パソ引越し顛末記 2/4  (2004.10.6)

 パーツを買いにいくにあたって、パソ量販店は非常に不安であった。雑誌でほめてるだけの、単なる売れ筋のパーツしか置いてない。ここはやはりめぼしをつけていた、秋葉原の自作パーツを扱う専門ショップへ向かった。
 ほとんどのパーツはあらかじめ決めていたので即決であったが、一番悩んだのは本体のケース。デザイン的にも気に入ったものであってほしいし、メンテナンスし易く、まともなものでなければ困る。デザインは個性的というよりは、オーソドックスなものがいいのだか、あまりめぼしいものはない。
 30分以上うろうろとフロアを歩き回った挙句選んだのは、デザイン的にはきわめて平凡なものであった。でもこれがすこぶる良い!ほとんどの取り付けやメンテナンスにネジがいらないようになっており、とても扱いやすくて丈夫なのだ。

 さて、選んだCPUは、取り付けが難しい部類のものであったが、意外にも簡単に予選通過。初めての自作にしては完璧である。ほとんど何事もなく、組み立てはきわめて順調に終了し、問題なく動き出した。動き出すことは動き出したのだ・・・。買ったOSはウインドウズのXP。デュアルブートで使うリナックスは前回のがそのまま使える。
 さて、いよいよインストールである。98に比べたら実に簡単なインストールの手順で、パソはフォーマット作業に入った。進捗メーターを何気なく見ていると、フォーマットのテンポが異常に遅い。XPは98やMeと違うファイル形式なので、時間がかかるのかな?程度に思っていた。横で本などを読みながら、時々メーターを見てみても、ほとんど進まない。止まってるぞ!!と思うと、チラッと動いているので、一応進んではいるようだ。
 それにしても遅い・・・・。フォーマット作業に入ってから数時間が経過していた。それでも、ちょろちょろと進んでいて、4時間が経過したところで作業は100%に達した。
 その途端である。フォーマットできないため、インストールできません。ディスクが壊れています。のようなメッセージが表示された。むぉ~~~~!!!!お前、今まで数時間、いったい何をやってたんだ!!???おいおい;;;;、と思いつつ、手持ちのリナックスや超漢字などのインストールをやってみると、最初の段階で、ディスクに問題があるためにインストールはできない旨のメッセージが出る。おバカのXPのように、数時間もフォーマットをしにいった挙句に「やっぱ出来ないや」なんてことは言わない。もしかすると、XPがフォーマットしながらディスクを壊したんじゃないのか?という、実にありえる疑問も浮かんだ。手持ちの別のディスクにインストールをしてみると、XPも問題なく出来た。しかもフォーマットも早い。
 買ったショップに電話をして、症状を伝えると「ぁ~・・、申し訳ありません。それは初期不良の可能性が高いですね。」涙・・・ これは売った店が悪いというよりは、運が悪かったとしか言いようがない。

 手持ちのハードディスクは、容量が今回使いたいものよりはずっと少ないし、取替えにいかないわけにも行かないので交換しに行った。帰ってすぐに取り付けて再度インストール。おお!今度は実にフォーマットが早い!20分程度で終わってしまった。前回はよく4時間も耐えたもんだ。
 インストールは極めて簡単に終わった。続けてリナックスもインストールし、こちらは前回使っていた設定ファイルを入れると、速攻で使えるようになった。リナックス側は何の問題もなかった。問題はXPだ。XPは直前にSP2(サービスパック2)が出ていたものの、それを入れたユーザーを襲ったトラブル報告は嵐のごとくだった。一応SP2の方が数々のセキュリティ修正などを施したモノになって入るが、いきなり起動も出来ない可能性が高かったのだ。そもそもマイクロソフトが出したアップデートパッチの集合体である。まともに動くはずがない。少なくとも数ヶ月は様子を見ないと恐ろしくて入れられたもんじゃない。それよりは、普通に使い始められて、その後自分で必要なものだけをアップデートした方が安全である。ということで、店員とも相談しSP1にした。店員も、危険を承知のSP2を積極的には売りたくなさそうだった。^^;

 さて、リナックス同様XPも簡単にインストールは終了し、あっさり動き出した。か、に見えた。ここからが、インストールまでの作業をはるかに上回るXPとの小競り合いの日々の始まりだったのだった。
(また、つづく)

