とっさの挨拶  (2011.4.13)

 過日、知人のお通夜に出席したときのこと。
式の後に家族から「どうもありがとうございました。」と挨拶された。
とっさにどう言葉を出して良いか戸惑ってしまい「ありがとうございました」と返した。
 普通は「ご愁傷様でした」とか言うんですが、心の準備無しにいきなり「有難うございました」と言われてしまうと、やっぱり同じように返してしまいそうな^^;;;

人間も動物なのである  (2011.4.19)

 自然科学が好きなので、良く天文学や生物学などの本を読む。その都度感じることではあるが、今回は東日本大震災の後だったのでなおのこと強く感じたことがある。

 いったい「国」という単位というかくくりってなんなんだろうと。ご存じの通り宇宙の中では地球などは微塵ほどの大きさも無い球体。人間などは地球の生物史の中ではつい最近ちょこんと現れたに過ぎない動物である。その中でその人間は、地球を国に分割してあれやこれやともめたり協力したりしている。
 今回の震災後でも、改めて日本人の意識の高さに賞賛の声が寄せられたり、かたや原発問題で非難を浴びたり。でも海外からだけでは無く同じ日本国内でも、被災しなかった地域が被災地に「がんばろう」「がんばれ」と言ったり、福島原発の地域の人やモノを避けようとする風潮もあったり。こんなときこそ日本はひとつになって、とはいうものの、根底には分けようとする意識があるのは明白に見える。

 21世紀になる頃には国境などはなくなって、真の世界平和が訪れていると予想したり「予言」した人までいた。でもご覧の通り20世紀までとは何も変わっていない。むしろ悪くなっているのではと思える部分も少なからずある。
 人間は少なくとも5千年以上、もしかすると1万年以上も根本は何も変わってないのかも知れない。それを「進歩が無い」という言い方がなされるけど、もしかすると進歩とかそういう問題では無く、それが地球上で進化(?)してきた「人間」なのでは無いのかと思ったりも。つまり(動物である以上、人間は必ずいつかは絶滅するが)、人間は絶滅するまで同じような感じで生きていくのではないかと思うのだった。

 精神世界(ニューエイジ)関係では、地球や人間の意識はアセンション(高次元に移行)するなんておめでたい事を言っているが、「~~までにアセンションする」と指定した時期は何度も聞いたことがあり、すべてその期日は過ぎた。今でも「○○年」にそれが起こると言っている人たちもいるようだが、絶対にそんなことは起きないと断言します。
 そういう類の事を聞くたびに、そもそも人間も動物なのである、ということを完全に忘れているか意識にないのではないかと感じる。ついでを言えば、もっと物理や天文学を勉強してからそういうことを言って欲しいと思う。その前に、そういう外圧はあてにせずに、自分で自分の人生に責任を持って生きて欲しい。
 自分も精神世界系に興味のあった時期もあるが、自然科学は元々好きだったので、安易なSFにもならない「次元」の話などはあきれていた。将来もひっくり返らない基本的な自然科学はあるのだから、せめてその辺りをもちょっと勉強したら、安易にそんな戯言は言えないと思うのだった。まぁ前述のように自分の努力は無しに、外部環境がそう変わって欲しいという逃避の道具にしているのはわかってるが(無意識的にしろ)。

睡眠サイクル  (2011.4.27)

 既にどこかに書いたと思っていたのだけど、探しても見つからないので書いてみる。(既出だったりして)

 人の睡眠サイクルは90分が基本になっている。睡眠はレム睡眠・ノンレム睡眠などが繰り返されていることをご存じの方は多いと思う。夢を見るのはレム睡眠の時で睡眠は浅い。自分は良く夢を見て、むちゃリアルでしかも覚えていることが多い。なので熟睡していないのだろうなと思ったら、医者に聞くと、夢をよく見たり記憶していることは個人差の問題なので、熟睡度とは関係ないとのことだった。
 でも熟睡していないことが多いのでは?と感じることのひとつに、夜中に目が覚めることが多いのだ。面白いことに何度も目覚める時は、見事に90分おきに目が覚めている。睡眠がワンサイクル終わるごとに起きてることになる。ワンサイクルごとに熟睡していれば問題ないのだろうし、朝起きて寝不足を感じているわけでも無いので、まぁ睡眠は足りているのだろう。ちなみに夢は犬でも猫でも見ていることは分かっている。昔うちに飼われていただいていた猫も良く寝言を言ったり手足をばたつかせたりしていた。

