなくちゃマズイ、という悪い意味でのエゴな生き方ではないの?といつも感じてしまうのだ。しっかり単位を取っておかなくちゃ、っていうのと同じに見えてしまって。本当の意味の心からの良い生き方と言うよりも、罰が怖いからちゃんとしなくちゃ、ってのは・・・。それに、現世の生き方がその後に影響すると思っている人にだって、好き勝手な連中は多いだろ。

 何度か書いているけど、自分は輪廻(または死後の世界)があるのかどうかは知らない(わからない)。生まれ育った日本の風土の影響か、なんとなくそんな感じはしているし、以前は強く「輪廻はあるのが当たり前」と思っていたけど、今は、あるのかないのかどっちなのか白黒ハッキリしないと困る、とは思っていないので。
 死んだらそれですべてが終わり、と証明されたからといって、好き勝手にメチャメチャに生きてやる!とは思わない。死後の世界があり生まれ変わりもあり、現世での点数によってどのレベルに行けるかが決まると証明されたら、突然生き方を変えるとも思わない。どちらにしたところで、現世の今は今しかないのだから。

 松本零士氏の「銀河鉄道999」には、結構名言が多いと思っている。以下はコミックの最終回での星野鉄郎の言葉である。終着駅アンドロメダに着いて、生身の体から機械の体にならなければならないが、生身の体で限りある命でいるのが良いのか、機械の体になって永遠の命を得ることが良いのかを悩んだ末の言葉である。

だけど ひとつだけはわかったよ
限りある命だから 人は一生という時間の中で
精いっぱいがんばる……
短い時間の中で 何かをやりとげようとする…
そうだから おたがい思いやりややさしさがうまれるんだって…
父さん母さんの血がぼくの体には流れている……
ぼくの未来の子供に受けつがれて
そのまた子供へと ずっと続いてゆく…
それも永遠の命だってね!!

 ヘタな精神世界系の戯れ言よりも、この言葉の方がよほど真実をついていて、より良く生きる指針になると思ったり……


すべては無に還る

 同じようなことはあちこちに(このページにも)チラホラ書いてきた。
 自分は日本の風土で生まれ育ったので「生まれ変わり」という思想というか感覚は自然にある。真剣に「前世」がどうで「来世」がどうとか思わなくても、日本人なら誰でも「生まれ変わる」という感覚は何となく持っているだろう。
 元々は小学校5~6年頃に連載されたつのだじろう氏の漫画「うしろの百太郎」あたりから興味を持ち、精神世界いわゆるニューエイジに関心があった頃(平成5年頃)は前世だの来世だのと突っ込んだ興味を持ちいろいろはまったりもした。でもよく考えるとそのすべては人や本からの受け売りだった。自分が何かを感じ取ってそういう事がわかったとか感得したということはなかった気がする。それでもなんとなく「生まれ変わる」という感覚は持っていたし、今でも全くないとは言わない。でも前にも書いたように、自分にとっては生まれ変わりの「仕組み」を考えることは無意味である。そんな戯言に頭を使うぐらいなら「今」の人生をしっかりと考えるべきだし。もちろんそういうことは人それぞれなので、輪廻について考えることがくだらないとは思っていない。あくまで自分にとってはどうなのか、である。

 自分は自然科学(物理学、天文学等)が大好きである。だからといって非科学的だから○○はくだらない、という思いはない。科学ですべてがわかっているわけではないし、科学とはそういうモノではないとも思っているからだ。もちろん「初歩の科学でもちょっと勉強してみれば」といいたくなるモノは多い。これ以降書くことは「科学的」かどうかは全く基準にしていない。「非科学的だから」という事では思っていない。

