今度は飛蚊症?  (2007.7.27)

 かつては、自分自身が花粉症であることに気づかず、世間の花粉症患者に対して「気の毒なこっちゃ」なんて思ってたりした。そして、ネット仲間に何人か耳鳴りで悩んでいる人がいるのだが、それも大変だなぁ、、と思ってたら、つい最近自分も耳鳴りだったことを知った^^;;

 花粉症の時期になると、良く行く処方箋薬局の待合室に「飛蚊症」の解説パンフレットが置いてある。それを見てみて、なんとなく飛蚊症の症状がわかったような気になった。知人にも何人か飛蚊症になって眼科へ行ったというのがおり、そういう症状になる年齢もあるんかな?なんてのんきに思っていた。
 さて先日、まぶたにできものができて眼科に行った。そのときに「子どもの時から、糸くずみたいなのが漂っているのが見えることが多い」と言うと「あぁ、飛蚊症ね。それ」とのこと。
 えっえぇ~!これって飛蚊症だったんだ^^;; なにしろ、ほとんど物心ついたときから見えてたし、この糸くずはなんで重力に逆らって上に登ったりするんだ?とか、目を動かすと中心に戻ってくるんだな、なんて観察してたりした。ほとんど気になるほどではなかったので、だれでもあるんだろうくらいに思ってたのだった。

 花粉症、耳鳴り、飛蚊症、、と、それぞれを抱えている人は大変だなぁ、と思っていたのが、全部自分も持っているものばかりだったのだ。
 さぁ、次は何だ?^^; ワクワク

「シ~~ン…」  (2007.8.8)

 何度か雑記帳内に書いた、高周波音が聞こえる現象は、ただの耳鳴りだと判明した^^;  それで気になったからではないのだろうけど、なんか少々音の要素が増えている。 おそらくストレスが原因だと思うのだけど、以前は一種類のかすかな高周波音だったのが、少なくとも3~4種類の音が重なっている。

 そんなある日、ふと思った。 かすかな高周波音の耳鳴りは、珍しい症状ではないらしいのだけど、良く静かな情景を表現する「シーン・・・」という擬音は、その耳鳴りの音なのではないのか? たしかに、文字で表現しようとすると、そういう擬音しかない。
  ふ~む、どうなんだろ? 多国語では、そういう情景を表現する擬音があるのだろか? 擬音が発達しているのは、日本が突出していると聞いたことはあるが。それにしても、自分は生まれてこのかた、完全な静寂というのを経験したことがないことになるのね^^;。

 で、いろいろ調べてみたら、やはり「シ~ン・・・」は、かすかに聞こえている耳鳴りらしい。と言っても耳鳴りと表現するほどのものではなく、ほとんどの人が何かしら感知している音らしい。

夏バテと梅干し  (2007.8.14)

 猛暑続きのこの夏なのであるが、先日の新聞記事での、ある高校の野球部のお話。
 去年までの夏は、炎天下での練習で、熱中症気味になったり酷くバテてしまう部員が多かった。しかし、地域の人か関係者の親戚が作ったんだったか忘れたが、梅干しが救世主になっていると。部員は毎日この梅干しを何個も食べる事で、すっかりバテなくなってがんばって練習が出来ている。甲子園で勝ち進む事を願って、さらにたくさんの梅干しを用意しなければ、といういかにもほほえましいエピソードだった。
 その前日ぐらいに、いくつかの用事を済ませに新宿をウロウロしていた。ほんの数時間だけだったが、痛いくらいの陽射しの猛暑だったので、なるべく地下街やビルの中を歩くようにして移動した。それにもかかわらず帰ったときには軽いめまいがして、その日はずっとめまいを覚えていた。そんな折にこの記事を見つけ、早速その夜に梅干しを数個食べた。
 そして翌朝にはすっかり復活していたのだった!ん~~!恐るべし梅干しパワー、なのか?その後も毎日梅干しを数個食べていると、確かに疲れの感じ方がそれまでより少ない。こういうときは、調子に乗って梅干しを食べ過ぎるのが自分の常なので、そこはしっかり学習して、むやみに食べないようにはしている。

