高校の文化祭  (2005.12.26)

 高校の文化祭のお話。自分は川崎市にある法政二高の出身なのだが、法政二高の文化祭は当時、面白くない文化祭のワーストワンに選ばれていたと聞く。所在地は都内ではないので、関東なのか私立高校の中での選出なのか、その辺は不明だけど。そして、兄弟校の法政一高は面白い文化祭ベストワンだったとか^^;。TBSで夕方にやっていた「銀座NOW!」という番組内でのランキングじゃなかったかな?

 自分は愛校精神は持ち合わせていないので弁護するわけではないけど、要するに二高はまともな文化祭をやっていたのだ。はた目に面白いようなお祭り文化祭ではなく、同好会ならその研究成果を発表しているような「文化」祭だったのである。
 もっとも、生徒がまじめだったからではなく、学校側の規制がきつかったのである。校則が厳しいとか先生が厳しいと言うことは全くないのだけど、生徒が自由に文化祭をやっていたという感じではなく、学校側の許可が出ないモノはできなかったのである。また、生徒側もそれに反発して何かをやろうという気力もなく、あぁそうですか、はいはい、という感じだったかも^^;。
 そういや体育祭も、生徒側はまったくやる気がなく、しょうがねえなぁ、、、という感じでトラックに集まり、ほとんど内容も盛り上がらず、唯一盛り上がっていたのは、障害物競争(?)で水に落ちるやつだけだったのだった。(その水回りでだけ盛り上がった)
高校の体育祭なんかに見学に来る父兄などの部外者もほとんどいなかったし。卒業後体育祭は廃止になったという噂を聞いたけど、さだかではない。
 そうそう、自分が在校中は修学旅行も無かったのである。なんでも、以前に自粛したままずっと中止されたままで、自分が卒業して数年後にフッカツしたとか。
 高校のずっと昔の先輩に、巨人のV9戦士だった柴田勲氏がいるのだけど、氏の活躍で甲子園大会を征した年、修学旅行先の売店で生徒が買い物をした。その時列車の発車ベルが鳴り、焦って思わず代金を払わずに行ってしまったとか。甲子園で学校が有名になっていたし、万引き事件にもなってしまい、その後自粛していたと聞く。

 さて、二年の時だった。文化祭にクラスで何をやるか?を決めているとき、数人が「ライブハウスやろうぜ」と言った。担任は言葉になまりのある化学の教師だった。ライブハウスがなんぞやなどは知るよしもなさそうな世代でもあった。「ぁ?ライブハウス??小屋おっ建てんのか???」。どうやら「ハウス」の部分だけは英語の意味を訳せたらしい^^;;


みんなが待ってた?  (2005.12.28)

 なんだか理由はわからない違和感というのがずっとあった。テレビや各種のイベントの宣伝などを見るたびに感じていたように思う。
 最近、「3年B組金八先生」のスペシャルがあるということで、その宣伝をよく眼にするのだが、それを見て違和感の原因がわかったように感じる。

 今回の金八先生のスペシャル番組は、シリーズ7のスペシャルのようなのだが、その放映にあわせて、シリーズ7の再放送をTBSは怒濤のごとく放映している。午前午後に1回ずつ、つまり1日に二度も再放送を流している。TBSにその傾向が目立つ気がするのだけど、人気番組のスペシャルや新シリーズにあわせて、過去のシリーズを一気に再放送したり、そのための特番を組んだりする。
 ひどい場合だと、、というより、もうそれが普通になってしまったが、ニュース番組の一部にそのドラマやイベントの出演者を総動員しての宣伝が入る。
かつてフジテレビで「タスマニア物語」を作ったときに、もうその年の10大ニュースのトップがフジテレビでは「タスマニア物語」だったのではないか、というくらいの異常さだったのを思い出す。フジ系は、紙面も放送も芸能に特化してる印象なので、そういう特殊なところもあるだろうと見ていたが、今はどこもかしこもか。

