パソコンと独り言  (2002.8.27)

 前に、知り合いの税理士事務所の事務の子が「一人暮らしをすると、独り言が多くなる」と言っていた。自分は三年間大阪で一人暮らしをしたけど、そんなことはなかったような、自覚がなかったのか?

 それよりも、パソコンをはじめると、異常に独り言が多くなるのは危険なほど自覚した。特にウインドウズなんかを使っている日にゃぁ・・・。

 「あっ!なんなんだよ!!」
 「ったく!またかよ!」
 「あーっ!もう!クソウインドウズだなぁ、ホントに・・・」

 独り言に加えて、ディスプレイに向かって悪態をつく日々。こういうのって自分だけではないと思うけど?・・・果たしてこれは発散の役に立つのか、それとも性格が悪くなっていくのか?・・・
 おまけに使っているエプソンのプリンター。画質は非常にいいのだが、紙送りがおかしくなったりインク詰まりしやすい等、構造的に不具合が多い。ドライバの暴走も多々ある(2機種使ってきてどちらもだった)。一台目を何度しばいたことか。もちろん壊れないように加減はして。(2台目は高かったので我慢している)

 やっぱりパソコンに「あたる」人は多いでしょう?方言で悪態ついている人は、どのように言っているのか興味のあるところです。


・エラー、フリーズ、ありますねぇ。 悪態ですか?「だら!」(馬鹿、の意味)のひと言ですな。
 (Mayさん談 2002.8.28)
・対パソコン会話傑作選
  「まあ!お利口!」・・なにか便利な機能を試した時
  「そ・そんなことをしろと言ってないでしょ!!」・・誤って必要な物を削除してしまった時
  「何て良い子なのぉ~」・・???
 「遅い!なにやってんだよ~」・・言わずもがな
 (MOTAIさん談 2002.8.29)
・ そういえば、私の向側の席の人はよくパソコンに
 「頼むから余計な事しないでよ~」と訴えています(笑)MS-Word使用中らしい。
 (カモミール さん談 2002.8.30)

サラリーマンの敬語  (2002.8.29)

 敬語の使い方の難しさがますます言われていますね。良くニュースのコーナーにも特集されたり。その中で、敬語の使い方としては特殊な部類に入るのではないかと思うのが、サラリーマン社会での敬語。
 自分も曲がりなりにもサラリーマンはやったことがあるので、それなりにその社会での敬語をちゃんと、、、、使って、、いたのか?
 若い会社人が良く間違える、社外の人間に対する、自社の人間の呼び方、なんてのがありますが、ああいうのでミスしたことはありません。
 いわゆる、社外の人間に対して、社内の社員に敬称をつけてしまったり、「○○は、いらっしゃいませんが」なんて言ったりするやつですね。

 なぜか営業でもないのに、社内にいるときは電話をとるのが好きだった。そんなときもちゃんと「只今、○○は席をはずしておりますが。。」なんて応対しておりました。(えばることか??)

 そんなある日、会社の電話が鳴った。
先方 「もしもし、○○社でございますが、いつもお世話になっております。」
小生 「いえいえ。」

 うしろで聞いていた上司が笑いながら言った。「なにをしっかりお世話しとんねん」

 関西支店のおもちゃと呼ばれた小生の「あほエピソード」が増えたのは言うまでも無い。


「こちらこそお世話になっております」って、初めてお話する人に、お世話になった覚えないのに反射的に言っちゃうのも、悲しいものがあります。一度「どんなふうに?」って言ってみたい(笑)
 (カモミールさん談 2002.8.29)

「ご苦労様です」  (2002.8.30)

 会社員、専属フリーなどで「会社」という所にいたときに、ずっと疑問だった敬語がある。「ご苦労様」という言葉の使い方だ。

 あまり社員同士で使われたのを聞いたことは無い。どこぞで世間知らずの若様社長が従業員に「ゴクロウサン」と見下して言うのを何度か聞いたくらいだ。
 たいていは出入りの業者さんに対して言われることが多いと思う。あれって、とっても失礼なんじゃないか?と思っていたのだ。

