お会計  (2005.8.26)

 たとえばレジで751円の支払いをしようとして千円札を出す。このときに「千円からでよろしいですか?」と聞かれるのは合点がいく。1円を出すかもしれないし、51円を出すかもしれない。また、「1円くらいあるだろ?出せよ」ということかもしれない^^;。

 ところがである、400円の支払いに500円玉や千円札を出したときにも「千円からでよろしいですか?」と聞くやつがいる。他にどんな小銭を加えて出す方法があるんだ???

リピーター?  (2005.9.2)

 たしか、うちの爺さんの葬儀のときだったと思う。その前に無くなった婆さんの時も、地元の葬儀屋にお願いしていた。

 葬儀の段取りが一段落したとき、うちの葬儀担当のおっちゃんが語った。
「この次のときはもっとお安くしま・・・、あ、いえ;;;、こんなことがたびたびあってはこまりますが・・`s(・'・;);;;」

 まぁ、正直に言っちゃったってことでしょう^^;;。

ラオス  (2005.9.7)

 20年以上前だったか、テレビである漁村のドキュメンタリーをやっていた。他のことをやりながら、時々ぼんやり画面を眺めていたのだけど、「ラオス」の漁村についてやっているようだった。最初のほうはほとんど見ていなくて、音声だけを聞いていたのだが、ふと画面を見ると、なんだか日本人にそっくりな人たちが写っている。風景も東南アジアというよりは、どっかの日本の漁港のようにも見える。
「え~~、ラオスって日本にそっくりなんだなぁ。。??」と不思議に思っていた。着ている服にしたって日本の田舎そのものである。

 不思議に感じながらもまた画面から目を離し、ほかの事をやっていたのだと思うけど、次に画面を見たときは、漁民のアップが写り、やはり日本人にしか見えない。そして、港のトラックが写された。ボディには漢字が書かれていた。
「羅臼貨物」・・・・・
北海道の羅臼(らうす)のお話だったのだった^^;;;;。一応羅臼という地名は知っていたのだけど、いかにテレビのほうにはぼんやりとしか意識がいっていなかったかという証拠で。^^;;;

何科へ行けと?  (2005.9.9)

 現在、医者に通院中なのである。症状は皮膚のかぶれと、背中の一部の筋を痛めていること。
  最初は左肩甲骨の一点に違和感があり、左腕の筋に連動して痛みが走っていた。それで、近所の整骨院へ行ってみた。以前よく行っていた整骨院はちょっと遠く、しかもむちゃくちゃ込むので、初めての近所の医院へ行ったのである。
  筋肉へ電機をかけた後、整骨師(?)がマッサージなどをするのだが、そのときにマッサージ用の軟膏を使う。今までに何度も経験していてまったく問題は無かったのだが、今回は違った。おそらく、それまでとは軟膏の種類がちがっていたか、身体の状態が反応しやすかったのだろう。
  帰ってから何やら患部が痒く、どんどんかぶれてきた。軟膏にかぶれたらしい。普段でもシップなどには背中あたりがかぶれ易いのだが、軟膏は初めてだった。翌日になってもかぶれはひどくなるばかり。自慢ではないが、近所にめぼしい皮膚科が無い。歯医者と靴屋と不動産屋と美容院は捨てるほどあるのに、皮膚科は少なくどれもいまいちだったり。
  そこで、背中の筋の治療も同時に出来るかと思い、外科・胃腸科・皮膚科・整形外科・泌尿器科・肛門科・放射線科・・・などなどをかねている医院へ行った。断っておくが総合病院ではなく、一人の町医者である。

 昨今は医者の細分化がどんどん進み、いくつもの診療科を診る医者は、最初に書いてある「科」が得意分野であると聞いた。いくつもかねているのは、幅広く見ることが出来る場合と、どれも中途半端であるという医者もいたり。昔は一通りの病気や怪我を見ることの出来る医者が多かったのだと思うが、今は医学の進歩とともに専門分化もすすんだ。総合病院のように、いくつもの科がある場合はまだいいのだけど、町医者のような場合は、あまりに専門分化しているのもはっきり言って困る。自分が見てもらいたい分野がどこなのかが良くわからない場合が多いからだ。おまけに、自分の専門以外は良くわからないという医者は結構いる。よくわからないから、それじゃ他の医院を勧めるかというとそうでもなかったり。それで見当違いの治療を続けて取り返しのつかなくなったというケースは時々聞く。うちの母親の場合も、もしかするとそのケースだったかもなのだ。