パソ引越し顛末記 3/4  (2004.10.8)

 さて、XPのインストールとあいなるのだが、これがなかなか・・・。インストール自体は実に簡単なのだが、そこから普通に使えるようになるまでに一週間を要することになった。その間10回近くはインストールのやり直しをしたと思う。しかも短気になって入れ直したものの、入れ直さなくても直せたことに気づいたことも何度か・・・。
 再起不能になるのは、XPの出来の問題もあるけど、それ以上に、自分があれこれ設定をいじりまくっているのが最大の原因と思われ^^;;。最初に本屋で、XPのあれこれの設定をいじるための、雑誌や本を買って研究したし。最初の現象は、再起動したときに顕現した。すべての表示をクラシックなウインドウズスタイルにしているのだが、アイコンの下の文字などのあちこちの文字が、すべて斜め45度右上がりになり、ひしゃげて読めなくなっている。フォントキャッシュがおかしくなったのかと思い、セーフモードで再起動したりしたが、全く直らなかった。なにか操作をしようと思っても、出てくる文字が全く読めないのでどうしようもない。
 システム復元も最初は無効にしてしまっていた。この辺の機能は全く信用していなかったので。で、仕方なく再インストール。また、以前からノートンのシステムワークスを使っていたのだが、98やMeでも、なんかウインドウズと相性の悪いソフトであるという印象があった。それがXPではさらに相性が悪い感じがする。んで、インストールしたり削除したりしているうちに、どうにも直らない状態になってしまって再インストール。復元機能でも直らないことはないけど、あれはきちんと復元してくれていないということがよくわかった。

 ウインドウズの設定をいじっていて思うのは、「1+1=2」になるという設定のはずが、必ずしもいつもその通りにはならないということがあるということだった。ほかの設定と組み合わせていじると、1+1が3になったりマイナス1になったりすることがある。復元機能も、アプリのインストールや削除を無効にしたり、システム設定を以前の状態に戻すけど、作ったデータには影響を及ぼさないということだったが、しっかりデータまで消してくれたりする。外付けのディスクにしまってあるやつを、わざわざ探しに行って消したりもする。パソ内のディスクでは危ないと思って、わざわざ外付けのディスクにしまったのに、そのデータを作ったアプリが復元機能で消えるということで、それで作ったデータをご丁寧に消しにいった。まぁこのときは、復元を取り消すとデータはフッカツしたのではあるが。

 なかなか思うようにいかないのも悩んだが、ドライバのインストールなどの時に、「管理権限者の資格で行え」というのもよくわからんかった。リナックスなどのばやいは、ルートという絶対的なシステム管理者がいる。そして、それ以外のユーザーアカウントも作成し、通常は普通のユーザーで作業をし、システムをいじるときだけルートでログインすることになっている。ルートは、システムを破壊することも何でもできるからである。ルートというアカウントのシステム管理者以外には、管理権限をもったユーザーなど存在しない。
 当然そのことだろうと思って、Administratorがそれに当たるのだろうと思っていたら、どうもそうではないらしいし、そもそもなかなかそこへログインができなかった。何とかログインしたモノのなにかおかしい。そうこうするうちに、最初からログインしていた自分自身のアカウントが管理権限者だということがわかった。おいおい、なんちゅういい加減な管理のさせ方だ?;;; 全体的にセキュリティのポリシーが全く見えないOSという印象である。セキュリティに力を入れたOSというふれこみの割に、いくらでもそれを簡単に回避して作業ができるし、他人も簡単に入り込めてしまうではないか。