 そういうのを見ていると、まるで視聴者のほとんどがそれを楽しみにしていると思わせたいかのような印象で、それがずっと違和感だったのだと思う。人気番組にはちがいなくても、10人に一人もはまっているわけではないし、いろんな視聴者がいろんな分野のモノを楽しみにしているのに、特定のモノにターゲットを向けさせすぎのように思うのだった。
 その放送局の他の分野の番組を楽しみにして、そちらをもっとしっかり作って欲しいと思う視聴者も多いだろうけど、そんなこともおかまいなく、いわゆる「売れ筋」でこびているというところか。

 CDアルバムが、特定のミュージシャンのモノばかりが「異常」に売れるというのもおかしいだろと思っていた(最近はその傾向は無くなった、というよりCDがそれほど売れないのだと思うが)。大衆側の選択の狭さもおかしかったけど、供給側のターゲットの絞り方もやはり異常で。
 要するになんでもかんでも効率化で、メリットの見込めるモノに対して異常にエネルギーを注いで作っていると言うことなのか。ああいうエネルギーの注ぎ方で番組を作っていると、タダでさえレベルダウンを感じる放送制作のますますの空洞化を感じてしまう。


寒かった年越し  (2006.1.3)

 この冬は、暖冬予想を完璧に覆して寒い。大晦日も、午前零時のカウントダウンに向けて、どんどん気温が下がっていった感じがした。そして、元旦はとても寒かった。

 ふと記憶がよみがえったのだけど、子供の頃は年越しは、いつもとても寒かったような気がする。と言っても、午前零時の年越しは家の中にいて、どこかへお参りに行ったわけでもなく、その頃の家が昭和初期に建てられた家だと言っても、すきま風だらけで寒さの厳しい家屋だったというわけでもない。
 でもなんというか、身の引き締まる寒さが記憶に残っていたりする。あれはなんだったんだろう?と考えて、合点がいったことがある。

 近年、年末年始にめっきり、普段以上にテレビを見なくなったのだけど、今でもNHKの「ゆく年くる年」はかかさず見ている。23時45分に始まって、日付が変わって年が明けてのせいぜい0時15分くらいまでだけど。
 以前は民法も合同で「ゆく年くる年」をやっていたけど、最近は各局バラバラにいろんなものをやっている。NHKだけは、十年一日のごとく毎年同じパターンである(でも自分は好きだけど^^)。
 各地の年越しの様子を淡々と映し出し、年が明けるとどこぞのお寺の鐘をつく場面と、あちこちの参拝者の様子。子供の頃から、ほとんど同じ調子で毎年変わらない。
 その場面は、旧来の年越しの行事や、昔ながらの儀式で年越しを行う庶民の生活を映し出していて、真夜中の寒さの中、古民家風で寒そうな雰囲気だったり、野外で白い息を吐きながらの場面だったり。そういうのを毎年見ているので、零時の真夜中の寒さを映像として記憶に沈めてきたのではないかと。

 ああいう映像が好きなのは、数少ない正月の雰囲気を味わえるからだし、なんとなく新年を迎えた気分の引き締まりを感じるからでもあったり。まぁだからといって、個人的には新年の抱負とか、そういうものは毎年のごとくまったく無いのだけど^^;;。


一万円札お断り  (2006.1.7)

 地元のパン屋で、いつ行ってもレジのところに、釣り銭が不足しているので高額紙幣はなるべく出さないで欲しい、というようなコメントが貼ってある店がある。本来、小銭はちゃんと用意しておくのが店のつとめだけど、まぁまれには高額紙幣を立て続けに使われたなどで、釣り銭がピンチの時があるだろう。んでも、いつ行ってもこれが貼られていて、そのワープロで作られたコメントもいつもそこに貼ってあって古びている。ということは、その店は怠慢であります、と宣伝しているようなもんなのだ。