 やたらにトイレに起きることもある。30代頃でも、頻尿に悩む中高年の様に夜中に四回も五回もトイレに起きることがあった。でもそれも長くても数日で、どうも夏から秋にかけてにそういうことが多い様な。夏は汗でかなり水分を放出するが、汗をかく量が急に減ると身体が上手く調節できなくてやたらトイレに駆り立てるのか。なのでそういうのは年に数日のことだったり。そんなときは果たして90分サイクルで起きていたのかどうか定かでは無い。トイレに行きたくなる方が気になって時間を気にしていないので。

 しかし90分サイクルというのはおおよそそのくらいという事かと思ったし、もちろん個人差はあるはずだけど、いつも自分の場合は見事にほぼ90分なので、夜中に何度も起きたとき時計を見て「おぉ~」と感動してしまうのだった。

電車の窓開け  (2011.5.4)

 福島原発問題による電力不足で、すっかり節電が浸透しているように見える。我が家は元々節電をしていたので、これ以上節電のしようも無く以前にも増してこまめにスイッチを切ったりしても全然電気代は変わらなかった。
 去年、家中の電球(蛍光灯電球を含む)をLEDに変え、白熱電球を使っているのは1カ所、従来の蛍光灯は門灯のみになった。LEDは明るさも足りず根元方向が暗いのを解消できているモノが無いので、やむなく蛍光灯電球を使っているところも1カ所ある。まだまだLED電球は高いので初期出費はかなりの額だった。でも電気代を見てびっくり、部屋数は多い部類の一戸建ての我が家で、1ヶ月の電気代が8,000円台だったのである。これはクーラーを使わなくて済む時期になった頃の事で、暖房を使う時期は15,000円弱になった。で、暖房が必要なくなった今、また電気代は9,000円を割り込もうとしているのだった。
 環境問題の提言でノーベル平和賞を受賞したゴア氏だが、実は豪邸の光熱費が月に数十万円という言動と一致しない現実よりは、はるかに環境に貢献しているだろうさね。まぁ、CO2が温暖化の原因であるとか地球が温暖化に向かっているとか、それが人間のエネルギー使用問題が原因であるというまことしやかなウソ(意識的なウソではない場合も多いが)には貢献という事にはならないと思うが。少なくとも現在の日本の電力事情には貢献していると思われ。

 さてさてそのような節電列島の鉄道も、一生懸命節電しているようである。以前この雑記のどっかに書いたのだが、車内が暑いときにやたらにクーラーをするのでは無く、猛暑でも無ければ以前のように電車の窓を開ければよいだろうにと。良く「暑いところがありましたら窓をお開けくださいますようお願いいたします。車内窓開けにご協力をお願いいたします。」とアナウンスされ、乗客が一斉に窓を開ける姿が普通だった。それがいつからか一年中窓を閉め切り、むやみな冷暖房を使っていた。節電という観点よりも健康的な問題でも窓を開けるのが良いのではないかと。
 それが節電の一環としてなるべくエアコンは使わずに「窓をお開けくださいませ」になった。とても良いことだし乗っていても気持ちが良い。ただJRはそんな事は無く相変わらずエアコン依存になっているようである。
 「節電列島の鉄道も、一生懸命節電している『ようである』。」と書いたが、本気でしているのか?と疑問を感じる点も多い。うちの最寄りは下北沢駅で、井の頭線と小田急線が通っている。その小田急線なのだが、急行の上は以前は特急ロマンスカーがあるだけだった。4~5年前からだったか急行の上に「快速急行」というのが出来た。苦しいネーミングだが特急並みにかなりの駅をすっ飛ばして行く。下りで遠方に行くときはかなり便利なのだが、1時間に2~3本もあれば十分であると思う。
 ところが新宿発の場合2~3本連続で快速急行が出発することが多い。終着が唐木田、小田原、江ノ島方面と違う(途中駅で路線が分岐する)とはいえ、途中までは一緒なのだからそこから別方面行きを走らせれば良いし、やりくりはやりようがあるように思える。 計画停電が無くなったとはいえ、なんかあまりに無駄な線が多い様にも感じたりもするのだった。

