「風船」  (2005.5.23)

 スーパーの食品売り場の一角で、妙齢の女店員が野菜ジュースの販売呼び込みをしていた。いろいろとセールスポイントを連呼していたが、みんな聞こえないふりで通り過ぎる。あまりに反応が無いので、声のトーンが落ちて言うことも変わってきた。

~~~~~ お子様には風船も差し上げております。
いらないと言う人の多い風船…。
棒が危ないと言う人には、棒のついていない風船もあります。
持っていると邪魔だと言う人の多い風船…。
膨らませていない風船も差し上げます。 ~~~~~

 ん~~、なんかこういうけだるさもいい感じだ^^。店側は、こういう人に教育的指導などの罰則は科さないでほしい^^。


食べ物番組  (2005.5.25)

 新聞の投書欄を見ていて、いつも思っていたことを思い出した。その投書には、番組中では紹介された食事を食べるのは一口か二口だろうに、残ったものの行方が気になると。

 これは自分もいつも気になっていることだった。特に食べ歩き番組ともなると、まさか一食一食を食べきって、消化されるのを待って次のお店にいくわけもないだろうし、ひとつの食べ歩きグループで5店舗以上もまわることがあったりして、それでも一日の収録であるのは間違いなかったり。
 と、すると(と、考えるまでも無く)、普通に一人前分に盛られたものでも、ほとんどは食べないに決まっている。それがわかっているから、そういう番組を見ると、残ったのはどうするんだ?と、いつも気になっていた。スタッフが食べるのか?それともそのまま残して、店側が処分するのか。こだわりの材料を使っている場合なら、テレビ側のスタッフが喜んでおこぼれをもらうのかもしれないけど。
 いずれにしろ、食べずに処分する場合、本当にお客さんに喜んでもらいたくて作ってる料理人の気持ちを察してしまったり。ま、そういう場合は取材に応じないのかもしれないけど。
 前述の、出演者に出される料理の盛り方については、多少料理の見栄えはしなくなるけど、出演者が間違いなく食べきる少ない分量で出して放映すると、かなり好感度はあがるんではないかと思われ。

 何軒か知り合いの食事屋にも、そういうテレビ番組が収録に来たことがあるという。当然、撮影のために通常の営業に支障をきたすのだけど、その分の代金は払われなかったらしい。おまけに「テレビで紹介してやるんだ」という態度があからさまだったとか。もちろん、常識的な対応をして真摯な態度で収録する番組もあるんだろうけど、今のところそういうのは聞いたことはない。
 ま、そういうテレビで放映されない裏の事情が気になるのは気になるけど、まだこれはいいと思う。問題なのは、最近は少なくなってきたみたいだけど、馬鹿な大食い大会モノや、食材を冒涜する番組ですねえ。タイトルは忘れたけど、デビ夫人も出て、何人かの料理の下手な芸能人が料理する番組。料理が酷く、まともに食べられないようなものを作ってしまうのを笑っている番組のようだったが、こんな番組作ってていいのか?と。

 これらは氷山の一角で、料理関係に限らず酷い番組は多いけど、こんな番組ばかり作っていて、よくホリエモン騒動のときに「放送局は公共のもの」なんてたわごとが言えたもんだと情けなくなったり。


未知は拡大する  (2005.5.27)

 科学が長足の進歩をしていった近世のころは、じきに何もかもが解明されるのではないか、と思われたりしていたという。解明されるものが増えれば、当然わからないことはどんどん減っていくと。
 でもその読みは甘かったようで、実は進歩すればするほど、わからないことが増えていくのである。今までわからなかった表面のことがクリアされると、その中にははるかに大量の未知が待っているのである。
 こういうのは物理学の世界の話だけかと思っていたら、数学でも同じようなもんらしい。ひとつの問題をクリアしても、その中にはまた複雑な謎が広がっていると。でもそういえば、我々が生きている日常も同じもんではないか、と思うのだった。

 新しいことを始めると、もちろん最初はすべてが未知である。しかし慣れてくると、なんだかとてもそのものについてが判ったような気になる。そして、同じことをやっている人や、そのことについてはまったく知らない人に、あれこれとわかったように解説や見識を話したり。