 4年ほど前に小脳梗塞で倒れたのだが、それ以前の一年ほど整骨院へ通っていた。足先がしびれるというので通っていたのだが、一年以上通って治療をしても、まったく改善は無かったようである。そして、脳梗塞で担ぎ込まれたときに、それ以前の症状などを担当医に話すと、足先がしびれていたのは、その兆候だった可能性が高い、という。体の一部がしびれているのは、脳梗塞がらみの可能盛大なのだ。  もし本当にそれが兆候だったとしても、整骨院ではわからなかったであろう。たまたま整骨師が、そういうケースがあることを知っていれば、患者にその旨を伝えて、病院での検査を薦めただろうが。

 自分の場合はそれほど重大ではなくても、ちょっと選択ミスの診療科へ通っていたというのは何度かある。「風邪」や「花粉症」は内科へ通っていた。むしろ耳鼻咽喉科の方が適切であるというのを知ったのは、せいぜい5年ほど前のことであった。特に花粉症は、内科で薬をもらってもほとんど効果を感じなかったが、耳鼻科では効果てきめんだった。風邪も耳鼻科へ通うようにしたら、内科以上に効果があった。

 先日、母親が足の親指を怪我していた。親指のつめが食い込んで端が切れていたのだ。てっきり外科か?と思っていて、月一回の病院通院の日に担当医に聞いたら、それは皮膚科だろうというので、すぐに病院内の皮膚科へまわしてくれた。ま、言われてみたら皮膚科だなと思うけど、患者が判断して適切な医院を選ばないとならなくて、しかもどこへ行けばいいんだか良くわからんというのが、あまりに多いような。

 今回、その総合病院のような町医者へ行ったのだが、個人的にはそういうところのほうが安心感はある。医者の技量がどれも半端だったら問題外だが、そうでなければ、こちらの症状の目論見が誤っていても対処してくれるだろうという安心感はある。

 医学は進歩したが、マイナス面は専門分化しすぎている点だと思う。人間をひとつの環境として、総合的に正しく診ることの出来る医者がどれほどいるのだろう?ただでさえ、人間的にも医療技術的にもレベルの低い医者が増えている。先日、医療関係者から面白い話しを聞いたが、医者というのもセンスが必要だと。言われてみたら、どの仕事においても、それぞれに応じたセンスが必要だ。それで、最近はそのセンスが無いのに医者になってしまうケースが目に余るそうだ。
  何度か病院で若い医者にかかわってきて、確かにそれは言えてると思い当たった。普通の職業でも、センスがなければクビになるか自分から辞めていくのに、医者の場合はそうでもないケースもあるみたいで。前にも書いたけど、医者というのは数ある職業のひとつではないのである。適正がなかったり、ふさわしくない人間を医者にしては絶対にいけないのである。

 さて話は戻って背中のかぶれであるが、やはり軟膏に対するかぶれだったようだ。かぶれはかなりひどく、抗ヒスタミン剤の飲み薬と、ステロイドの軟膏をもらった。ステロイドをぬりまくりで、数日後にどうにか収まってきた。
  と、思ったら、なにやら手足にまだらの斑点が出来てきた。げ!なにかの感染症か?と、ふたたびその医者へ行ったら、これもおなじかぶれの症状だと。最初のかぶれのように直接のかぶれではないが、どうやら身体が異常に反応してあちこちにかぶれの症状がでてしまっているようなのだ。ん~~、モモの内側などは、強烈なはしかのようだ^^;;;;。これらもステロイドぬりまくりでしのいでいるが、収まるのはいつか?・・・・ そうそう、顔にはできないな、と思ったら、顔の皮膚は結構強いらしい。背中や足なんかは結構皮膚が弱いのですな。そういや顔は一年中表にさらしっぱなしで、他は衣にくるんでるもんねえ。

癒すのはだれ?  (2005.9.12)

 もうすっかり「癒し」というのは一般に浸透したような感じである。ことさら「癒し系」とかいうカテゴリにくくるということも少なくなったように見えるし、それはそれだけ普通になったということか。それとも飽きてきたということなのか。