食糧自給率  (2011.5.14)

 去年だったか、本屋でいろいろな本を眺めていたら、日本の食糧自給率に関する告発本があった。つまり食糧自給率が低いと言っているのはウソであるという内容のようで。目次とおおざっぱな所を立ち読みしただけなので詳細は分からないが、現在の日本の食糧自給率がかなり低いというのは、農水省(だったかな?)のでっち上げた大嘘で、本当は世界的に見てもかなり自給率は高いというモノだった。他所で聞いた別の人の意見でも、どの部分の数字を使ってどのような統計を出すかでかなり変わるのは確か、ということでもあった。
 その本の内容の真偽は分からないが、省庁がウソをでっち上げるのは実は良くあることのようで、もうそれは予算などの利権のためだと言って良い。この項では書かないが、CO2の排出量を減らさないと温暖化などで地球環境に大きな悪影響が有り、海水面が異常にあがったり様々な自然災害が増える、という論もよく見ると全く納得できる科学的な根拠が無い。省側もちゃんと調査してどういう科学的根拠でどうなるのかを調べているわけではないらしいのだ。日本のお家芸なのか、結局は利権が大きく絡んでいるらしい。
 もっともC02排出問題はアメリカの問題で有り、他の国々がどうしようがアメリカが本気で減らそうとしなければ効果は無いのだが。日本が約束してしまった達成不可能な削減量を削減できたとしても、地球規模ではほとんど何の変化も無い。もともと日本は世界的な省エネ国なので、これ以上の削減は不可能なのだ。そもそも温暖化が危険であるというデメリットだけが言われるが、実は地球の生物(人間を含む)にとってはメリットの方が大きいのだとか… (CO2削減目標は、欧州の排出量取引ビジネスの餌食になっているのは間違いないようである)
 また、何度も書いたけど、レジ袋廃止やある木材使用を止めることがエコであるなどのいくつもの間違ったエコが、利権のために創り上げられたエコ運動であったというのは実に悲しい。利用をやめない方が本当はエコであるというのはかなり多いようである。

 で、食糧自給率の問題だけど、その前述の本に出会う前から疑問に思うことは多かった。ほとんどを輸出に頼っている食材で、国内での自給率はメチャ低いということになっているはずのモノなのに「国産○○使用」というのがやたらに多く、しかもいくらでも生産されていたりするからだ。そのメーカーが国産のその食材を独占したり獲得できるルートを持っているのならまだ分かるが、無数のメーカーから同じように「国産○○使用」なんてのが出てるのは、どう見ても自給率は高いじゃないか、と感じていたのだ。なので、その本を見たときはとても腑に落ちてしまった。
さぁ本当のところはどうなんだろうか?

階段話  (2011.5.22)

 「怪談話」と漢字変換を間違えているわけでは無い。「階段」であっているのである。

 木曜日は連れ合いがひとりで経営しているエステサロンがお休みの日で、大概は介護病院に入っている母君の面会に一緒に行っている。
 今年のある木曜日のそんな日、病院のある西武新宿線の新狭山駅でのこと。新狭山駅は改札が2階にあり、北口と南口に階段とエレベーターがある。
 病院からの帰りにエレベーター(南口)に乗って上がった。エレベーターの出入り口の前は南口へ降りる階段がある。エレベーターを降りた連れ合いは、実に自然に当然のようにそのまま階段に向かって歩き始めた。「そのまま降りるんかい^^」と声をかけると、わざわざまた南口へ降りようとしている間違いに連れ合いは気づいた。
 ん~、なかなかナイスなワザである。トーシロがやったんじゃわざとらしくなる芸である^^。惜しかったのは、そのまま黙って行かせたら下まで降りていったのかどうかを見守るべきだった事だ。(後悔)