 さらに上達してしばらくたつと、自分がわかったように思えていたところは、実はほんの入り口にしか過ぎず、とんでもなく奥が深くて、自分は何もわかっていなかったんだということに気づいて愕然とする。あれこれわかったように専門家ぶって話していたのを恥ずかしく思ったり。そうすると今度は、とてもわかったような偉そうな事を言うなんてことは出来なくなったりする。自分も何度か経験していることであった。

 先日テレビで、職人さんが紹介されていた。その方面では技も経験も随一という職人である。それでも「長年やっていても、今でもひとつの仕事のたびに上達していく」「まだまだ自分は学んでいる最中です」などと謙虚なことを言っていた。でもそれは謙虚なのではなく本音なのである。満足してしまったらおしまいだ、とよく言われるが、本当に極めた人は満足しようにもまだまだ奥が深くて、自分はその修行の最中に過ぎないと実感するのだろうと思う。

 そういえば自分は、いくつかのことで先に書いたように「判った気になった」ということがあるが、絵に関してはそんなことは一度も無かった。極めているからではなく、常に劣等感だったからなのだけど。
 「いつから描いているのですか?」と聞かれることがしばしばあるけど、そんなクリアに線引きできることではないから、よくわからない。涙のしずくで、足で床にねずみの絵を描いたということもないし。漫画ばかり描いていたのだって今の伏線にはなっているから、そういう意味なら物心がつく前からということになるかと。
 小学校のころは、漫画がうまいという事になっていたけど、異常に漫画のウマいやつというのは、いつの時代もクラスに数人はいるものである。自分が一番ウマい!なんて思ったわけではなく、何かしらの劣等感も持っていたのである。
 絵を主に描くようになっても、たとえば水彩や色鉛筆、パステルの画材の扱いは中途半端であって(いまだに中途半端で^^;;;)、趣味で描いている人のほうがはるかにうまい場合のほうが多い。
 そんなわけで、創作活動関係では一度も「わかった気になって」優越感を持ったことも無く、いまだに劣等感の塊なのであった。^^;(出だしと話が変わってるぞ^^;)


右利き?左利き?  (2005.6.3)

 あれ?・・・、と最初に感じたのは、中学の中頃。自分は物心ついたときから、なんの違和感も無く右利きであった。
 小学校6年の後半だったと思うが、野球に興味を持った。それまでは、細かいルールはもちろん、通常のプロのゲームは10イニングまであるのだと思っていたほど野球を知らなかった。王選手の名前は知っていても、偉大なホームラン打者だとわかっていなかったし、長嶋茂雄選手のこともほとんど知らなかった。
 興味を持ったのは、プロ野球のオールスター戦をたまたま見たのがきっかけで、長嶋氏の引退の年であった。なので、自分の世代にしては珍しく長嶋氏の現役時代を知らないし、カリスマでもない。

 さて、野球を始めたのだが、当然右打ち右投げであった。友人と完全な自己流で始めたので、ピッチングをしてみても投げ方が悪く、すぐに肘の関節を悪くするという繰り返し。打つのもぎこちない。
 始めてから1年ほどたったころか、何気にふざけて左うちをやってみたら、すごく自然に球に対応できた。見ていた友人も「お!?」と。それからは打つほうは左右でやっていった。あたれば右のほうが飛ぶのだけど、バットに当たる確立だけなら左のほうが高かった。
 野球の理論では、右利きが左打ちをするのは理想に近い。右利きが右打ちをすると、腕力の強い右手でバットを押し込んでこねてしまうが、左打ちをすると、腕力に勝る右手がうまくバットをリードして引っ張り、左手は添えるように振れるので(おまけに打った後に一塁まで近い)。なので、そんなことで左打ちがスムーズに出来るのだと思っていたのだった。

*左利きのスポーツ選手をサウスポーと呼ぶが、サウスポーという単語は「south(南)+ paw(手)」のことで、19世紀後半にシカゴスポーツの記者が使用したのが始まり。大リーグのシカゴ球場では左腕投手が投球すると、球場の向き(方角)の関係上、南から腕が振り下ろされるように見える。よって「south-paw」であるという説と、アメリカ南部出身の大リーグ選手に左利きが多かったという説がある。

 それから月日がたって社会人になり、またまたどうもおかしい・・・、と感じることになった。自分は野球では左のほうがよく打てるので、ゴルフもそうかな?と思っていたりした。ゴルフは、まったく練習もしたこと無いのに、コースに2度ほど行ったことがあった。どっちで打っていいのかわからないので、左のハーフセットを借りたんだったか??右でもなかなかまともに当たらないのに、左ではまったくあたらなかった^^;;。だから、ゴルフは左は違うのかな?と。(なので、あとは一緒の人のクラブを借りた^^;)