 冒頭に書いたように何となく生まれ変わりの感覚は持ってはいるものの、年々そういう感覚がなくなってきたのを感じる。ここ10年くらいに至っては命は生まれて死んでそれですべてじゃないかと強く感じるようになった。つまり死んだらそれですべて終わりで無になるということである。プランクトンや昆虫などに輪廻などないと言われても、ほとんどの人は素直に受け取れるだろう。人間ではそう割り切るのが難しいというのは、やはり「意識」というモノを持ち合わせているからなのだろうと思う。肉体が受精から始まって生まれ死で終わるのは納得できても「意識」が無になるというのを想像するのは非常に難しい。「死」が怖いというのは「死に方」が怖いというのもあると思うが、一番怖いのは自分の意識というモノが消え去ってしまうことなのではないだろうか。自分の意識というか精神は無になったのに、この世は存在し続けているという事を想像するのは容易ではない。それを想像することが難しいのとそういう状況が怖いのだろうか。
 でも自分は近年、自分が死んだら肉体(生存している肉体)も精神も自分という存在は無になっても世の中はそのまま動き続けることが想像できるようになった。特に生死について真剣に考えるようになったわけではなく、なんとなくそんな感覚になってきた。じゃあそういう状況が怖いか?というと、さしてそうでもない。怖がってみたところでそういうモノなのだからしょうがないという感じかな。
 いつの間にか自分も半世紀を生きてきて、まだ同級生や友人関係で訃報が多いということはないが、親戚関係での訃報は増えてきている。昨年までの9年弱は母親の介護もしてきた(現在は介護病院に入っている)。それで死に対する感覚というか、真剣でなくても意識に上るようになってきてそんなことを考えるようになってきたのかもしれない。
 最近はそうでもないが、一時はテレビのゴールデンタイムでも占いやオカルト関係の番組が席巻した。世の中が不安定になる事とそういうことが流行るのは相関関係があると思う。昔はそういうモノに興味があった(占いには興味がなかったが)が、近年のそういうモノは全く見なかったが、あえて見なかったと言うよりは本当に興味がなくて見なかったのだ。

 輪廻がなく命はすべて無から無へ還るというなら、心霊現象の類いは偽物か誤認だと言うことになる。でも自分はそういうことを否定しているのではない。確かに不思議だが否定できない現象は数多くある(ようである)。それを肯定も否定もできる根拠を自分は持ち合わせていないし、否定するつもりもない。「そんなのは嘘だ」と思っているわけではないからである。
 それでは「無から無に還る」と言っている事と矛盾するわけだが、あくまで自分の中では「無に還る」と感じているだけなのである。それで良いと思っている。別の感覚を持っている人はそれで良いと思う。

 ある小説家の作品で、結末が主人公の死で終わっているものがある。結末を紹介するのはルール違反なので、作家名やタイトルを伏せ、主人公をA、友人をBとして紹介する。

 Bが裸足で飛び出していくのが、ぼんやり見えた。時々薄れる意識の中で、AはBを待っていた。やっと、廊下にいくつかの乱れた足音がして、院長と看護婦を引っ張るようにしたBが部屋に飛び込んできた。
 Aは、Bに何かを言おうと、口を動かしたが、うまく言葉にならなかった。Bの大きく見開かれた目が薄明かりの中で群青色に光っていた。笑いかけようとして、Aはあおむけにどっと布団に倒れた。
 Bの呼びかける声が、しだいに遠ざかり、消えた。

 この文章でこの小説は終わっている。これを読んだとき、今まで読み聞きしたどんなモノよりもリアルに「死」を実感した。あぁこういう風に意識が消えて死んで行くんじゃないかなぁと。おそらく無になっていくことをリアルに抵抗なく想像できたきっかけだと思う。

 では、本当に自分は死んだらそれで終わりと信じているのか、というと確信はない。そう感じているだけで、真実がどうなのかはどうでも良いと思っているのだ。どうでも良いという言い方は誤解を招くが、先に書いたようにそのことにとらわれる意味はないと思っているのだ。宗教的に修行の身であるとか、特に真剣に関心があるのでなければ、そんなことにとらわれるよりも今の人生をちゃんと考えた方が良いと。特に真剣に関心があるという人でも、今の人生からの逃避の道具として関心があるという人が少なくないし(自分では気づいていなくても)。
 それに今世(今の人生)をよりよく生きるためには、しっかりと前世や来世についても考えるべきだと言う人がいるが、自分にはそうは思えない。今世をよりよく生きるために必要なモノはこの人生の中にすべてあると信じている。