 何度もインストールしたり設定をしたりしているうちに、特徴も飲み込めてきて、何が問題になるのかがわかってきた。またインストールし直して、ノートンもシステムワークス全体を入れずに、アンチウイルスだけにした。そしてとりあえずネットにつないでウイルス定義ファイルの更新をした。その途端だった。更新中にウイルスに感染したとのメッセージがでた!!しかも4つ。更新も正常にはできず、すぐに駆除をしたのだが、システム中心部に感染した2つはどうしても削除ができず、やむなく再インストール・・・。
 ファイアウオール(ウインドウズのではなく、フリーソフトのやつ)とアンチウイルスをオンにして更新していたのに、そのときに感染したのではどないせぇっちゅうねん;;;
 も一回インストールしておそるおそる更新すると、今度は無事にウイルスファイルの更新は完了した。そんなこんなで、どうにか思うような設定に落ち着き、必要なソフトもすべて組み込み、頭から再インストールもしなくてすむように、最初の段階と最終段階の二通りのディスクのコピーもとった。何か問題が起きたら、どちらかからコピーし直せばすむ。さぁようやく、まともに使える段取りも整ったのであった。
(も一回つづく)

パソ引越し顛末記 4/4  (2004.10.10)

 当初には予定していなかったことだけど、カートリッジ式のHDD(ハードディスク)ケースをつけることにした。内蔵CD-ROMドライブのように設置でき、ケースの表からHDDを抜き差しできるようになっている。通常のHDDは内部に普通にあり、二台目(スレーブ接続)をカートリッジ式に交換できるというもので、なかなかの便利グッズだと以前から目をつけていた。これに、良好な状態の時のディスクコピーをとっておき、いざとなったら書き戻せるようにした。普段はまた別のHDDを差し入れて、データ保存用にしてもいいし。

 デジタルデータというのは便利ではあるけど、本当に怖い。紙の上のものやアナログのデータならば、破れたりぬれたり、一部破損しても何とかなる。焼けて灰粉にならない限り、中身の確認のしようはある。でも、デジタルは一巻の終わりということがほとんどだ。バックアップをとったつもりでも、どこかデータに欠損があって、永久に消滅ということも多い。(お釈迦になったハードディスクからデータを拾い出す方法もあるけど、常識的な金額ではできない。)
 今回もそういうことがあった。デジタルデータがそういう意味でとても怖いものだというのはわかっていたから、いくつかの大事なデータは何重にもコピーしてある。ホームページを作っているソフトは、ドリームウエーバーというソフトなのだが、これは非常に高価なソフトなんである。たまたまバージョンアップの谷間の時に格安でメーカー側が売っていたのを買った。直後に、無料で次期バージョンにダウンロードでバージョンアップできたのだが、バージョンアップ以前とは使い勝手が大幅に違う。ダウンロードしたデータは大事に保管しないとならない。同じものを買うと数万円は払わないとならない。おそらく事情を話しても新たにくれたりはしないだろう。CD-Rに焼いても、あれは結構データが壊れることも多く、安物のCD-Rだとマジでデータが蒸発することがあるらしい。(まぁ、蒸発っていう表現はあれだけど・・・)それで数台のHDDのあちこちにコピーしてあった。ところがXPにして、そのデータからセットアップしようとしたら、うんともすんとも言わなかった。何がおかしいのか?XPでセットアップできないのか?と思い、予備の98の入ったノートでセットアップしようとすると、そのデータが壊れていたことがわかった。4~5カ所にコピーしたデータのすべてが壊れていた。途方に暮れた・・・。それでコンスタントに続けていたホームページの更新もできなくなった。バージョンアップ前のソフトなら購入したCDがあるのだが、使い勝手ちがうのでよくわからない。最初から覚えなければならないのか?・・・。
 翌日、ほとんどアクセスしていなかったディスクにもコピーがあったが、それは生きていた。それでなんとか無事にソフトはフッカツすることができた。どうやら前述の出来事は、古いバックアップをした後に本体のデータが壊れたらしく、それに気づかないままに次々にコピーして回っていたのだようだった。画像やテキストデータならまだ確認はできるけど、こういうデータはセットアップしてみないとわからないので怖い。

 さて、初期不良はハードディスクだけではなかったのである・・・。パソ本体のピープ音は鳴るのだけど、いわゆるサウンドがならない。いろいろ試してメーカーに問い合わせた結果、マザーボードのサウンドが不良の可能性が高いという。なので、買ったショップへ持ち込むかメーカーへ送って検査と修理を依頼してくれと。んな!ここまで組み立てていろいろうまくいくようになって、いまさら分解して、おそらく一週間以上も使えない状態にできるかぃ!ということで、別途安い中古のサウンドカードを付け足してサウンドもなるようになった。まぁ、普段はウインドウズの操作音は鳴らないようにしているし、スピーカーにもつないでないので、不自由することは少ないのだけど。