 大阪でサラリーマンしてたとき、会社で、野球やゴルフの振り方の話になったときだったと思う。自分は左ではゴルフは出来ないのはわかっていたけど、左でスイングするフォームをやってみた。それを見たゴルフベテランの先輩が、「左で振るフォームは完璧やん」と驚いていた。自分でも、無理に振っている感じの右に比べ、左でやるとスムーズに体が動く。「あれ?」と思ったのだった。

 そのうちに左でも投げられるんか?と思って投げてみるが、やはりそれは無理で、コントロールもめちゃくちゃ。でも、なんとなく身体はうまく「キレて」回転している感じはする。
 さらに身体の左右利きや脳に関することに興味を持っていろいろ読んだりしていると、自分は左利きの要素が強いことがわかってきた。先天的には左利きなんじゃないか?と。

 そんな思いをずっと持ったまんますごしてきて、2年ほど前のこと。自分は元々左利きであったが、小さいときに右に直したのだ、と母親から初めて聞いた。それまではまったくそんなことは聞いたことも無かったのだった。それもそのはずで、当時の普通の考え方と同じく、うちの両親は「右利き」がまともである、という考えなのだったから。
 ポリシーとかではなく、右利きが正常なんだという単純な思い込みというか。それでようやっと、自分の身体の使い方がなんか中途半端な感じがする、という疑問が解けたのであった。

 絵を描いていて、全然気づかなかったのだが、絵にも右利き左利きがある。描く時の「手」のことではなく、画面の構成である。数々の名画を見てもらうとわかるが、右から左に「流れている」物が多い。人が左を向いているとか、人や物が左に向かっているとか、左に開いた風景とか。右利きだとそのほうが描きやすいから、多くの人がそれを安定した構図と感じるのかどうかはわからないが。
 ところは自分はそれがやはり逆なのであった。右手を使って描くので、左を向いた「顔」の方が描きやすいが、構図としては右を向いている、または右に向かっているものの方が安定感を感じる。このHP内のギャラリーの絵を見てもらうとわかると思うが、右向きの構図の割合が高い。
 美大で「美学」を勉強していた人が個展に来たとき、並んでいる絵を見て、僕の脳の機能が左右逆だということを見抜いた人がいた。絵の構図からして、多分左右脳が逆だろうと。

 そんなわけで、絵を描いてても左利きの傾向が強いのだった。最近デザインを頼まれることが多いのだけど、左右対称的でないものの時は、自分の「感覚」が左利きであることを説明して、依頼者がこちらがデザインした「向き」で納得するかどうかを確認してもらうことがある。案の定、こちらがこれでいいだろうと思ってデザインしたものを、左右反転したものの方が、先方は安定して見えるというケースもあったりする。

 こうしてみると、ほとんどの人はあまり意識しなかったであろう絵やデザインも、左右の「利き」を考慮しないといけないという、けっこう難しい問題があったりするのである。まぁ、イラストではなく自分で自由に描くときは、勝手に自分が良いように描けばいいのだが。


子供電話相談室  (2005.6.8)

 TBSラジオの人気番組「子供電話相談室」である。かつては、漫才のネタになっていたほどの超有名番組で、もうやっていないのかと思ったら、どっこいまだまだ現役番組のようだった。(2012年現在に確認したら終了していました)
 かつてのこの番組の看板は、なんと言ってもメインの無着成恭(むちゃくせいきょう)先生。けったいな名前だなぁと思っていたが、どうやら本職は住職のようで、その方面の名前なのですね。

 子供相談室というからいくつまではいいのだ?と疑問だったが、中学三年までならオッケーらしい。自分は質問できる年齢の時には、この番組のことは良く知らなかったし、知っていても特に電話しようとは思わなかっただろう。
 初めて聞いたのは高校のころだったと思う。全部で2~3回くらいしか聞いたことは無い。周りにも電話したことがあるという人は聞いたことは無いけど、大人になってからどうしても知りたいことがあって、子供を装って電話をした、という話は結構聞いたりする。ま、その話自体がネタなのだとは思うが。

