倉本聰  (2008.9.5)

 倉本聰。ご存知「北の国から」を始めとする、数々の名作を生み出した脚本家である。富良野にて脚本家と俳優を養成する「富良野塾」を主宰するなど、テレビがよりよいモノを作り出せるように、情熱を注いでもきた人である。
 その倉本氏が現在の塾生の卒業をもって塾を閉じ、テレビの世界からも身を引こうとしている。理由はジェネレーションギャップに耐えられなくなった事と、テレビ界に失望したからのようだ。
 今のテレビは「知恵ではなく知識で制作している」という氏の言葉は、ポンと膝をたたきたくなる言葉だった。制作の仕方もその通りだし、内容も知識をありがたがる内容ばかり。氾濫する番組内容に関しては、養老孟司氏が言ったのだと思うが「今の日本人は常識を雑学のことだと思ってるんじゃないか」という言葉もオーバーラップする。
 倉本氏の嘆きは、新しい時代について行けない愚痴ではない。テレビを愛するが故の製作職人の嘆きかと。テレビが良いモノをつくるように、ボールを投げ続けてきたが全く反応がないので疲れた模様。氏の発言には矛盾や反発をおぼえる人も多いとは思うけど、テレビの質の低下は間違いないところ。

 20年くらい前だったか、山城新伍氏が「見ててごごらん、あと3年でテレビからドラマは一切無くなりますよ」と危機感を訴えていた。一切なくなるというのは誇張のつもりだったろうが、それだけドラマの作り方がひどくなってきていて、視聴者から見放されると思っていたのだ。ところが逆にドラマは増えている。しかしその質は・・・。キャスティングありきのドラマ作り。コミック原作ばかりで、オリジナルが皆無になりつつある内容。そう思ってたらおもしろいことに気づいた。(もう誰かが言ってるのだろうけど)
 昔、日本の娯楽と言えば映画が大全盛期だった頃、テレビの登場で映画は衰退の一歩をたどった。そして近年、日本の映画は息を吹き返し質の高いモノがどんどん作られている。で、テレビドラマの方はどんどん質が・・・、って何か因果関係でもあるのかなぁ?地デジにワイド画面に、、、先端映像機器が泣く。

不老長寿薬?  (2008.9.10)

 数年前に無くなってしまったが、駅前に外科があった。治療の必要な怪我などは、たいていそこに行っていた。こう言ってはおかしいのだけど、昔の町医者の待合室は、妙な活気があった気がする。別に患者たちがワイワイやっていたという事ではなく、なんというか近年の患者に感じる失望感や疲労感を感じなかったというか。(やっぱり例えが変だけど)

 小学校の頃、その外科の待合室で待っているときのこと。談笑していた2人のおじいさんの片方が、ニヤニヤしながら受付のお姉さんのところへ行った。当時は受付で薬も渡していた。

「おネエちゃん」
「ハイ!?」
「若返る薬ないかねぇ」
「・・・ハハハ^^;;;;」

パジャマのポケット  (2008.9.15)

 何のために付いているの?というのは、いろんな実用物にありがち。いつも思っていたのは、パジャマのポケット。胸ポケットでさえ「いらんだろ」と思っているのに、ズボンのポケットは何なんだろ?

 この夏からガーゼパジャマというのを愛用している。ひょんな事からネット上で見つけたもので、ほとんどは女性用しか売っていないのだけど、紳士用も見つけたので買って試してみた。これがすこぶる良いのである!ガーゼ生地が三重以上になっているので、一見暑いんじゃないのか?と思ったのだが、着てみるとこれがとても快適。全然暑くない。取り立てて涼しいと感じるわけではないのに、熱帯夜でも全くパジャマが暑く感じない。身体は汗をかいていて普通のパジャマならかなり不快な状態でも、ガーゼパジャマだとその汗自体をほとんど感じない。ちょっと高価で生地の関係上縫製部分が痛みやすく、幾夏ももつことはなさそうだけど、あっつい夏の夜を少しでも快適に過ごせるのなら、決して高くはない。
 で、このパジャマのズボンは膝までの短めなのだが、両脇にポケットが付いている。これがよくわからない。少しでも涼しく過ごすためなら、絶対に要らない機能だろう。その部分の生地の重なりがとても厚くなり、洗濯でもその部分が乾きにくい。あったら便利だからつけたのだろうけど、そもそもがパジャマにポケットが不要だと思うから、なおさら何のためなのか?・・・とても近所への外出には向かないし。