 しっかし!問題は冒頭の記事。梅干しパワーは良いのだけど、その前に、炎天下での練習を控えるとか、そういう部分を注意するべきではないのか?そこまでしないと甲子園で勝ち抜けない!というのも間違ってるだろうに。死んでからでは遅い。

蔓延する過去形  (2007.8,21)

 このHPをはじめた当初の雑記帳で、店員の応対での過去形が気になったと書いた。あれから5年ほどは経っている。その後も、若い子達の間で「~~でよろしかったですか?」などの応対が広まっていて、違和感の連続だった。と、思っていると、若い子だけではなく中高年のご婦人店員にまで広まっていった。いったいどういう事なんだ?この件に関しては、そういう言い方をする方言が広まったのではないか、等々いろいろな見解を聞いたのだが、今もって正体はわからない。
 と、違和感はぬぐえないのだけど、なんとか聞き慣れてきた矢先、うちのケアマネージャーからの電話にも過去形が進出してきた。介護事業所を利用していると、毎月1回、ケアマネージャーが訪問していろいろ話を聞いたり様子を見に来たりしないといけない。その訪問日を決めるためにケアマネから電話があるのだけど、先月まではそういう口調はなかった。今回初めて「いつならよろしかったですか?」と過去形を聞いた。おいおい、急になんで???ととまどったのだけど「どうしたんですか?」とも聞けず、もしかすると電話応対のマニュアルが、今ではそういうのを普通にするようになったのだろうか?若年層から日本語が崩れていくというのは良く聞かれる評論ではあるが、中高年がそれに浸食されているのか??? そういえば、男が言うのは聞かないな…。

つけっぱなしの扇風機  (2007.9.1)

 最近の扇風機は、なにやらこざかしい機能がてんこ盛りで、「1/f ゆらぎ」なんてのはもちろん、「マイナスイオン」発生ボタンまでついてたりする。手持ちのモノも「マイナスイオン」発生ボタンがあるので、オンにしてみたけど、だからどうなん??という感じか。ちなみに、マイナスイオンは存在するのは間違いないが、それが健康に良いと証明されたことも根拠もないらしい。機種によるのだろうけど、手持ちの扇風機で「1/f ゆらぎ」をやると、適度に風が微風になったりやや強くなったりする。で、快適か?というと、結構その強弱がわざとらしくて、挙動が気になったりするのだった^^;
 子どもの頃の扇風機は、もちろん余計な機能はなく、タイマーがついていたら高級機の部類ではなかったかと。数年前まで40年以上使い続けていた、おそらく当時の高級機は、45分間のタイマーがついていた。昔は1時間タイマー付きなんてモノは、見たこと無かったな。もちろん、普及型の扇風機はタイマーなんぞは無かった。子どもの頃にあったもっと古い時代の扇風機だと、羽も鉄製で、1・2・3のボタンの1が強風なのだった。強風にすると「おまえはスクリューか」というほどの風を切る羽音を立てて回った。で、激しい音の割に風は来なかったり。

 さてさて、子どもの頃には一般に言われていたように記憶するのだけど、夏に、暑いからといって扇風機をつけっぱなしで寝ると、そのまま死んでしまうぞ、と。だから、寝る前には必ず消せ!と。
 確かに、寝ると体温は下がっていくし、それに加えて風に当たって冷えると身体には相当悪い、という事だったのだろう。「死ぬ」は脅しだったのだろうけど、結構本気にしていた^^;
 小学校時代のある夏の朝、朝早く目が覚めると扇風機が回っていた。消し忘れて寝てしまっていたのだった。「ひぇ~!」と焦ったが「おぉ、死んでない」と安心したのだ。まぁ、さすがにある程度の年齢になると、いくら何でもそれで必ず死ぬことは無いとは分かっていても、やっぱり何かしら心には引っかかっていたのね。
 近年だったら、つけっぱなしで寝ることも珍しくないだろうけど、それはやはり当時は熱帯夜なんて滅多になかったし、東京で真夏でも明け方は肌寒かったし。日中で32~3度もあったら、厳しい夏だったような記憶も。