 癒すというのは、だいたいは誰かが誰かを癒すというのが普通のようで、つまり癒されたい人は、外部の癒してくれる媒体を求めているのであろう。その辺がどうも気になるのだが、自分的には、本当に自分を癒せるのは自分自身ではないのか?と思ったり。確かに、誰か、または何かのモノによって癒されるのが一般的だけど、それは自己治癒するのと同じように、自分で癒えるための導入みたいなものなのではないのか?と思ったりするのだった。
  その方面の専門知識は無いので、勝手な解釈をしているかもしれないが、精神的な治療の場合、精神科の先生が治すのではなく、患者が自分で治るのを手助けするのが名医なのだと思っている。というか、最終的には自己治癒するしか方法が無いのではと。

 精神科の場合は精神科の医者がいるわけだが、「癒し」の場合は「ヒーラー」なるものが存在したりする。この手の「ヒーラー」でまともな人にはほとんど出会ったことは無い。出会った数自体が少ないので、決めつけるのもなんだけど。そもそもが医者ではなく資格が要るわけでもないようなので、自称ヒーラーというのがやたらにいた。今もたくさんいるのでしょうが。何がまともでないかというと、そのほとんどは「我こそはヒーラー」なりという人ばかりで。「ヒーラーである私が『癒してあげる』のだ」と全身で言っているのである。自分は癒してもらおうとしていたわけではなく、他人が癒しを求めている場で見ていたりしたことがあるのだが、そんなもんで人が癒せるかぃ!という感じでしたね。それは「他人を癒せる(と勘違いしている)ヒーラーのワ・タ・シ」に酔っている図に過ぎないのだ。そういうヒーラーのほとんどは、見ているこちらにイライラ波動が伝わってくるような輩が多かった。実はそのヒーラー自身が、心が落ち着いていないのが良くわかったり。癒しの押し売りの雰囲気もあるし。要するに「ヒーラー」である自分自身の満足のために誰かを癒すということをやっているのと同じで、結局はヒーラー本人が癒されたいのであろう。でも、癒されに来る人も無意識の了解なのか、お互いに癒しごっこをやっているといっても良いかも。

 ま、それでもこの人は大した人だろう、という人もいるわけで、そういう人は自分をヒーラーだとは言わないし、そういう自覚もないだろう。明らかに、癒されたがっている人が自分の力で癒える手助けをしているという感じなのだ。癒しというのはこういうのが本当だと思ったりするのだ。

 それでは、他人が誰かを癒すことは出来ないのか?というと、これもまた難しいことで、出来ると考えたほうが自然だというケースもある。献身的な行いが相手を癒すこともあるだろうし、その人の生き方そのものが他人に癒しを与えることだってある。ただこういうのも、究極的には癒される本人の内部を刺激して、自己治癒としての癒しを呼び起こしているのではないか、と思われ。

Tシャツ  (2005.9.14)

 自分の着衣の基本はTシャツにパンツである。パンツといっても、要するにズボンのことであって、下着のことをいってるのではにゃい。ズボンはほとんどジーンズしか持っていない。

 所ジョージ氏は、若い頃にあらゆるファッションを追求した結果、Tシャツにジーンズという出で立ちにたどり着いたという。自分のばやいはそういうことではなく、めんどくさいのでそうなったのである^^;。およそファッションには疎い。ファッションというよりも流行に疎いので、着るモノの流行や組み合わせを考えるのはよくわからないしうっとうしいのである。流行に疎いのは、元々そういうモノを追い求めるのに鈍感というか興味を示さないということもあるが、みんなが右へならへで流行っているモノに踊らされるかぃ!ってのもあったり。それで、もっとも基本的なTシャツとジーンズになったのである。冬でも長袖のTシャツが基本なので、一年中Tシャツといってもいいかな。おまけにパジャマのボタンを外さずに着たり脱いだりするので、これもTシャツみたいなモンである(子供か^^;)。
  ボタンや襟のあるモノもいくらか着ていたけど、それもいつの間にかほとんどTシャツになってしまったり。スーツもあるにはあるのであるが、着る機会自体が少ないし、そういう機会は避けているし。いつだったか、フォーマルな格好で出歩くのがいやで、友人の披露宴出席を辞退したこともあった。旅仲間の披露宴で、モンゴルの民族服を着て出席したことはあるが。(そのときはアジアの民族服だらけの披露宴であったが)