 最近は、ほとんどお目にはかからないけど、以前は高額紙幣を出すと「細かいのありませんか?」と聞かれることもあった。無いから出しているのだけど、たいていの人は財布の中身を確かめたりする。確かめると言うことは、あるなしにかかわらず高額紙幣を出していると言うことでもあるのか、無いから出したのだけど、聞かれたから条件反射で確かめてるのか。
 どこだったか忘れたけど、あるコンビニでは最悪なコメントが貼られていて「釣り銭不足のため、5千円1万円札はご遠慮ください」と書かれていた。
「何様!!??」である。
もちろん、何も買わずに店を出た。

 かくいう自分は、釣り銭は不足しないようにするのが店の責任だ、と思いつつも、なるべくぴったりの代金を出そうとする。小さい金額で千円以上のお札を出さねばならない時でも、例えば745円だったら、1045円とか1050円とかを出そうとする。どうしても1万円だけを出さざるをえなくて、しかも前の客も1万円だった時は、妙に申し訳ないような心境になってしまうのはなんだ?^^;


ちてなさん   1/ 7(土) 12:24
1万円札お断り・・・お客様の立場であれば、 すごーくお気持ちわかります・・。
駅のキヨスクで働いてた事があるのであの「お断り」の張り紙を張るのも 「小銭はないですか・・?(無いですよね?でも聞かないといけないのよ~あれば出来ればください、小銭を。。・)」という、気弱な心の声を振り絞って伝えると5人に2人は小銭あったりするんです。
勿論たずねると「無いから出してるんだろ、馬鹿やろー」と怒鳴られ悲しい思いもちらほら・・。
105円のガム1個で1万円を出されると泣いちゃいます。気持ちはわからなくもないのですが、どうしてもはらはらしちゃいます。離れられないので。とうとう無いときは、自分の財布から崩してましたし。
なんだかあの緊張感・・・懐かしいですw


店長のオススメ  (2006.1.9)

 中華料理などの食堂にはいると、メニューに「店長オススメ!」の料理があることがある。たいていは、せいぜいメニュー全体で3~4個なのだけど、およそ3分の2にオススメマークがついてる店がある。
そこまでされると、「残りの3分の1はオススメ出来ません」という印象なんだが…^^;


不良品の友?  (2006.1.12)

 なんだか、人一倍「不良品」に出会う確率は高いのではないか?という気がする。こないだ書いた、暖房機の故障にしてもそうだし、もっと以前に書いた漢字変換ソフトのATOKの異常な動きにしてもそうだったし。家電製品やパソコンを買っても、調べても他ではほとんど再現性のない故障の仕方をするケースも多い。
 巡り合わせが悪いのか?という気もするけど、ある時それがかえって自分の実になっているという事にも気づいたり。そういう不具合があると、まず自分で直そうとするのである。修理に出そうにも、原因の特定が困難なケースが多いのと、修理の対象にならなかったり、不具合の再現性がない事も多かったりするし、何よりも自分でやりたくなってしまう。^^;
 それで直ることも結構あり、その結果そのものにやけに詳しくなったり、直すどころか作れるようになるケースも多いので、実になるのである。

 運命論者なら、そういう事のために(自分の実になる事を勉強するために)そのような珍しい事柄が自分に起こるのだ、と言いそうだけど、自分はそうは思っていない。そういうものは意味があって起こるのではなく、起こった事実に対して自分がどう意味をつけていくかだと思っているからなのだ。
 他人はどうなのか知らないけど、ま、本当に自分にはそういうのが多い気はする。それとも、自分の性格のためにそういう不具合が気になって、人一倍見つけてしまうのかも知れないけど。