未来図  (2008.9.20)

 最近時々、数十年前に描かれた「未来の世界」のイラストを眼にする。描かれたのは1960年代くらいで、未来と言ってもその頃からせいぜい50年~100年くらい先のことなのだけど、今見ると恐ろしくレトロなんである^^;
 おそらく監修したのは、科学関係に携わる方面なのではないかと思う。それに比べると手塚治虫氏を始めとする漫画家の方が、はるかに実際に近い未来を予言していたか、または今見ても色あせていない未来を描いていたりする。発想が自由な分だけ、予想もつかなかった将来を的確に捉えられたと言うことか。しかし、21世紀ってもっと進んだ科学技術の世界だと思ってたもんなぁ。

 最近はあまりそういう数十年後の未来社会を描いたようなものを見ないような気がするのだけど、気のせいだろうか?昔に比べて未来に夢を描けなくなっているからなのかな。あり得る理想的な未来を描くとしたら、おそらく今よりもずっとシンプルで質素に近い風景になってるのではないかと思ったり。今の上海のように、前衛幾何学的なビルが建ち並ぶような図は、近い将来でさえかなり時代遅れの風景になっているでしょう。公園都市の様にもっと緑と水を求めてそれを中心にした環境作りに向かうのがごく自然なのでは。ま、あくまで「理想的」な図なのであって、実際はそうはならないだろうけど。

 人間による環境破壊などについて、天文学者の松井孝典氏は「人間はおそらく、もうどうしようもなくなるところまで突っ走ってしまうでしょうね」と予測している。地球環境や社会体制等々、少しずつ世界中が協力して弊害を正していくという事は、どうみてもあり得ないだろうと。そういう事を考えて実践しようと思えるのは、物質的に豊かになったところであって、それ以前の国は「まず自分たちも豊かになってから考えるよ」となるのが普通だし、確かに今の世界情勢をみると、どう見てもその通りになっている。世界が間違いに気づいてみんなで協力して明るい未来を気づいていきましょう、というのは机上の理想論なんだろうなぁ、と実感したり。
 松本氏の話は、それで人類が滅亡してしまうかどうかは、また別の話のようで。氏は、ある程度の物質的豊かさを享受した国の中では、日本人は「もうそういうこと(等身大以上のモノ)はいいんじゃないか」と思っていると言う。やっとモノやお金ばかりじゃないだろう、と全体が気づき始めたと言うことか。

年金特別便  (2008.9.30)

 ついにやってきた。自分の年金手帳は、厚生年金と国民年金を交互に経験したため、以前は二つあった。6~7年前だったか、それではいけないことを知り、統一しに行っていたのだった。
 しかし、その時もきわめてわかりにくかったなぁ。どこへ行けばよいのかがまずわからず、行ったら行ったでどの窓口でどのようにすればよいのかが良くわからんかった記憶が。「ホントにこれで良いのか??」って感じで。

 で、特別便によると、昭和59年4月に厚生年金で資格取得。それを皮切りに、厚生→国民→厚生→国民、で抜けなく現在に至っておりまする。
 特別便の中身を見ると、記載ミスはなし。厚生年金の時は、それぞれサラリーマンだったわけだが、今はその二つの会社とも存在していない^^;; 最初の会社は東芝の子会社だったのだけど、辞めた数年後に東芝が吸収。二つ目も辞めた数年後に倒産。どちらも安定していた最後の時に辞めているという、偶然だけど。いや、危機回避本能に長けてるからか^^;

 同封の「お願い」には桝添要一厚労大臣の署名(もちろん印刷)が入っているけど、もし今回留任じゃなかったら全部印刷し直したんだろうな。そんな所で何億の無駄が出ることか・・・。

UFO減少?  (2008.10.10)

 かつて民放でUFO番組はかなりの数があった。印象深いのは矢追純一ディレクターの番組だけど、それ以外でもかなりの番組が特集されていたような。最近めっきり放映されなくなった気がするけど、何か理由があるのだろうか?かつて宜保愛子氏の心霊番組が頻繁に放映され、その真偽問題や影響などから自粛されたのは聞いた。UFO番組も自粛してるんかな?それとも特集にするほどのモノが無くなってきたのか?