 自分は、衣類はあまり買わない。せいぜい年に数回、何枚かまとめ買いをするくらいである。流行に左右されないモノが好きなので、同じモノを何年も着ていたり。ボロボロになっても着ているわけではないので念のため^^;。
  昨今、Tシャツを買うときに困ることがある。ろくなTシャツがないのである。基本的に好きなのは無地のTシャツなのである。今時、無地のTシャツというと、ヘインズあたりの白か黒のやつかユニクロくらいしかない。GAPなんかにもあるにはあるが、数回洗濯すると生地がのびてしまうので買わなくなった。それにどこのブランドなのかわかるような衣類は好きでなかったり。
  手頃な値段のTシャツだと、ほとんどがプリントものである。これが滅多にいいプリントのものがない。ま、好みの問題でもあるのだが、ろくでもない英語や日本語が書いてあったり、数回着たらイヤになるな、というデザインのモノが多いのである。
  自分でTシャツに描くか、パソを使ってアイロンプリントで作る手もあるのだけど、どちらも長持ちするものではないし。アイロンプリントは、結構転写が難しい。おまけにあれは染めているのではなく、シールを貼っているようなもんなので、大きい面積のプリントだとその部分の通気性はゼロで、夏だとプリントの形に汗をかく。おまけにプリントの形に肌が赤くなったり。(汗をかき暑くて蒸れて)

 Tシャツの棚を探していて、おお、これは良いかな?と思って手前に出してみると、いやなプリントが顔を出したりしてがっかりというのはいつものことなのだ。さすがにTシャツは作れないので、毎夏の悩みの種だったりする。

またまたまた電話勧誘  (2005.9.16)

 相変わらず電話での勧誘が多い。不動産に関するもの、掃除などに関するモノ等々。最近の法律では、こちらの連絡先をどうやって知ったのかを答える義務がある。そしてそれを削除しろといわれたら、そうしなければいけないことになっている。

 「どこでうちの電話番号を知ったんですか?」と聞くと、たいがいはなにやらあやふやなことを答える。地域の○○名簿でとか、そんな名簿があるのか?というような情報源を言ったりするが、ま、それはまだ良い方で、不動産関係の勧誘では、聞いた瞬間に電話を切られるのがほとんどである。会社の名前からして怪しげなモノが多いので、不法なルートで入手した個人情報なのだろう。アホなのは、明らかに同じやつが何度も電話してきて、入手方法を聞かれるたびに電話を切るやつがいる。

 今回は珍しくカーペットのクリーニングの勧誘だった。
「~~~、○○ジャパンですが、カーペットのクリーニングなどをですね、、、」
「あの、どちらでこちらの連絡先を知ったんですか?」と聞くと、
「以前にお伺いして・・・」うんたらかんたら言うから、以前に訪問勧誘したということかと思ったら、以前にうちのカーペットをクリーニングしたことがあるという。
「それはありえないですね、カーペットを敷いている部屋はありませんから」と言うと今度は
「カーペットと言うよりフローリングのワックスがけを以前・・・」と言い換えてきた。これも業者に頼んだことは全くないので、「ワックスがけをしてもらったことはないですが」というと、今度は「当社でやらせていただいたお客様のご紹介で」どうのこうのと言い出すので、とにかく名簿を削除しろ、と言っておいた。

 なにやらバカなのか図太いのか、何を言っても動揺することはなく、違うことを言ってくるのであきれてしまう。こういうのは、電話だけの幽霊会社ではなく、なんかしらこちらに作業にくることもあるのだろうから、それなりの人員はいるのだろう。つまり、相手をだます仕事を立ち上げた張本人だけでやっているのではなく、それなりの従業員は後から雇っているものかと。電話してくるやつは、明らかに詐欺まがいというより、詐欺そのものの電話をしているのは自覚しているはずで、そんなことは納得ずくで、「そういう世の中だ!何がわるい!」という気持ちなのだろうか?それとも、一片でも良心の呵責を感じながら電話しているのだろうか?最初は多少のやましさを持ちながらも、ほかに「お金」を得る仕事がなく、仕方なくやっているうちにもう麻痺してしまうのだろうか?
  身体の病気や不具合は、自覚症状があるうちはましで、それがなくなってくると治るのも難しくなる。自覚症状がないのだから、悪いところがあるのに気づかないわけで。心もそれと同じで、悪いことをしながらも、そういう自覚があるうちはまだましだろう。どんなことでも、一番怖いのはやっぱり麻痺していることかと。「麻痺しているのではなく、元からそういうやつなんだ」というケースもあるが、それは早い段階で麻痺してしまっているのだと思うのであった。