 作り物を始めてから弦楽器を作ることが多くなったけど、これもそういうことで身に付いた技術なのだった。
 以前、モンゴルの馬頭琴を買った。最近は日本でも買えるところが増えたけど、その当時はまずほとんど無かった。当然、メンテナンスのできる人を見つけるのは困難であった。そして、弦を調整する部分が壊れた。モンゴル国の馬頭琴は、木工的に対処できるのだが、内蒙古(中国内蒙古自治区)仕様のモノだったので現代的に改良されていて、弦を調整する「糸巻き」に独自の金具を使っていた。それを手に入れることは、不可能に近かったので、どうにもならなかった。同じ型の馬頭琴は購入できるので、それを買って交換することはできるけど、そしたら交換されてしまった方が使えないので意味はない。
 また、馬頭琴は弦が馬の毛の束なのである。 内蒙古式はナイロンの束を使うが。それを交換するときも、やってくれるところは無い。バイオリン職人に、バイオリンの弓の毛の交換の仕方を教えてもらって(弓も馬の毛の束)、何とか自分でも同じ事ができるようになり、馬頭琴の弦の交換もお手の物になった。
 糸巻きの金具が手に入らなくて修理できないので、似たような楽器を作れないかとあれこれ調べて、同じ二弦の中国の二胡に目が留まった。同じように擦弦楽器(弓で弾く)であり、楽器の進化の系統は同じなのだった。しかも、二胡は意外に簡単に手作りできる。それで何台も試作し、後には教室で希望者に工作もさせたりした。
 その二胡の構造や作り方がわかると、馬頭琴のメンテナンスにも大いに役立ったのだった。
しかも、このサイトのWebギャラリーの「作り物」でも紹介している、竹やひょうたんのギターも、その時の技術の延長なのだった。

 ちなみに、金具の壊れた馬頭琴のその後である。現代型の内蒙古の馬頭琴は、世界的な馬頭琴奏者が改良したモノなのだが、その時に改良に尽力して作った工場の息子だという人が日本に住んでいた。たまたま人づてで知り合ったのだけど、その人が長いことかけて金具だけを日本に輸入してくれた。あいにくサイズが合わなかったのだけど、本体の木を削ることでなんとか修理して使えるようになったのだった。その後、一番欲しかったモンゴル国型の馬頭琴を二台手に入れたし、何台もあっても使われないのは忍びないので、内蒙古型は、とある大学のモンゴル研究会に寄付した。

 というわけで、他のケースでも珍しい不具合が自分の実になることが多い。珍しいモノが好きなので、珍しい不具合に見舞われると思った方が当たってるのか?^^;;メモリーの増設・交換くらいしかできなかったのに、パソコンを自作するようになったのも、どこに聞いてもよくわからない極めて珍しい故障の仕方をして右往左往したのが発端だったんだよなぁ……。


どれにしようかな?  (2006.1.16)

 正月のテレビ番組で、県民性を話題にしたモノがあった。一部を見ていたのだけど、その時にやっていたのが、複数のモノを選ぶ時のおまじないだった。そのおまじないで「どれにしようかな?天の神様の言うとおり・・・」までは、日本中ほぼ同じで、その後に各地域での特色が有るというモノだった。

 ちょっとまて、共通と言われている最初の部分で、もう自分が知っているものと違っているぞ。自分が子供の頃口にして、おそらく友人達も同じだったのは、

どれにしようかな?天神様と神様の言うとおり まだ決まりません もう決まりました!

で、最後に指さしたモノを選ぶ。天神様と神様の部分は逆で「神様と天神様の言うとおり」だったかも知れない。
 この辺の地域だけなのか、それとも友人達とはこういうものを口にしたことが無く、親から伝わっただけなのかは定かではないけど、ん~~、なんか気になる。


ビジネスチャンス!?  (2006.1.18)

 先日ラジオを聴いていたら、来年度からの介護制度改正に伴って、車イスを作っている会社にはビジネスチャンスが訪れているそうだ。細かいことは聞き流してしまったけど、要するにいろいろな車イスを作って参入するチャンスがあると言うことなのか?