 自分がたまたま聞いたときの質問はこんなのだった。「どうして猫は、耳に指を入れるといやがるんですか?」。^^;;
解答者をからかっているという感じではなかったし、純粋に「なんでだろ?」って感じだったのでしょうねえ。解答はよく覚えていないけど、「キミも耳に指を入れられたら、くすぐったいしいやでしょう?」みたいな感じだったかな。

 そのほかに、遠くに見える星までの距離はどうやって測るのですか?というのがあった。これは、「年周視差」を利用して観測計測するのだが、早い話が三角測量法である。これを説明するには、図が必要なのだけど、そこはラジオなので言葉だけである。そのときの解答者の先生の中に天文学者がいたのでそういう質問が出たのだが、先生は一生懸命易しい単語を選んで説明していた。
 ところがその説明の一つ一つが、太陽系の仕組みや、簡単な宇宙の構造などがわかっていないとイメージできないものであったし、三角測量法を説明するのだから、少なくとも中学以上の幾何学がわかっていないと理解はできない。それを丁寧に説明すればこの場でも理解は出来る、という感じで小学生に説明しているのだから、なんだか聴いているこちらが冷や汗をかいてしまった。案の定質問した子供も、最初のうちは元気よく「はい!」「はい!」と返事をしていたが、だんだんとあいまいな「はぃ・・・」になっていく。年周視差による測量の仕方を知っているこちらも、言葉だけで説明しているその先生の説明では、何を言っているのか良くわからない。しかし先生はもう自分の世界に入ってしまって、小学生相手にとても優しくわかりやすい解説をしていると勘違いしているようであった。
 「どうかな?わかったかな?」と先生が聞くと「はぃ・・・(?)」と力なく答え、「全然わかりません」とは言えない雰囲気になっていた、というより、その気力をそがれていた。「年周視差」とか、いろいろヒントになる単語もたくさん出したから、そこから自分で調べて理解していけばいい、という親心という感じでは全然なかったしなぁ。^^;;

 残念ながら無着成恭先生のお話は聴いたことが無かった。嘘かホントか知らないが、テレビで関口宏氏が言っていた話。東北から東京へ引っ越してきた女の子が、相談の電話をかけてきた。「ワダシは、とでもなまりがつよぐて恥ずかしいのですが、どうしだらなおりますか?」
 それに答えて無着成恭センセ。「そりはねぇ、おどなになっだら自然になぉるの」と強いなまりで答えたと。おまえが大人になっても直って無いじゃんと^^。


すべてが逆さまの世界  (2005.6.10)

 小学校のとき、子供向けに書かれた科学関係の本で、「すべてがさかさまの世界」のような書き方をしていたものがあった。内容はすっかり忘れているのだけど、その時に頭に浮かんだイメージはいまだに覚えていたりする。
 実際は多分「反物質」のことを書いていたのではないかと思う。「反物質」というのは、文字通り反対の性質を持つ「物質」のことで、「物質」の逆の電荷を持ったものである。宇宙の初期には存在していたと考えられているが、現在では自然界には存在しない。(粒子加速器による実験では生成することが出来る。また、電子はマイナスの電荷を持つが、逆のプラスの電荷を持つ陽電子というのもある)
平たく説明することも難しいので解説ははしょりますが、物質と反物質が出会って接触すると、莫大なエネルギーと光に変換される。つまり大爆発を起こす。

 電荷が逆である意外は同じなので、反物質で出来た「反物質宇宙」の存在も考えられるが、もちろん観測も証明も不可能。
 んで、そういう日常の概念では理解の難しいものを子供向けに書いたりするものだから、そういうものはよけいにわかりにくくなる。話はそれるけど、「量子力学」などの物理を日常の言葉でわかりやすく書いている、といううたい文句の本はけっこうある。しかし、そもそもが量子力学なんてのは日常の概念ではイメージが出来ないものであって、それを日常のイメージでわかりやすく解説しようなんてのが無茶であって、その類の本を読んだことがあるけど、かえってわかりにくくなっている印象だった。

 さてさて、小学校のときに「すべてがさかさまの世界」について解説されていたものを読んで、即座にイメージしたのは、頭と足が逆になっている、つまりさかさまになっている人たちが行きかう情景だった。
 「下」に地面があるような無いような、、、ガキがイメージする「さかさまの世界」なんてのは、そんな単純なものよのう・・・^^;;