 他のコーナーに書いたけど、自分もかつては完全にUFO肯定論者で結構マメに情報をあさったりしていた。今は肯定も否定もしていない。地球外星人はいて当然だと思うけど、地球に宇宙船でやってきているという点に関しては今では否定的。かつての肯定ありきの感情論ではなく客観的に考えると「それはないだろう」と思う情報がほとんどだし。
 うちには、おそらく叔父が買ったと思われる「アダムスキーのUFO見聞記」とかいう昭和20年代の本があった。超有名なアダムスキー型UFOのアダムスキー氏が書いた本で、自分が体験したUFOに関する話と写真である。現代にその写真を見ると失笑するしかない^^。あの時代なら本気にしてもらえたんだろうな、としか思えない写真ばかりで。ここにそれらの写真をアップするのは著作権などの問題があるから控えるが、決して頭ごなしに馬鹿にしているのではなく、指摘すれば誰でもわかるおかしさなのである。内容も今では普通にわかっている天文学の常識が欠落していたりする。たとえば、宇宙から見た地球は真っ白に光っていたという氏の証言がある。これは宇宙から地球を見た人も写真もいない時代であり、月を見ると真っ白に見えるから、地球も同じように見えると思って言ったのだろうと指摘されている。

 と、話がそれたけど、UFO目撃情報もずいぶんと無くなってきたように感じる。もちろん自分も昔のようにそういう情報にアンテナを張っていないからでもある。以前だったらアメリカ政府が中心になって情報を隠蔽していると言われたものだけど、単に目撃情報をほとんど聞かないというのはなんでだろう?なんだかUFOの存在自体が流行や社会現象に左右されていると感じもするのだけど。

ちなみに何度もHPで書いてきたけど、UFO=宇宙船ではない。あくまで「未確認飛行物体(何なのか正体がわからない飛行物体)」のことである。宇宙船だと確認されたら、その時点でUFOではない。だから本当の意味でのUFOは毎日無数に存在する。

テノール歌手  (2008.10.19)

 今更だけど、テノール歌手が一般に広く認知されたのは、「千の風になって」を秋川雅史氏が歌った影響なのだろう。自分はもう30年近く、紅白歌合戦を見ていないので、秋川氏を知ったのは世間一般よりも数ヶ月遅い。「千の風になって」の事は何となく聞いていたし、歌も部分的に耳にはしていたけど、それほど大ブレイクしていたとは知らなかったのだ。
 気になったのはそれ以後の活動。秋川氏が好んでやっているのか事務所やオペラ界が一般に認知を広げたいためなのか知らないけど、テノールで歌う歌でない「通常の歌」も秋川氏や他のテノール歌手が、あの独特の歌い方で歌うのを耳にするようになった。(秋川氏が元々オペラ界の人なのかどうかも知らないけど)
 正直言って自分的には「ちょっとな・・・」と思い続けている。「千の風になって」もそれほど胸にしみるとは感じていなかったし。紅白でリアルタイムで観て聴いていたら感動したのかな?
 何が「ちょっと・・・」かというと、あのように朗々と力強く(意味が矛盾するかな?^^;)歌う歌としてふさわしいのだろうか?という違和感なのだ。テノールで歌ってこそと言う歌があるだろうにと。演歌や歌謡曲に類するモノをあの歌い方で歌っている(秋川氏だったかどうか覚えていない)のを聴いたときも、かなり場違いというか違和感を覚えてしまった。無理矢理にテノールで歌っている、というか歌わされているという感じか。
 そういう意見を聞いたことがないので、みんなはさほど違和感なく聴いているのだろうか。元々、力んで歌う歌があまり好みでないというのもあるけど、そういう方面での自分の感性が貧困なのかなぁ?