 基本的に「ご苦労さま」というのは、目上の者が目下の者に使う言葉という印象をもっているのだが、どうなんでしょうか?昔は目上の者に対しても「ご苦労様でございます」と言う使い方をしているのを、小説かなんかで発見したことはあるが。
 出入りの業者さんに対して、発注している方が一段上の精神状態でいるのは、無意識にせよあるはずだ。だから「ご苦労さん」と言っているのだと感じるのだけれど・・・。

 前に、印刷製版の仕事を某社専属のフリーでやっていた。印刷製版の仕事では印刷用のフィルムを現像した廃液が出る。それを専門の業者さんに回収してもらう。よくは知らないが、その廃液からリサイクルできるものはするみたいだ。その時に、少量だが「銀」が出る。昔は銀が取れることでそれなりに経済的プラスにもなったのかもしれない。わざわざ銀を取る小さな装置を置いている会社もあった。
 それで、その某社にいた老社員が「あんたらは、この廃液を持ってって、銀が取れて儲かるんだからいいやね」とイヤミまじりに言っていた。横で聞いていて、そんなことは無いだろうと思った。
 業者さんは苦笑していたが、老社員が行った後に「でも、今時は処理するだけで相当負担でしょ?」と声をかけると「あ~、わかってもらえてますね・・」とため息をついていた。

 たとえ、業者が儲かるにせよ、こちらとしては回収してもらわなければ困るのだ。出入りの業者さんに対して一段高い精神状態にいるというのは「仕事をやらせてやっている」「注文してやっている」という気持ちがあるからだろう。
 でも考えてもらいたいのは、その業者さんにその仕事をしてもらわなかったら、困るはずなのだ。「やっていただいている」と言ってもいいくらいのはずだ。だったら、どちらが目上とか目下とかは無いはずで、お互い様で「やっていただいて」「やらせていただいている」と考えるのだ当たり前だろう。
 本来は日本の屋台骨を支えた、下町の零細工場がいま大打撃をこうむって、その結果日本自体の勢いがなくなったのも、その辺のことを勘違いしていたのも大きいと思っている。
 発注していた大企業が中心になっていたと勘違いしていたのだと。実は、そのほとんどは無数の零細工場が信じられないような高度な技術を用いて作った物が支えていたのだ。
 そちらを大事にしないで、というか低く見ていたつけが回ってきている。事実、現在でも海外から発注される最先端の技術は、その零細工場の職人たちの技術が求められているのだ。

 「ご苦労様」という言葉の使い方の疑問は解消されていないが、そういうわけで、会社で業者さんなんかが仕事をしていってくれたときは、つとめて「ありがとうございました」と言うようにしていた。どうしても「ご苦労さん」という言葉を使うのなら、同じ職場の中に限ると思うのだが・・・。考えすぎかなぁ・・・・。

冷めたガキ  (2002.9.1)

 小さい頃、ウルトラマンシリーズが大好きでした。一番好きだったのはウルトラセブン。あれって、おとなでも鑑賞に堪えるストーリー作りだったと思います。
 最近アンヌ隊員こと「ひし美ゆり子」のエッセイを古本で買って読んで、その番組作りに納得した。

 ウルトラマンシリーズはまだ続いていて、最近のはかなり奥が深いらしい。自分が見ていたのは、せいぜいウルトラマンレオ辺りまで。初代ウルトラマンはリアルタイムの放送だったか、再放送ではじめて見たのだったかは微妙なところ。
 あれらを見ながら幼少ながらドラマだと言うことはわかっていた。役者も一人一人出演料をもらって演じていると言うことも、幼いガキながらわかっていた。自分が夢中になっているくせに、こんな子供向けの番組に出演してバカバカしいのだろうなぁ、なんてクソ生意気なことを思っていた。役者には全員出演料が出るのだから、逃げ惑う何百人もの群衆の出演料って大変じゃないのかな?なんて冷めて見ていた。番組そのものには夢中になっているくせに。