 あ、でも、扇風機をつけっぱなしで寝て、朝になったら死んでいた、というニュースを当時聞いたような気も・・・

ダライ・ラマと科学  (2007.9.20)

 言わずと知れたダライ・ラマ14世である。現在はインドのダラム・サラに亡命政府を作って、そこに住んでいるチベット国の最高指導者である。最高指導者と言っても、政治権力としての意味ではなく、チベット仏教としての最高指導者というか。何故に亡命政府を築いているのかとか、彼の生い立ちやチベット仏教としての意味合いなどは他書に譲るとして、ノーベル平和賞受賞によって、一般の人々にも広く知れ渡る存在となったのではないでしょうか。
 ちなみにダライ・ラマというのは、モンゴル語で「海のように深い叡知」を意味し、過去にモンゴルから送られた名前なのである。(モンゴルもチベット仏教国)

 自分がダライ・ラマを知ったのは、15年くらい前のニューエイジブームの時だったと思う。最近でいうスピリチュアルブームに近いが、もっとドロドロしていたような。歴代のダライ・ラマは、先代のダライ・ラマの生まれ変わりであり、それが連綿と続いていることになっている。ダライ・ラマが死ぬと、その生まれ変わりを探して、数々のテストの末に認定するのだ。なので、ダライ・ラマ本人の人間的な魅力よりも、そういうスピリチュアル的な面がもてはやされていたように感じる。自分的には、ダライ・ラマ本人については、特に本を読んだこともなくよく知らなかったのだけど、笑顔のすてきな人だという印象だけはあった。
 その後、モンゴルやブータン等のチベット仏教文化圏の事に興味を持ち、その関連でダライ・ラマに関するものもよく読んだ。そして、人間ダライ・ラマの魅力に惹かれたのだった。一番印象的だったのは彼は「心の科学者」であると言うことだ。もともと仏教は宗教と言うよりは哲学であり、心の科学だと思っていた。そういう本質からそれてしまった宗派は多いけど。科学的というのは、ある事柄に対して客観的にそのあり方を分析して、誰にでもどこでも理論的に示すことができるということである。
 ダライ・ラマ自身が科学に大いに関心があるのだが、それがチベット仏教を厳格に学んだせいなのか、もともとそういう資質だったのかはわからない。でも、心に関して語るとき、とても理路整然としていて曖昧ではなく、実践的であると感じる。「すべては愛なんです」などという、抽象的な綺麗事を語るのではなく、どのような場合はどのような心の持ち方が必要で、それはどういう風に実践すれば「効果的」なのかが語られている。長期間インタビューした精神科の専門家も、心に関してのとらえ方はかなり高度で、その方面の西洋医学を凌駕している部分も多いと語っている。
 ダライ・ラマに心酔する多くの人は、神秘思想的なあこがれ方をする人が多いようで、会いに来る人でも「奇跡」を起こしてくれることを望む人が多いという。でも氏は、そのような奇跡を行うことはできないし、意味のないことであり、いつも困っていると語っている。

 面白いのは、世界的な天文学者、故・カール・セーガン氏との対談である。
「私(セーガン氏)はこれまで宗教指導者たちと神学的な議論をしてきたが、そのなかでしばしば尋ねたことがある。それは、もし中核となる教義が科学によって反証されたらどうするか、ということだ。この質問を現在の第14世ダライ・ラマに投げかけたとき、彼はためらうことなく、保守的な宗派や根本主義の指導者が誰も言わなかったようなことを言った。ダライ・ラマは、『そうなれば、チベット仏教は変わらなければならないでしょう』と言ったのだ。『生まれ変わりのような、真に中核となる教義でもですか?』と私は尋ねた。『そうです』とダライ・ラマ。」
(カール・セーガン著『カール・セーガン科学と悪霊を語る』≪後に『人はなぜエセ科学に騙されるのか』に改題≫より)