 またかよ。。。という印象。ユーザーに本当に良いものが、いろいろ出てくるのは良いことだと思う。介護事業は奉仕活動ではないので、利益を出さねばならないのは当然である。しかし「ビジネス」だの「チャンス」だの、いい加減にそういう観点からの考え方しかできんのか。

 4年前に母親が介護を受けることになったとき、近所にはたいしたデイサービスは無かった。それぞれが小さいので、いろんなパターンの被介護者がいても一緒くたのサービスで、2度ほど通った母親は嫌気がさしてしまった。メニュー(毎日のプログラム)を見たこちらも、ちょっとこれは行かせるのはかわいそうだ・・・・、という印象であった。
 数年後、デイサービスの施設も増え、以前通ったところもサービスの質も幅も良くなったという。競争が激しくなって努力したためだという。介護施設の人がそう言っていたのだけど、おそらくその通りなのでしょう。
 内容が良くなるのはとても良いことだけど、問題はその動機なのだ。競争が無かったら努力する気はなかったのか?原動力はやっぱり経済的な観点なのか?という事なのだ。

 自分は、何でもかんでも民営化というのは反対である。結局は経済優先主義の産物にしかすぎず、民営化した方が良いものもあるけど、民営化すべきでないものだってたくさんある。
 同じ良くなる様に見えることであっても、出発点の動機がどうなのかで絶対違うはずなのだ。


日の動き  (2006.1.20)

 普段は、地球の自転の動きを意識することなんかまずないが、たまに日の動きでそれを感じることがある。
 影の動きを眺めていると、太陽の動き、すなわち自転というのは結構早いことに気づく。地球の赤道の円周はおよそ4万キロ。それが24時間で一周してしまうのである。時速1667キロだ! どえらい速さなのである。自転はほぼ等速度運動なので、その上に立っている我々は地面が止まっているように感じるが、普通なら吹っ飛ばされるとんでもない速さである。と言っても、それは単純計算での赤道のもっともふくらんだ部分での速さであるが。

 昨年の秋、母親を皮膚科に連れて行った時、待合室から表を眺めていた。皮膚科はスーパーの裏にあり、午後遅い影が裏の壁に伸びていた。ぼーっと眺めていると、少しずつ影の長さと位置が変わっていく。そういえば、以前は旅先でそんなものをよく見ていた。
 北海道への旅は、初めての時が晩夏だったが、その後はいつも真冬だった。何をするでもない、ただ旅に行くだけなのだ。観光地へ行くでもないし、わざわざ北海道まで行かなくても良いような行動をとってたりする。
 帯広近くの池田町へよく行ったのだけど、そこへ行くとよく帯広に出てブラブラしていた。帯広の喫茶店で、ボ~~っと太陽光線で出来る影の移動を眺めていたことがある。あたたかい窓際でコーヒーを飲み、ただ時間をつぶしているのだ。そんなときに眺める影がなんとなく新鮮だった。50cm近くの距離を影が移動していくのをただ眺めていたと思う。他の人、特に旅行者からすれば、とんでもない時間の無駄なのだろう。でも、自分にとっては至福のときだったりする。


バッティングセンター  (2006.1.23)

 好きでよくバッティングセンターへ行く。行くのはもっぱら、駒沢東京オリンピック公園近くの施設。あちこち行ったけど、ここが一番打ちやすい。機械の手入れも良いし、何より広く、左右打席を備えた打席が多いのだ。元々は右投げ右打ちだけど、ある時に左で打ってみたら打ちやすく、それ以来左右でやっている。

 どこかにも書いたと思うけど、自分は野球そのものは好きだけど、プレーをするのはさほど好きではない。ひとつひとつのプレーをやるのは好きだけど、ゲームとしてやるのが好きでない場合が多いのだ。それはひとえに団体競技で、特に野球の場合はその場その場でやりたいプレーとやらなければならないプレーが一致しないことが多いからである。なので、やる時はピッチャーが多かった^^;;。もっともわがままなポジションだったり。