 細かいことを書くとキリがないのだけど、おおよそこれで普通に使える状態にはなった。でもまだSP2はインストールしていないし、98に比べたら圧倒的にセキュリティを狙われる危険が高いわけで・・。
 マイクロソフト製品をさんざんけなしているが、パソを使いやすくしたという功績もあると思う。というより、使いやすく見せているだけというべきか。本当はパソコンというものは、ものすごくやっかいで難しいのに、誰でも簡単に扱えるというウソを広めた罪も大きいけど。ウインドウズが欠陥だらけというよりも、パソコンというものは、まだまだ誰もが安心して使える道具には成熟していないというのが本当なのだと思う。
(中途半端だけど、キリがないのでおわり)

ネットワーク家電…  (2004.10.12)

 先日テレビにて、「ネットワーク家電」に関する展示会のリポートをやっていた。快適な住居環境のために、最先端技術を駆使した住環境である。朝目覚める前に、エアコンによる温度調整が始まり、自動で雨戸やカーテンが開き、ありとあらゆることをやってくれる。ベッドにもセンサーが組み込まれていて、その人がどの程度の睡眠の深さであるかを察知し、朝目覚める頃を察知して、エアコンが作動したりする。人間はただ寝て起きるだけである。

 それを見たキャスターは、「何もそんなことまでやってもらわなくても、って思っちゃいますけどね」と言っていたが、ホントにそうだ!あくまでそのような技術がある、というだけならよくわかる。また、日常生活に支障のある人のためになら、とても役に立つでしょう。でも、普通の日常生活が送れる者にそんなものは間違っても必要はないというか、やるべきではないでしょうに。「できること」と「やるべきでないこと」は明確にすべきだと思っている。便利になればその分失うものが多いのは、今更言うことでもないし、そんなモノはキリがない。
 正直、そのテレビのリポートを見ていて少々腹が立った。もちろん、リポートに腹が立ったのではなく、その展示会である。会場での紹介の仕方が「未来の夢の生活」のような構成だったからだ。発表の仕方の構成が馬鹿だったのではないか?とも思う。あれが、たとえば介護の場での状況だったら、とてもいい技術の開発と映っただろうに。

 繰り返すが、そういう技術が確立されたというだけの話にして、本当に必要とされる場面での適用にしてほしい。間違ってもそんなものが一般化するような事態にはならないでほしいのだけど…。
 なんだか、わざわざ書かなくても当たり前のことを言ってるようだけど、なんかとても「それは違うだろう!」と思ってしまったので、どうしても書きたくなったのだった。

めんつゆ、大阪vs東京  (2004.10.14)

 一般に、関西のそばやうどんのめんつゆは薄味で、東京は濃いとされている。実際には見かけによらず、関西のつゆの方が塩分が多いというのはご承知の通り。でもまぁ、東京のつゆの方が辛く感じる。見た目からして、東京のつゆは色が濃く、醤油たっぷりの感じはする。
 ちなみにうちの父親は生前、家ではそのつゆに醤油を加えて食していた。^^;(別に生前と書いたからと言って、霊界でそうしているのかどうかは知らぬ)

 社会へ出た22から3年間は大阪に住んでいた。ある時、同僚たちと帰りに飲み、終電も過ぎていたので、タクシーで小生のアパートへ行って雑魚寝することになった。
 タクシーの運転手さんは何度か東京へ行ったことがあるらしく、そのときに食べたそばつゆの話になった。「もう、中が見えないくらいにまっくろやろ。辛いし黒いし・・・」としきりに言っていた。東京のそばつゆは口に合わん!と。「あ~~、今思い出しても口の中が辛いわ!」と繰り返していた。

 個人の好みや慣れた食習慣の問題もあるから、どちらがどうとは言えないけど、自分の舌にも関西の薄味つゆの方が好みに合っていた。しょっちゅう出張で東京へ戻ってきていたのだが、やはり大阪のつゆの方がよかった。そんなある日、仕事中のお昼に、立ち食いそば屋へ入ってうどんを食べていた。口にするなり「え?!なんじゃこりゃ!東京のつゆみたいに濃いなぁ…」この店入ったのちょっと失敗したなぁ、と後悔した。
 しかし数秒後には合点がいった。出張中で都内で食べていたのだった^^;;;。