 たまに気持ちが沈んだときや、藁をもつかみたいようなとき、ダライ・ラマの教えの本を読みたくなるときがある。教えと言ってもチベット仏教の教えの書ではなく、どのようなときは、どのように考えて心を豊かにするべきなのか、を語っているものである。一応チベット仏教の最高指導者であるから、特有の輪廻生転についても語るときがあるが、一般の人に語るときは、他宗教や無宗教の人にも役立つことを語っている。最も大事なのは「慈悲心」だと語っているが、輪廻からの解脱よりも、まずこの人生の中でいかに心を豊かに保って(慈悲心をもち)、幸福になるかが大事なのだと。その分析や方法論が具体的で即役立つものばかりなので、そういうときに読みたくなるのだと思う。念仏を唱えなさい、祈りなさいとか、無宗教の人にとってはそれが何になるのだ?と言うようなことは一切言っていない。「慈悲心」が最も大事だという時でも、ただ大事なんだと抽象的に言うのではなく、その理由と効果やどうすれば慈悲心を育てることが出来るのかが、客観的に分析されて語られている。
 また、自分が他人に与える教えでも、実際にはダライ・ラマ本人が実践できていない(人間であるので、理想通りに実践できないことが多い)こともあり、それに関しては、素直に自分で認め「なので、私はこの事に関して人に言う資格はありません」と言ったりしている。
 自分は文化としてのチベット仏教には大いに興味はあるが、別に信仰しようと思っているわけではない。氏の教えが客観的にとても役立つのだ。
 ちなみにダライ・ラマは、氏にとってはチベット仏教が最も肌にあう適した教えであるが、チベット仏教が地球で最高の宗教であるとは言っていない。他の宗教であっても、無宗教でその人なりのポリシーであっても、とにかくその人が真に幸福になるために役立つのであれば何でも良いのだと言っている。

 ところで、自分がここまでのような記述を昔に読んだら、「科学万能主義かよ!」と反発しただろう。同じ反発心を覚える人の多くは、おそらく「科学」=「現代科学信仰」というステレオタイプがあるのだと思う。その違いに明確に気づいたのは、ここ数年のことかと。「科学する心」と「現代科学信仰」はまったく違うことなのである。正しい「科学する心」は、真実を追究する純粋な心であり、そのためには疑うことも大いに必要になる。「本当にそうなのだろうか?」「他の可能性はないのだろうか?」と疑う心である。
 ダライ・ラマはそういう意味で「心の科学者」だと思ったのだ。人間の心の本質はどういうものであって、その作用や役割、ある事柄に面したときの心の反応を、客観的にとらえて分析している。
 話はそれるけど、前述のカール・セーガンの書(絶版)は、科学心を持つことの大事さを熱弁している。神秘的な事象を頭から否定しているのではなく、安易に信じ込んで人生を台無しにしてる多くの人を憂い、死期を悟ったセーガンの人類への遺言ともなっている。頭から否定しているのではないという証拠に、もし本当に宇宙人がUFOで飛来して地球に来ていることが証明されたら、そんなに嬉しくてワクワクすることはない、真っ先に会いに行きたいと、マジで言っている。

 さて、ご存じのようにダライ・ラマは、1950年に中国がチベットへ侵攻し大虐殺をしたときに、インドへ亡命した(当時15歳)。侵略や虐待は今でも続いており、亡命政府として中国と交渉しているのだけど、被害者ではあるが慈悲心を持って問題を解決することを身をもって実践している最中なのである。

自販機の釣り銭  (2007.9.24)