女の脳  (2011.6.4)

 よく男と女の脳の違いが言われる。
男の方が頭の中に地図が描けるとか、女の方がどうとか(思いつかなかった^^;;)。
口げんかになると圧倒的に女の方が強いけど、これは男の脳より女の方が左右の脳の連携が優れているかららしい。
 左右の脳は脳染(のうりょう)という束でつながっているのだが、女の方が脳梁が太い。そのため左右の脳の連携が高度なのである。基本的に言語脳は左脳で感情は右脳である(ま、そんな単純では無いけど)。感情的になった場合、脳梁の太い女は右脳から左脳への連絡がスムーズで、感情をそのまま言葉で表現できるが、脳梁の細い男は言葉への置き換えがうまくいかずに言い淀んでしまう。その結果圧倒的に口げんかは女の方が強いようである。

 さて女性の会話の顕著な特徴に「話が飛ぶ」ということがある。「でね、…」とか何も主語が無く、てっきりその言葉以前の会話の続きかと思ったら、全然違う以前の話をしていたりする。女性は頭の中で話題がそちらに飛んでいて、相手(たいてい男)が了解していなくても自分が納得していればOKだから、勝手に話が飛んでいるのである。
それで男は「???」となる。

 以前ネット仲間の女性とそういう話をしたら、彼女自身もそれは認めていた。そして後日彼女は別の友人たち(女性)と「話が飛ぶ」という件について話したらしい。
そこで彼女は言ったという。

 「そんなの(男が話に)ついてこい!だよねぇ^^」

 つ、つおい…

「え~~!?」じゃない!  (2011.6.12)

 テレビを見ていて、ちょっとイラッとすることがある。バラエティなどでスタジオの若い女の客が「え~~!?」と感嘆の声をあげるあれである。
 一昔前だとドリフの特番とかで、おばちゃんたちの笑い声があがっていたがあれは生の場合もあったり、後でビデオを見せて笑い声を入れたりが多かったようで「プロ」の笑いおばちゃんたちだと聞いたことがある。
 もっと昔だとアメリカのホームドラマ「奥様は魔女」の劇中で入る笑い声。あれはもちろん何パターンも録音した笑い声を効果的に入れている。そういえば30年くらい前に香港で「奥様は魔女」を見たときは笑い声が入っていなかった。だからとても違和感があった。淡々とドラマが進んでいる感じで。当時の香港は(今はどうだか知らん)広東語と英語のテレビ局があって、確か英語だったと思うが…。

 さて、今回話題にしている「え~~!?」は、なんかいい歳したブリッ子女たちが何でもかんでも「え~~!?」と声をあげているみたいで、「おまえらはアホか!?」と言いたくなってくるのである。そこは「え~~!?」じゃないだろ!というのも多いし。どこの番組でも似たような声質なので録音された声をかぶせているのかとも思うが、微妙に言い方が異なっているのはもちろん、抑揚がかなり適切な反応のことも多いからスタジオ参加のお客かとも思える。連れ合いは録音だろうという。その可能性が高いと思う。
声質は20~30代の女性だと思うが、おそらくその類いの番組を見ている視聴者層がそのあたりの女性が多いと踏んでいるのが理由か。

 まぁ別にどうでもよいことなのだが。それにかつて人気だった「おれたちひょうきん族」でスタッフの笑い声が至る所に入るのに比べたらよっぽどましか。「ひょうきん族」は、バラエティを芸人同士の宴会芸、内輪ウケにおとしめ、力量がしっかりしていない芸人を使い捨てるようになった元凶の番組だと思っているが、スタッフが自分たちで笑い声を入れるなんて最低な作り方だと思っていたし。それに比べたら「え~~!?」なんてかわいいものである。とは思うものの、やはりイラッとするぞ…。

ヤブ医者  (2011.6.19)