5丁目  (2005.6.16)

 自分が住んでいる町の名(生まれ育った所)は、代沢(だいざわ)という。もの心ついた時から「だいざわ」という町名を聞いているから、全然違和感も感じていなかったが、これはけっこう読めないらしい。
 初めてそのことに気づいたのは大学のとき。いつもつるんでいた友人たちの一人(岩手出身)が、こちらが書いた住所を見て「よざわ・・・か?」と言ったので、「なに?これが読めないのか?」と思ったのだった。
 言われてみるとおかしな読み方かもしれない。そもそも「代沢」という固有名詞が普通ではないかも。その後も「しろさわ」と読んだりする人がいて、知らないと正しく読めない可能性が高い町名であることがわかった。
 周りには「北沢」や「代田(だいた)」があり、これはそれほど珍しくも無い。「代田」を「しろた」「よだ」と読むこともあるけど「だいた」という苗字もあるし。

 後年になって、このあたりは元々「代田」と「北沢」しかなく、うちのあたりは古くは「北沢」だったらしいことがわかった。しかし、北沢の範囲が広すぎるので、新しい町名にすることにして、代田と北沢にはさまれたこのあたりを、一文字ずつとって「代沢」にしたのだった。

 さて、代沢には5丁目までしかない。なので、小学校のころ、あらゆる町はすべて5丁目までしかないと思い込んでいた。行動半径としてはもちろん北沢や代田へも行くし、そちらには5丁目以上もある。でも、普段意識する番地などは代沢内だけだったので、そう思っていたのだった。
 時々ドラマやお話で6丁目や7丁目などというのが出てくると、架空のお話だからありえない架空のブロック数を設定してるのだと思ってたりしたのだった^^;。
 確か地図を眺めていて、5丁目より多い数字のブロックを発見したのだと思う。なんとなくそのときの驚きは覚えているのだけど、それが何歳のときだったか・・・。


癒し系  (2005.6.18)

 癒し系というジャンルが確立されて、もう10年は経つでしょうか…。個人的には、この言葉もジャンルも好きではないけど。結果的に癒しになってるのはいいのだけど、最初から癒しを目的に作られたもので、本当にいいものというのはめったに見ないし、うざいからだが。「結果的に」というのは、本人は特に癒しになるようなモノを作ろうという意識は無くて、結果的に癒しにもとてもいい効果があるということである。こういうものにはいいものが多い。

 ひところ「α波」という単語がもてはやされたが、「α波が出る絵」だの「α波が出る音楽」というもののオンパレードだった。自分も当時は興味があったので、文字通り「α波の出る音楽」みたいなタイトルのCDを買ったことがあった。2回くらい聴いて捨てた。
 「とってもヒーリングに役立ついい音楽なんですよ~。α波が出てリラックスするでしょう~」とエゴの塊が語りかけてくるような音楽だったからだ。確かに音楽自体はそれらしく一見とてもリラックスするかな?という感じの作曲の仕方だった。でも「音楽」を創っているのではなく「癒してあげる」という押し付けがましさで作っていると感じたのだ。買ったCDが外れだったのだと言えなくも無いけど「そういうつもり」で創っているものは、多くが共通していると思う。

 ある一人の音楽家のアルバムを聴いて、とてもいいと思って何枚か買った。いいと思った初期のころは、ただ本当にいい音楽を創っているという感じだった。少し売れてくると、癒し系の「ヒーリングミュージック」のレッテルがその音楽家には貼られるようになった。本人もそのことを意識して活動するようになり、その後のアルバムは、やっぱり「癒しを意識した」卑しい音楽に感じたのだ。(あの、別に駄洒落のつもりではござんせんで^^;)
 そういう先入観で聴いているからではないか?と言われそうだけど、そのころはそういう考えは持っていなくて、そういうものにいくつも接してそういう風に思うようになったのである。もちろんその音楽家のアルバムも、ヒーリングミュージックになってからのものは捨てた。
 繰り返すが、ヒーリングミュージックが嫌いなのではなく、それを目的に作られたものがうざいのだ。

 いままではなんとなく聴いていて、最近意識するようになったのだけど、天気予報。あのBGMに使われている音楽は、どこの局のもなんかとてもいい感じの音楽が多い。あれこそが本当の「癒し系」の音楽という気がする。