 たまに目にする光景だが、ホームレスのおっちゃんが、自販機や公衆電話の返却口に指をつっこんでいる光景。もちろん、忘れていった小銭があるのではないか、と探しているのであるが、結構集まるんじゃないかなぁ、と思ったり。
 実は、釣り銭の必要な買い方で自販機で飲み物を買うと、かなりの確率で釣り銭が多いのだ。もちろん、機械が間違えて多く出しているとは考えにくいので、前の客が忘れていったのだろう。日本では、買い物したときに釣り銭を間違われると言うことは滅多にない。アメリカ辺りは間違いがひどいらしいが、ズルをしているのではなく、暗算が出来ないからのようで。
 で、日本はそんなもんだから、釣り銭をしっかりと確認しないで仕舞う事が多いのだろう。自販機では、すべて取ったつもりでも、一枚くらい取り損なったりするのは大いに考えられる。でも、確かめないから気づかないのだろうね。単に釣り銭を取るのを忘れているのも多いだろうけど。
 先日も、120円の飲料を買うために150円入れたら、返却口に130円あった。前の客が100円玉を置いていったのだろう。同じように、520円入れたら釣り銭が100円玉5枚もあった、というのは今までに何度もある。残っているのは圧倒的に100円玉が多い。そんな感じで100円玉が余計にあった、というのがおそらく今までに10数回以上は経験しているかな。そんなに自販機で買っている方でもないのに。もしや、こんなところで運を使い果たしているのか?^^;; それに自分自身も、釣り銭を取り損なってる事はあるんジャマイカ?・・・


この項をアップした翌日、飲み物自販機で120円入れて買った。つまりおつりはないのだけど、もしやと思い返却口に手を入れたら30円入ってた。^^; 前の客は150円入れて、そのまま去ったのね。

先生へのお礼?  (2007.9.28)

 絵画教室に通っているという人の話を、以前知人づてで聞いた。耳を疑うような、でもいかにも日本的なお話だった。

 その人は、とある公募展に入賞した。同じ教室からも何人か応募したり入賞したりしていた。本人は普通に喜んでいたのだが、他の生徒から思わぬ事を言われて、その世界のあり方に大いに疑問を持ちショックを受けたらしい。
 なんでも、入選したら先生に「包む」のが常識なのだという。そんなことを知らないその人は、「非常識」扱いされたらしい。それどころか、先生の展覧会に行ったときはもちろん、先生が生徒の展覧会に来てくれたときも、当然「包む」のだという。包むのがいくらなのかは知らないが、そんなおかしな事を当たり前だと思っている世界の事、当然数千円と言うことはないでしょう。おそらく数万から10万くらいではないかと。
 また、先生の展覧会に行ったときは、生徒がどんどん買うのだそうだ。それもどうなのだ?本当に好きで欲しくて買うのなら良いけど、慣習として買うのなら本末転倒というか、なんという狭い世界なのかと。

 自分の個展の時、ご祝儀をくれる人はたまにいる。本当に心からのお祝いの気持ちであって、数千円の世界なのだ。それでも、やはり気はとがめる。ご祝儀代わりにポストカードなどの安価なものを買ってくれる人は多いけど、その方がすっきりするし。でも、この場合は気持ちの問題なので、有り難く受け取ってはいる。
 もし、うちでやっている教室の参加者が展覧会を開いて、そこに赴いたからと言って「包まれ」たら、とても受け取るなんて事は出来ない。その場合だったら、こちらからお祝いする方が当たり前であって、こちらがもらう根拠など微塵もないでしょう。くれるというものなら、たいていはもらいはするけど、そういう意味のわからないものをもらうほどの神経も非常識さも持ち合わせてはいない。幸いなことに、まわりにはそういう人はいなくて、そんなときはせいぜいスナック菓子をくれるくらいだと思われ^^;

 家元制度が内情がどういうものか知らないけど、こういう事をやっているのかなぁ?全然本来の活動(?)とはかけ離れているだろうに。誰でも普通に楽しめば良い絵の世界を、特別なものにしてしまっている日本の現状って、こういう事も影響してるのかなぁ?そもそも、生徒が入賞なんかしたら、それだけで先生にとっての最大の報酬になっているはずで、裏でこそこそとあんなことをやるのを普通だと思っている神経が・・・。教室が無料奉仕になっているのなら、まだわからないでもないけど。
 金銭の授受というものを汚いといっているのではなく、その根拠とやり方の問題なのだよね。