自慢話  (2004.10.16)

 大学を出る頃まで、どちらかというと自分は自己顕示欲の固まりで、人によく見てもらおうという意識が強かった。大阪で人間関係に目覚めてからは、実際以上の自分に見てもらうよりも、以下に見てもらう方がいかに良いか、と言うことを悟った。
 もちろん、等身大で見てもらえるのが一番良いのだが、それよりも上に見られるのは、双方にとって何の良いこともない。等身大以上に見せるというのはそれほど難しいことではないと思う。ただ、それによる嫌悪感と苦痛が残るだけで。等身大以上に見せるのは、己を敵に回している上に空虚の連続であるけど、実際以下あるいは最低ランクに見られてしまっても、最悪でも自分自身は自分を理解しているからまだいいか、という線は確保できる。

 自分をよく見せようとする簡単な手段は、やっぱり自分に関わる自慢話でしょう。現在の話なら脚色を加え、脚色ではなく事実をそのまま話しているときでも過去の栄光だったり。
 話し手個人の自慢話を聞かされることのうざったさは、誰でも経験があると思うが、そのつもりが無くても、そういう話になりかかるような時はないでもない。自分が関わったひとつの話題を話しているだけのつもりが、ヘタをすると自慢話にとられかねないと言うときである。そういうとき、自分で気づけば適当に話を納めて回避する。そのまま気づかずに自慢話風になってしまったときは、多少の嫌悪感を感じてしまう。

 まるでそのつもりはないのに、相手によっては自慢話ととられてしまうケースもあり、そういうのはどうしようもない。たとえば、この項の出だしで「大学を出る頃まで、」と書いているが、大学出であることを自慢している、と受け取る人だっているのである。自分としては、ただ話の書き方として、時系列的な事実を言っているだけなのだが、わざわざ「大学」ということを書いて、遠回しに自慢してやがる、と取る人もいるのだ。
 他の国のように、大学へ進むのは一部のエリートや本当に目指すモノがあって入るのとは違って、何となくだったり、まだ社会へ出たくないから進学するというケースの多い日本で、大学へ進んだと言うことはそんなに自慢になることだとは思っていない。もちろん自分が進学したのも「なんとなく」であった^^;。

 自慢話をされて、聞いている方がそれほどうざったく感じないというのは、その人の子供の話か配偶者の話の時ではないだろうか?個人自身の自慢話でも聞いていられないのに、それ以上に聞いていられないのはなんと言っても親の地位や友人の地位にすがった自慢の仕方か。
 親を自慢するのでも、尊敬の念を込めた自慢ならば良いお話として聞けるのだが、肩書きや経済的なことを持ち出して、自分がその傘下にいることを自慢したり、有名な会社や業界あるいは有名大学出身の友人がいると言うことが自慢になる人もいる。親や友人の「人間そのもの」が自慢なのではなく、社会的地位などが自慢なのでありますね。

 昔、千葉の館山の宿に泊まったとき、おかしな若い男がいた。自分の仕事を紹介するのにちょっと遠慮をしていた。CMでも有名な繊維会社に勤めていたので、その名前を出すのを遠慮していたのだ。遠慮していたというと聞こえは良いが、有名な会社なので、その名前を出すことで自分の地位が他のみんなより上になってしまうのが歴然としてしまう、というような言い方をしていた。こちらは目が点である・・・。
 かつてはそういうやつもいたけど、仕事を聞くと職種ではなく会社名を答えるタイプである。「ソニーに勤めています」と言われても、全員がオーディオやアイボやVAIOを作ってるわけがないであろうに。
 忘れたけど、何かが原因でその男と口論になった。その男は「オレは○○だよ!」と会社名を口にすることで、社会的な地位の勝敗を示そうとしていた。もちろん、口論の内容とは全く無関係のことである。それらのこと以外は、まぁ普通に見える男ではあった。
 ま、ちょっとこれは極端なエピソードではあるけど、自分自身のことを言っているのでまだ罪はない。(無いのか?^^;)
 この時に、「オレの友達は○○会社にいるんだよ!」とか「業界に友達がいるんだよ」だの「オヤジは○○物産だよ」などと持ち出されては、ほとんど「その筋がバックにいる」とイキがっているのと変わらなくなってしまうような。