 さてさて、そういうわけでキャッチボールなどは一人では出来ないが(壁当ては好きではないし、今時は苦情が来る)、打つのならばバッティングセンターがある。
 凝り性の自分は、その時でもフォームやなんやらを入念に研究してやるのである。やることがゴルフだったら、ゴルフ雑誌を愛読してあちこちでシャドースイングしてるおとっつぁんと同じかも知れん^^;。だからといって「練習」のために来る人が良くやるように、何球かをバントしたりなどはしない。そんなことをしても「おもしろくない」からで、自分は練習しに行っているのではなく、楽しむために行ってるからである。

 自分の場合は、参考にしたのはもっぱらプロ野球の選手である。テレビ中継を見ながら、気に入ったフォームをとことん真似するのである。幸いにも形態模写などは得意なので、その選手のフォームのポイントをつかんで真似するのは難しくはなかった。もちろん、真似できているつもりでも専門家から見れば上辺だけなのだろうけど、それは基礎訓練をやっているわけではないので当然と言えば当然で。
 自分は左右で打つとは言っても、左右でタイプが全然違う。専門の野球選手の場合、元々右利きの場合は右の方が長打力があるなどの違いはあれ、打者のタイプとしては左右で似ている。自分は左右でフォームがかなり違う。それは、その方がやりやすいということもあるかもしれないけど、プロ選手の真似をする場合、左右でまったく違う選手の真似をしたからかと。
 プロはアマチュアと違って、極めて個性的なフォームの選手が多い。ところがあれこれいろんな選手のフォームを忠実に真似して、な~るほどと思ったことがある。たくさんのパターンを忠実に真似すればするほど、基本が身に付くのだ。バッティングセンターに来ていた草野球の監督さんが「自己流にしては基本ができてるなぁ」と驚いていたので確かにそうなのだろう。
 理由を考えてみて腑に落ちたのだが、真似をしたのがプロの選手だからなのだと思い当たった。仮にもプロ野球の選手である。日本全国のずば抜けて上手い野球少年が、野球の英才教育と血と汗の努力を経て、その頂点に立った人達なのである。どんなに個性的なフォームであっても、基本は完璧に出来ている。なので、それらの選手の物まねをすると言うことは、共通して存在している基本部分をトレースすることと同じなのだろうと。まぁ、なんだかんだ言って、バッティングの「技術」の攻略が好きなのかと。(イチローのフォームを忠実に真似して、自分の身体の切れも良く完璧にそのフォームが機能している時には、他にないほどに無駄なく強い打球が打てるので驚いた。滅多にそういう理想的な状態の時は無いけど)

 かつて、プロテニス界にはジョン・マッケンローという天才プレーヤーがいた。普段のやることやテニスのフォームもはちゃめちゃで、基本なんかクソ食らえでやっているように見られていたりした。ところがある雑誌が、彼のプレーを撮影したビデオをスローで分析して驚いたというのだ。はちゃめちゃに打っているように見えるフォームなのだが、スローで見ると完全に基本通りに身体を使っていた。

 急に話が飛ぶように見えるが、職人の世界は親方の技を盗むのが基本である。教えてもらうのではなく、仕事ぶりを見ながら目と肌で盗む、つまり観察して真似するのだ。なので、自分が師とする人を選び間違えると、自分の技術も伸びない。
 これはあらゆる分野に言えることなのだろう。ある画家は、絵が上手くなるコツは「良い絵をたくさん見ることだ」と言い切っている。絵画でも漫画でも、模写したり影響されたり取り入れたりは極めて重要な過程なのだ。先人の背中を見て後から来るモノが成長するのだ。どんなに独創的で、完全に新しいモノを生み出したように見えても、間違いなくそのほとんどは先人の積み重ねてきたモノの上に成り立っている。社会の今のあり方や、若年層の生き方もそういうことなのだよねえ。。。。
(話がまとまったように見えて、でも内容はずれてるぞ^^;;)

雑記帳52< エッセイメニュー >雑記帳54