 ふと、ヤブ医者の定義とはなんだろうかと思った。ちなみに漢字では藪医者とも書くそうで、「藪の中」や「藪から棒」のように手探りっぽい意味合いを感じるところが「藪医者」の語源かと思ったら、「藪」は当て字らしい。

 大きな声では言えないが、下北沢は意外に名医は少ない。というより医者は多そうで少ないのだ。歯医者や眼医者はやたらにあるのだが、内科・外科あたりはあまり目立たず、いざとなったらどこにあるっけ?だったりする。もちろん歯医者・眼医者も医者であるが、各科バランスよくいるとは思えない。まぁ、自分があまりお世話にならないから気づかない面もあるかもしれないが。でも、意外なところに昔からのそういうお医者さんがいたりする。 名医が少ないというのは誤解を招くから言い換えるとすると、全体の医師の中でこちらが「やぶ」だと思っている医師が多いような感じがするのである。二度と行きたくないというところが何院もある。医師そのものに問題は無くても、受付や看護師がものすごく態度が悪いところもあるし。(態度の悪さに喧嘩になったという人も知っている…)

 話を戻すと、自分なりにどういうのがヤブ医者なのかを考えてみたら、大きく分けて二通りあるような気がするのである。
ひとつは普通に言われているように「腕」の悪い医者である。そして、腕は良いけど患者を物のように見ている(「診ている」のではない)、人間として問題のある医者である。もちろん利益優先や単に性格の悪い医者もコレに入る。これが地元にも何人かいる。普通後者をヤブ医者とは言わないかもしれないけど、自分の中では「ヤブ」と呼んでも良いような気がするのだ。普通はなんと呼ぶのだろう?
人情話なんかに登場するヤブ医者は、人は良いけど腕がイマイチだったりするが、人間的にも問題があり腕も悪い医者などはそもそも患者も来ないからやれないだろう、と思うのだけど、やれている医者がいるから不思議だったり。

 誤解無きように断っておきますが、あくまで「ヤブ医者」の話題だったのでそちらを強調する内容になってしまったが、名医と呼ぶにふさわしいお医者さんも(たぶん各科において)地元にはちゃんといますので。

今思い出しても年上   (2011.6.27)

 おそらく誰もが納得してくれる話だと思う。

 小学校の時の担任やいろいろな先生。社会人生活10年以上の人ならそんな古い話で無くても、たとえば自分がフレッシュマンだった頃の直属の上司(教育担当等)。後者の場合はせいぜい自分より2~3歳上くらいの場合も少なくない。でも自分よりもずっと人生経験豊富な印象を受けたはずである。

 小学校は母、姉そして自分も同じ地元の世田谷区立代沢小学校へ通った。6年間での担任は二人。二人目の担任は男性ですっかり禿げ上がった先生で、おそらく30代だったのではないかと思う。
 そして大卒で就職して、配属先は大阪になった。自分の教育担当は課長代理で当時37歳だった。間違いなく小学校の時の担任も会社での教育担当の人も、そのときの年齢は今の自分より年下である。ひとまわりくらい下かと。

 それはよ~くわかっているのに、どうしても今思い出しても今の自分より年上に感じる。言っている事や態度などは今の自分の方が世慣れしているはずなのに、どうしても当時の彼らの方が年上に感じる。おまけにその当時の写真を見ても、いまの自分より年上に感じたりする。今の自分より遙かに年下である彼らの写真を見ても年上に感じるのは…

 年配の方もよく言うことなのだが、自分の中身は若い頃と結局変わっていないと。もちろんそれなりに成長はしても根っこが同じで、しかもずっと自分自身とつきあっているので変化を感じにくいのか。
 そういう事で若い頃に接した年上の人が、今でも年上に感じるのか。それとも何か別の心理的要因があるのかなぁ…

 でもおもしろいことに、そんな人たちに久方ぶりに会う機会があると、そのときには前述の感覚が解消されて、年齢差がぐっと縮まって感じたりするのだよねえ。

雑記帳77< エッセイメニュー >雑記帳79