 NHKの午後7時前の天気予報の音楽が特に何気なくていいような。何の主張もハッキリした存在感もないのだけど、「失礼いたします」という感じで耳に入ってくる。最近はどういうのか知らないが、テレビ神奈川の天気予報のBGMも好きだった。
 民放の天気予報のBGMは、既製の音楽を使っていることが多いが、NHKのは明らかにオリジナルなのだろう。まぁNHKの場合はタイトルが出るときだけの数秒間だけだし。年に一回か数年に一回なのか全然わからないけど、その音楽が変わると、最初はとても違和感があって、今までのがよかったなぁ、なんて残念だったりする。慣れてくるとまたそれが良くなるのだが。

 天気予報のBGMを集めたCDなんてないのだろうか?でも、民放のは天気予報の間中流しているからいいけど、NHKのは数秒間だから、それを詰め合わせても聴いててあわただしいな。^^;


敵は下等生物??  (2005.6.24)

 おそらく最初に疑問を持ったのは小学校のころに見たバルタン星人。初代ウルトラマンは、リアルタイムではなく再放送で見たと思う。(ちなみにバルタンという名は、映画女優のシルビー・バルタンが由来なそうな)
 彼らは宇宙を飛べるくせに宇宙船に乗ったりする。ま、それはいい。ところがあの巨大なハサミの手だ。どうやって宇宙船を操作するのだ?と思った。
 それに加えて、宇宙船のような細かい機械類を、どうやってあの大雑把な手で作れるのだ?と。そんなものは、進んだ未来社会ではロボットが作るのだ、と言っても、最初のそのロボットは自分たちで創らねばならない。

 そうしてみると、ああいうドラマで地球征服をたくらむ宇宙人には、ほとんど下等生物のまんまの姿のものが多い。まぁ、下等生物という表現は本当は間違いなのだが便宜上。
 その頭と目の位置では、立体視が出来ないだろうというものや、とてもじゃないが、高等な知的生活を営める身体じゃないじゃんというのがやたらに多かったり。
 念力を駆使できるのに、やたらに基本的な道具を使ってるなぁ、とも思ったり。^^

 大ヒットした映画の「E.T.」でも、いくらなんでもあの姿は無いだろうとは見ながら気になってしまった。しかも裸かよ!と^^;。宇宙船から地上に降りるときのデッキが金網ってのもどうなんだ?と気になったり。天下のスピルバーグなのだから、それはわかった上でメルヘン的な味を加えるために、あの姿にあえてしたのはわかるけど。
 その反面、「未知との遭遇」はあまりによく出来た映画で、宇宙人の姿も目撃される宇宙人そのままだから、スピルバーグは真実を知ってるに違いない、とUFOマニアの間でも噂されたりもした。

 勧善懲悪ドラマの宇宙人は、やはりひと目で悪役とわかる姿が必要なのだろうけど、もちょっとなんとかならないのかなぁ?なんて子供心に思ったりもした、ような記憶も。あ、生身の肉体に、最新兵器が組み込まれてるのもあまりに変だろ、とも。けっこうそういう細かいところが気になったんだよねえ。^^


追い越すな!   (2005.6.29)

 歩行者が行きかう細い道に大型車がやってくる。無理やり通るのは簡単だが、すれすれに歩くというのは、運転手側が怖いものなのだ。それに、数秒くらい立ち止まってもどうってことないじゃん…、とまで、こまごまと考えているわけではないが、まぁ普通の感覚として立ち止まって車が行過ぎるのを待つ。

 そういうときに必ずいるのだ。わざわざ立ち止まってわずかなスペースを作っているのに、後ろから来てそのスペースに無理やり入り込んで追い越して行くやつが。
 なんでこちらは立ち止まってると思ってるんだ?…、、ということはおそらくわかりきっていて、「別にどうってことないじゃん」とギリギリで通り過ぎていくのだろうけど。

 そのように立ち止まると、後ろから歩いてきたやつが追い越していかないことのほうが珍しい。そのたんびに、後ろから蹴飛ばしてやろうかと思う。マジで蹴飛ばしたところで、そいつにはまったく間違ったことをしているという意識は無いのだから、馬鹿を見るのは間違いなくこちらなのだ。周りで見ている者もおそらく、わざわざ立ち止まるこちらが馬鹿なのだ、と思うだろうし。

 ハードボイルドの世界なら「俺の後ろに立つんじゃねえ」と言うところだろうけど、「おいらの後ろに立ってろ。追い越すんじゃねえ!」

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