待ち時間ゼロ  (2005.9.19)

 先日、某○そ○銀行の窓口の順番待ちをしていたときのこと。少々順番待ちがあるのでソファで待っていて、ふと、窓際のポスターに目がとまった。そこには、その支店の支店長の挨拶とともに、「待ち時間ゼロ」を目指すというような標語があげられていた。

 んなアホな。確かに待ち時間は短い方が良いけど、待ち時間ゼロということは、行けばいつでも即窓口で手続きをしてもらえると言うことでしょう。どんなに努力したところであり得るはずがない、と思うのだが。ATMなどを利用することで、窓口を利用する場合の待ち時間減を言ってるのかと思いきや、そうでもないらしい。そのポスターを見る限りでは、本気で窓口を含めた対応での待ち時間ゼロを目指しているという様にとれる。
それを可能にするには、単位時間あたりの最大利用者数以上の窓口を作らなければ実現しないはずで、実質上不可能と思われる。給料日あたりの数十人の客があるときは、窓口も数十カ所必要ということじゃん。
  もちょっとましなスローガンはあったんじゃないかと思うし、むやみに机上の空論、それもあり得ない数字を掲げての宣言は、逆にいい加減な方針と受け取られかねないと思うのだが・・・。少なくとも自分はそういう印象を持ったのだった。

起こされないと…  (2005.9.21)

 学生時代は、とにかく起こされないと起きなかった。起こされても起きなかったり^^;。一応自分でも目覚まし時計などはやるのだが、毎朝母親が起こしにくるので、それをあてにして寝てしまうというのが実情だったのだろうけど。

 大学を出て就職して、最初に配属されたのが関西支店で、初めて一人暮らしをすることと相成った。今度は誰も起こしてくれる人はいないのだ。起きれないなんて甘えは許されないのだ。しかし、何の問題もなく最初からバッチリと起きた。まぁ当たり前のことだけど、やはり誰かが起こしてくれるという甘えのなせるわざだったのだ。その後は現在に至るまで、なんてこともなく常に必要な時間に勝手に起きている。

 自分の場合、そういう状況があったので、「起きれない」のではなく「起きなかった」のだというのを自覚できたのだが、本当に起きれない人もいると思う。精神的な症状の場合を除いて、意志の問題だったり、時間に無頓着だったりということがあるのだろうけど、「起きれない」のか「起きない」のかを自分で認識できていないという人は意外に多いのではないだろうかと思うのだった。

お詫びの仕方  (2005.9.23)

 先日のある晴れた日、京王井の頭線で吉祥寺に向かおうとしていた。急行に乗り込むと、なにやらお詫びのアナウンスをしている。どうやら乗客から急病人が出て、運行が4分ほど遅れているとのこと。「お急ぎのところ申し訳ございません。」と詫びるアナウンスをしていた。まぁ、急病人はしょうがないし、アナウンスの仕方もその程度なら気になるほどでもなかった。
  ところが、終点の吉祥寺のホームに電車が入り、止まる寸前のアナウンスは。「この電車、急病人が出ました関係で、到着が4分ほど遅れました。心よりお詫び申し上げます。」などというものだった。そこまで言うか??という、不快感に近い違和感を持ったのだった。

 この場合、電鉄側に落ち度はない。急病人が出たのもしょうがないし、その乗客への対応のために遅れが出たこともしょうがない。どれをとっても誰にもどこにも落ち度はなく、本来電鉄側も詫びることもないのだ。まぁ、それでも「お急ぎのところ申し訳ありません」と言うのはまだわかるとしても、「心から」詫びるというのはなんなんだ?これでは、乗客が急病になったのがとても困ったことで、健康で急いでいたほかの乗客の皆さんに迷惑になった。悪いのは急病になった乗客です、と言っているようなもんである。

 本来、特に謝ることでもないのに、一応詫びておくというケースはまま見られるが、それが過剰になると、ちょっと違うんじゃないか?と。こういう場合の言い方も、電鉄側は教育をした方が良いんじゃないのか?と思った、ある夏の終わりの出来事なのだった。

雑記帳48< エッセイメニュー >雑記帳50