 そう、すべてロケであることはわかっているほど、冷めている部分があったのだ。でも、ひとつだけ疑問があった。

 ウルトラマンの身長は約50mということになっている。
「そんなでかいの、どこでロケするんだ?」

 冷めているようで、しっかりアホだったりする。


ギャラには関心が行きませんでしたが、ウルトラマンが建物を壊すシーンを見るたびに、「あれ、一回一回作り直してるのかなぁ・・・ 面倒くさいだろうなぁ・・・」 とか、「(ウルトラマンとか怪獣の)中に入ってる人、 臭いだろうなぁ~」とは思ってました(爆)
(あおおにくん 談 2002.9.1)

おだてに弱い・・・  (2002.9.3)

 言うまでもなく、人にはいろいろなタイプがあります。たたかれて伸びる人、ほめられて伸びる人というタイプの違いもありますね。
 昔だったら、「たたかれて伸びる奴こそが本物」みたいな言われ方をしていたんじゃないでしょうか。ほめられて、おだてられないと伸びないようなやつはたいしたもんじゃないと。ちなみに自分はほめられて伸びるタイプです。別に、たたかれたり、けなされたたらオシマイになるわけではありませんが。どう言われようと、本当にやりたいことだったら、そのままやるでしょう。

 幸い現代はだんだんと、そういう性格はどちらが優れているとか言うことではなく「タイプが違う人間」と見られるようになって、指導するときも、タイプを見極めてやるようになってきました。そりゃ、ほめられた方がうれしいに決まっていますが、それでいい気になって逆効果になる人もいるんですよね。繰り返しますが、自分はほめられておだてられたら、いい気になってもっといい結果を残します。ついサービス過剰になることも。。。

 以前、付き合っていた子との会話で、何かのはずみで
「俺、おだてに弱いし・・」と言った瞬間、彼女の目がうれしそうにキラっと光った。あやや、しまったと、その後の会話を取り繕ったが、彼女も一言、
「ねぇ、あたし、もう話し聞いてないよ♪(ルンルン)」

インドネシアの学校で1  (2002.9.5)

 自分がアジアが好きなのは、小さい頃にインドネシアに住んでいたのが影響しています。父親の仕事の関係で、4歳から6歳まではインドネシアの首都、ジャカルタに住んでいました。当時は日本人学校がまだ無く、アメリカンスクールに通っていました。学校は「インターナショナル・スクール・イン・インドネシア」という名称だったので、それがアメリカンスクールであるとは、ずっと思っていませんでした。

 学校は幼稚園から中学まで一緒で、自分は幼稚園から。姉は小学生でした。学校では英語、日常は日本語とインドネシア語だからさしずめトリリンガルだったわけです。帰国後、英語などはすぐにきれいさっぱり忘れてますけどね。

 幼稚園初日の事はごく一部を何となく覚えているだけです。学校は教頭が「ミスター・モーヘッド」という白人で、どこの人だったのかは知りません。その他の校長をはじめとする先生はすべてインドネシア人だったと思います。
 学校ではもちろんすべて英語ですが、当然初日まで英語に接したことはありません。でも4つくらいの子供は何とかなるもんで、それなりにコミュニケーションしていたようで、言葉で苦労した記憶は皆無。

 幼稚園では、絵本を先生が読んでくれたりするのですが、マザーグースをはじめとする欧米圏のものばかり。写真に写っているものに「ジャックと豆の木」をみんながアホ面で聞いているのがあった。そのせいで、日本の「おはなし」はほとんど知りませんでしたし、いまだに「ちゃんと」知らないお話しは多いかも。そうそう、幼稚園が年少とか年長とかって分かれているのも社会人になるまで知りませんでしたねえ。