ノーベル賞  (2008.10.25)

 なにやら今回のノーベル賞は、日本人受賞ラッシュでお祭り騒ぎなのはご存知の通り。で、「え?」というのが「日本人受賞者の数」だったと思う。南部教授は現在では米国籍のため「アメリカ人受賞者」の扱いなのだった。
 今回似たようなケースは中国でも。ノーベル化学賞を受賞したチェン教授は、生まれも育ちもアメリカで「私は中国人科学者ではない」と、国威発揚にもってこいだと思った中国メディアに語ってがっかりさせている。

 今回のノーベル物理学賞は、日本のマスコミは「日本人三人独占受賞」と言っているが、世界的にはというか記録的には「日本人2人とアメリカ人1人」の扱いになる。ま、日本の報道はそれを承知で、おめでたいからいいじゃないか、国民感情として日本人が3人と言うことで、という事らしいが。
 まぁ国民も報道もそれで必死になってる(日本人3人と言い張りたい)わけじゃないからそれでも良いかな、という気はする。

 ノーベル賞の根本は国籍は問わないことになっている。ノーベル賞は、ダイナマイトであるアルフレッド・ノーベルの遺言によって創設されたモノであるが、彼の遺言には『国籍は一切考慮されない』という至極当然の理念があるからである。
 オリンピックも本来は「国同士の戦いではない」とうたわれているのに、国家間のメダル争いになっている。ノーベル賞はまだそこまで落ちぶれてないけど、何年前だったか日本政府がノーベル賞受賞者を増やす方向付けを言い出したり、ちょっと違うだろ、ということに世界的になっているか。

 ちなみにノーベル賞には数学賞がない。これは数学賞を設けると、ノーベルと仲が悪かった数学者のミッターク・レフラーが受賞してしまうために、数学賞を置かなかったという説が広く流布されている。数学のノーベル賞にあたるものには「フィールズ賞」があるのだが、これは結構日本人が受賞している。数学界ではかなり重要な成果を日本人が多く上げているのである。うーむ、惜しい・・・。って、自分も国別受賞にこだわってるじゃんって?^^;

裁判員制度  (2008.11.3)

 いよいよ裁判員制度が実施に近づきつつある。そんでもって、皆が戸惑わないように、シミュレーションがいろいろと行われているのはご存知の通り。
 その内容は時々見かけるだけなので、ちゃんと指摘しているのかどうか知らないが、どうも抜け落ちてるだろ、と思う大事な点がある。選ばれた裁判員が、被告を無罪とするか有罪とするかに迷うのは当然だが、「無実」と「無罪」はイコールではないという点がいつも抜け落ちているように見えるのだけど。
 「無罪」になったからといっても、必ずしも「真犯人」ではない、という事にはならないと言うこと。逆はあってはならず、それは冤罪となってしまう。
 裁判員に求められているのは、法律的に公平に見て「罪を問うべきかどうか」のはずなのだと思うのだけど。被告が真犯人であるかどうかを判断せよ、と迫っているわけでは無いはずでは?
 どう考えても真犯人としか思えないけど、法律的に罪に問うだけの根拠(証拠)が無い場合に、冷静に判断することをもっと指導しないといけないんではないの?自分が知らないだけで、そういうのは大々的にやってるのか? 言い古されているけど「疑わしきは罰せず」というのは超重要な前提のはず。ま、法律の素人の独り言ですが。

初心者向け  (2008.11.16)

 一応イラストレーターなんぞを名乗り、たまに絵の教室なんぞもやったりするけど、それでも時々初心者向けの絵の教本を買ったりする。いわゆる技法書の様なモノである。自分は主に色鉛筆を用いた絵を描くことが多いけど、それでも初心者向けの色鉛筆技法書を、買わないまでも参考にすることもある。技法書の中でもどういうものが「初心者向け」なのかは、結構難しいところ。「初心者向け」とか「はじめての」なんてのがタイトルにあるのが、まぁ初心者向けと言って良いのか。
 どんな分野でも何かを始めるときは、基本の最初の部分が大事でしょう。自分は面倒なので最初の部分を大まかに飛ばしてやってしまうので、結局いつまでたっても中途半端なことが多い。特に水彩画などはどうしようもなく中途半端なのは、そういう理由が大きかったり^^;

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