外国人の関西弁  (2007.10.3)

 新宿を散策していると、最近はやたらに観光の外国人がいる。そして先日は、その外国人の関西弁を何度も聞いた。

 とある喫茶店に入ると、隣に二人の外国人の男がいて、英語で会話をしていた。一人は韓国系でもう一人はゲルマン系にみえた。どちらも英語が母国語ではないようで、特にゲルマン系の男はなまりがあった。
 しばらくすると、そのゲルマン系の男がハッキリと関西弁に聞こえる言葉を発した。
「一緒やなぁ~!(^o^)/」
・・・どういう英語だったんだろ?^^;;

 その1時間後、新宿西口を歩いていると、歩きながら携帯で話している中国人のおばさんがいた。相手も中国人らしく、なにやら中国語で話していた。中国語といっても標準の北京語ではなく、香港辺りの広東語に聞こえたのだが、突然、
「歩いてもどもならん、あちき ┐('~`;)┌」
と、ハッキリとした関西弁もどきを発した。女なので「あちき」という言葉遣いは間違っていない。^^

なんだかどちらも、「ぶらり途中下車」での山形弁ダニエルみたいな、関西弁ペラペラ外国人タレントみたいだったぞ。^^;


 そういや、ビートルズの「イエロー・サブマリン」の曲中、間奏で誰かがシャウトしてる所があるんだけど、とてもハッキリしたなまりのない日本語で
「おっさんが屁こきまっせ!」
と聞こえる。^^;;

ドン・キホーテ  (2007.10.7)

 先日、渋谷のドン・キホーテに入った。実はドン・キホーテに入ったのは初めてだったのだ。こう見えても東京生まれの東京育ちで、渋谷や新宿などは、小学校の頃から友達と普通にウロウロしていた地域である。チャリで繰り出すことも多かった。
 でも、よく勘違いされるのは、東京っ子は東京の先端のいろいろな事に通じていると。実態は、そういうことをよく知っているのは、外部から東京に遊びに来たり移住してきた人だったりする。自分も地元の下北沢のお店のことはよく知らない。多くのお店は、外から遊びに来た人を対象にしていて、地元住民にはうざったいものが多いからで。
 自分が無目的になんとなく入るのは本屋が多く、ドンキ的なところは、よほどでないと入らない。百均でも、よほど必要で買おうと思ってるものが無いと入らない。別になんらかのポリシーがあって入らないのではなく、特に入ろうと思わないだけなのだが。で、今回ドンキには、「ここにあるかな」というものを探しに入ったのである。
 入りなれた人には「だから?」なのだろうけど、いやいやいや、うわさ通りの混沌さ。なんかドラッグをやったら、こんな風になるんでは?という雰囲気を受けたと言ったら言い過ぎだろうか。飲み会などで酔いが覚めないうちにみんなで行ったら楽しそうだけど、素面の日中にさまよい込むのは遠慮したいという感じだったというか。なんかお上りさんが都会に圧倒されている感想みたいだな^^;;
 別に敵対心も持っていないし、悪いところだとも思っていないのだけど、なんかああいう場所にすっかり行き慣れて、何とも思わなくなるのは、どこか怖いような気もするのだった。

 ドンキについて、東京に住み着いているアメリカ人哲学者が本に書いていたことが、ピッタリの表現だった。

『都会(東京)に中途半端なスペースが残されていれば、百円ショップや千円均一の洋品店、ユニクロ、自動販売機コーナー、コンビニなどがすぐに出現する。小売店の新しい姿として登場したドン・キホーテは、こうしたショップの「やんちゃないとこ」だ。でも、縁日のようなドン・キホーテに比べたら、街角のコンビニも禅の瞑想の部屋に思えてくる。』
(マイケル・プロンコ著『僕、トーキョーの味方です』)

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