インターナショナルスクール風景
(左端のベッカムが小生・・・・ではなく、先生の鼻先にある顔)

 面白かったのは、毎朝一人ずつ自分の宝物とか珍しいものを家から持ってきて、質問したりしてそれが何であるかを当てるゲームがありました。「ゲッセン・ゲーム」と呼んでいましたが、「ゲッセン」の正しいつづりと意味は知りません。多分「推測する」の「guess」の親戚だと思いますが。「レゴ」で作った労作を披露したり、自分の家のお宝を披露したり、出産シーンの写真を持ってきたやつもいた。

 当時のクラスには(18人の二クラス)日本人3人の他に、アメリカ人、イギリス人、ドイツ人、中国人、インド人、その他もろもろの闇鍋状態。人種的に何か差別的な雰囲気など微塵もありませんでした。小さいからそんなことはみんな考えもしなかったのかもしれませんが。
 そういえば、うちと隣のクラスに「パトリィシア」という双子の女の子がいた。パトリィシアというのは当然「名前」であると言うのは今なら当たり前にわかりますが、そのときはなぜかずっと「パトリィシア=双子」の意味だと思っていた。

 幼稚園ですから、ほとんど遊んでいます。午後に強制的にお昼寝の時間もあります。みんな寝ているポーズだけですが、隣の子の鼻の穴に砂を入れたりと言ういたずらが流行っていた記憶がある。

 初めて書き方を習った言葉は英語になるわけです。記憶では、それ以前に日本の自宅の居間で、自分の名前を漢字で書けるようになった記憶もありますが。それからなぜか、3歳以前の壁の落書きに電話番号が書いてある(今は建て直して、落書きは無い)。もちろん番号間違いなのだが、(×××)○○○○ という書き方で数字が並んでいるので電話番号を書きたかったのだとわかる。

 ジャカルタにいた頃に書いた絵で、怪獣ものの絵を覚えているですが、その中の吹き出しの台詞に「HELP!!」と書いたのをはっきり覚えてます。ちなみに今は全く英語は喋れません。(長いので、つづく・・・)

インドネシアの学校で2  (2002.9.5)

 当時、クラスには北欧の女の子がいました。その子がある日、目の下にものすごい「クマ」をつけていた。記憶では白い肌にどす黒い幅広のクマがついているが、クマが濃すぎるので、おそらく記憶が脚色されているかと。
 それを見てすごく不思議だった。どうしたんだろう?これはきっと目をくりぬいて取り替えたに違いない。ちゃんと見えているのか?と思い、まともに見えているのか確かめたくなった。彼女はリンゴを持っていた。それが見えているのか確かめた。もちろん以下の会話はすべて英語である。
「ねえ、それ、なに持ってるの?」(見えてわかってるの?)
「あら、知らないの?リンゴっていうのよ」
大きくなってから考えると、なんと間抜けな会話だろう・・・・。もちろん「apple」くらい知っていた。
 当時の会話を思い出すと、ごく一部は英語のまま思い出されるが、ほとんどは日本語としてしか覚えていない。もちろん英語で会話していたのだが。面白いのは表記すると、英語は日本語ほどニュアンスの幅はないように見える。字だけだと、日本語のように「~じゃん」「~だよー」なんてものはない。でも思い出される会話は、みんなそんなニュアンスでの会話である。

 小学校にあがって図画の時間、自分は「オバケのQ太郎」を描いた。それを珍しそうにアメリカ人の「エロイス」という艶かしい名前の女の子が見にきた。マザーグースのハンプティダンプティを知っているだろうか?巨大な卵人間のお話しである。
エロイス 「オーゥ!!、ジャパニーズ・ハンプティ・ダンプティ!?」
小生   「んにゃ! これは日本の『オバケのQ太郎』というマンガだよぉ」(なぜかココだけは日本語でしか覚えてない。)
と、いろいろやり取りがあったが、頑固なエロイスは「ノーゥ!!ジャパニーズ・ハンプティダンプティ」と譲らなかった。決めつけられても困るが・・。

 そういえば算数の時間、先生は数を数えるの教えるために包んだキャンディーの絵を黒板に描いた。両側をくるっと結んであるやつです。
 それをいくつか描いて、説明をはじめる先生を僕はさえぎった。
小生 「先生、それは違うよ。キャンディーをくるんだら、こういう風に結び目の玉ができないとおかしいよ。」と黒板に描いて指導した。
先生 「本当ね。じゃあ、こう描くことにしましょう」と、次からは結び目の玉が増えた。

キャンディ

 小学校一年の二学期に帰国して地元の小学校に編入。考えたら自分は「帰国子女」だったのだ。そんな言葉はなかったぞ。だから自分が帰国子女だと気づいたのは、社会へ出てからだった。
 小学校では当然、自分は「インドネシア人」という軽いいじめもどきも受ける。だいたい先生の紹介の仕方が悪い。
 「伊藤君は遠い国からやって来ました。」
 おいおい、俺は帰ってきたんじゃ!

 日本に帰国したのは夜のことだったと思うが、ただでさえ道幅の狭いこの近所の道が異様に狭く感じたこと、天井が異様に低いこと、そしてほとんど初めてまともに見る日本のお金が、おもちゃにしか見えなかったのが印象的だった。(半端だけど、一応終わり)

プロ野球選手名鑑  (2002.9.7)

 今日の朝日新聞夕刊に、ウディ・アレンの事が載っていた。NYのテロから一年なので、NYのシンボルの一人でもあるアレンの記事だった。そこに35年生まれ、と記してあった。もちろん1935年だ。日本だったらそれが、西暦か和暦かマヤ暦かを書く必要がある。西洋人だから頭の「19」は無くても不都合は無い。

 それで思い出した面白いことがあった。プロ野球選手名鑑のはなし。
 最近は日本のプロ野球には魅力を感じなくなったので、ほとんど中継も見ない。前は熱狂的に好きだったので、春先に新聞に載る名鑑をくまなく見ていた。野球場へはあまり行ったことはないが、行くと友人などは必ず名鑑を持っていた。それを見ていて、思わず爆笑したのだ。
 巨人史上最高の助っ人と言われた「ウォーレン・クロマティ」がいたのはまだ覚えているでしょう。そのクロマティの紹介がこう書かれていた。

 「ウォーレン・クロマティ」その上にふりがなが、「うぉーれん・くろまてぃ」。
昭和○○年○月○日生まれ。ほうほう、昭和生まれとは恐れ入った。そりゃ間違いじゃないけどな。それに、カタカナにルビを振るな。小学生って、先にひらがな習って、カタカナ習うまでに間があるんだっけ?同時にやったような気がするけど。そういえば「たけし軍団」に「しろマティ」というのがいましたね。ナイスな命名です。

 芋づる式に思い出した、野球の話題。今は一応野球解説をしている「定岡正二」氏。かつては甲子園のアイドルで巨人にドラフト一位指名(だったよね?)されて鳴り物入りで入団した。第一次長嶋巨人の最初の年だった。
 巨人入団を控えた制服姿の定岡と長嶋監督が川の土手かなんかに座って、会話をしているシーンだった。

 長嶋 「定岡、、、、お前も今までは、制服でずぅっと来たわけだけど、、それを脱いで、、今度は、、、洋服を着るんだなぁ。洋服着るの、初めてか?」
定岡 「はあ・・(?)・・」

 二人の、カメラを前にしての息詰まる緊張感が伝わってくる名シーンだ。もちろん後年、お宝お笑い名場面で放映されたのだが(自分はそれで見た)、撮影当時は、カメラマンもスタッフも笑いをこらえていたわけではないと思う。二人の緊張感にのまれていたに違いない。

 そうそう、クロマティがよくホームランを打ったときなどに膨らませていたフーセンガム。あれ、昔から駄菓子屋で売っていた、オレンジガムだそうです。もちろん日本製。1cm位の玉のオレンジ色のガムが四つ小さな箱に入っていたでしょう?蓋の耳のところに「当たり」が出たり。クロマティはアレが気に入って噛んでいたそうだ。

テキヤのオヤジはいずこへ?  (2002.9.9)

 秋祭りの季節と相成りましたが、地元の神社(北澤八幡宮)では、毎年9月の第一土・日が祭礼です。小学校のときは本当にお祭りが楽しみでしたねえ。なにが楽しいって、あの雰囲気はもちろん、なによりもテキヤさんたちの出店です。もちろん、そこで友達が集まるのも楽しみだった。
 最近では、昔の同級生と会うことも無いので、あまりお祭りは楽しみではなくなり、今年は行かずじまいだった。子供でもできると、また違うんでしょうねえ。地元の祭礼が終わると、次は隣町の神社の祭礼で、同じテキヤさんが並んでましたねえ。でも、隣町のお祭りに行っても面白くなかったので、やっぱり地元で、友人たちと遊ぶのが面白かったのでしょう。

 何年前からでしょうか、お祭りの出店からテキヤさんの姿が消えたのは。たしか、健全化のためにテキヤさんたちを締め出したんですよね。そして、代わりにボランティアグループや、昔からあったボーイスカウト関係のお店だけになった。正直言って、とてもつまらない。健全すぎて。
 暴○団関係の資金源になるとでもいうことだったんですか?資金源になるほど儲かるわけは無いと思うけど。ほとんど子供相手に50円、100円の世界だし。あまりその辺は良く知らないのですが。なんかちゃんと認定された人しか、ああいう店を出せなくなったんだっけ?
 もし、子供の教育上の問題で、あの昔ながらの怪しい出店をなくしたのであれば、それは非常に残念だ。子供にとって、一種のミステリアスな世界でもあったし、どこかで店のオヤジにだまされているとは承知していながらも、そのワクワク感を楽しんでいたのに。
 もっとも、当時は不思議でしたけどね。ルーレット状の景品当てで、お目当てのところにオヤジは難なく止められるのに、自分がやると、どうしてもその前後で止まる。アレは、オヤジが机の下で足で操作していたんだと気づいたのは、もうそういう店でワクワクしなくなってから。。。

 お祭りからテキヤさんがいなくなったのは、ちゃんとした理由を知らないので、むやみな批判は控えますが、その他にも、「子供が健全に育つため」になくしたものってたくさんありますよねえ。あれってまあ、そのものにもよりますが、非常に疑問に思うことが。そういうものを無くそうとした大人は、自分がその環境で育ったために、ろくでもない大人になりました、と認めていることになるんじゃぁ?なんだか、自分たち大人が何から何までコントロールしてあげなきゃいけない、と思っているみたいな。そんなに子供をバカにしてたらあかんよ。完全無菌の社会もそれはそれで困ったものという気が。お祭りなんかの怪しいオヤジたちのやり口って、ある意味小さな学習にもなっていたと思うのだが。
 そういえば普通の町からも、いつの頃からか変なオヤジって姿を消しましたね。必ず商店街に一人や二人、イッちゃってるようなおかしなオヤジはいたのに。

 以上、自分の地元の状況を書きましたので、他の地域ではどうなのかはわかりません。

すじちがい  (2002.9.11)

 午後になると、よく鳩が公園や道で足を引っ込めてくつろいでますね。中には首を後ろに曲げて寝ているやつも。
 自分は首をちがえやすく、よく背中や首の筋をちがえて苦しんでます。鳥は、なんでああいう、首を真後ろに向ける無理な体勢で寝るんですかね?まあ、あれが楽な体勢なんだろうけど、いつも思う。
「なんでこいつらこんな寝方して、首をちがえないんだ?」

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