 実際以上の自分に見せるという行為は、自転車操業のように、いつも見栄を張っていないとならない。周りが感心してくれたりチヤホヤしてくれたりもするだろうけど、本人の心が安らぐことは無いだろう。では、何のためにそんなことをしているのか?と見てみると、(自分の経験から見ても)だいたいは、そうすることでしか自分を保てない、つまり自分自身との折り合いがついていないと言うことなのだろう。

本来の葬儀  (2004.10.18)

 叔父の法事に出席した折、住職からのお話がなかなかおもしろかった。先日住職は、一風変わった葬式に立ち会ったという。そこでは、通夜・告別式とも身内である12人だけで行ったという。どちらも同じメンバーの12人で行い、通夜の席には坊さんは不要である。そして、告別式の時に来てほしいと。住職は大いに納得した。(もちろん12人という人数には意味はなく、やり方のことである。)

 本来通夜というのは、文字通り「夜通し」という意味である。家族が夜通し仏さんに寄り添って寝ることで、安心して成仏してほしいと願うのが本来であると。昨今の通夜や告別式は、葬儀屋の商業主義に乗せられてしまったやり方が横行している。一番大事なのはもちろん告別式であり、そこで最後のお別れをする。法事と違い、告別式は突発的なので平日などが多く、日中は仕事で来られない人のために、通夜という催しをして、来てもらってたりする。

 住職がその式に立ち会った直後に、おもしろい新聞アンケートが掲載されていたそうだ。「自分の葬式に来てほしい人、来てほしくない人」というアンケートで、65%の人が「家族」などの身内に来てほしいと。逆に来てほしくない(というより来る必要がない?)のは、隣組や会社関係の人。特に会社関係だと、自分がつとめていたわけでもなくても、礼儀や義理で来るわけで、仏さんにとっては顔も名前も知らない人が来ることが多い。そういうのは不要であると。しかも、そういう今では一般的なやり方だと、大事な最後のお見送りである告別式に来るべき人が、そちらには来ないで通夜の方に来るという、本末転倒なのが常だ。

 住職が立ち会ったその告別式の席で、「こんなのは初めてだ」と、とまどいを示した方がいたそうだが、「これが本来の葬儀のやりかたなんですよ」と話すと納得されたという。
 葬式というのは本来は神道の守備範囲で、いつの間にか仏教の仕事になってしまっている、と聞いたこともあるので、何が本来なのか?という疑問もあるが、、いずれにしろ、自分が常々抱いていた葬式のやり方への疑問に対して、納得がいくようなお話でした。

世代の違い  (2004.10.20)

 普段はそれほど感覚の違いを感じない相手に、世代の違いを感じるとき

●女優の工藤夕貴の父親は歌手だが、それについて6つ上の先輩と話してたとき(サラリーマン時代)
小生 「工藤夕貴のオヤジって歌手やったんね?なんてったっけ?」
先輩 「名前言うたら、ぜぇったいわかるわ。」
小生 「だれ?」
先輩 「井沢八郎や!」(どうだ!知ってるだろ!と勝ち誇った感じで)
小生 「だれ?それ…」(キョトン)
先輩 「…!!知らん?!!…あちゃぁ~~」
井沢八郎を初めて見たのは、この数年後に週刊誌の写真でであった。

●藤子不二雄のテレビ漫画「パーマン」について話しているとき、相手は
「♪パーマンパーマン パーマンパーマン」のパーマンが頭にあり、自分は
「♪真っ赤なマントをひるがえし 来た~ぞ僕らのパーマンが」が頭にあるとき^^;。
(子供と見てるお母さんも多いので、その場合は除く)

●ひとまわり以上年下の男が、キャンディーズのことをほとんど知らないことがわかったときに、そばで聞いていた小生と同年代の男が言った
「我が青春のキャンディーズを知らないとは…」

●来年の話になったとき、仕事仲間が
「今から来年のことなんか言ってんなよ。鬼が笑うよ。^^ クックック・・・」
と、ジョークのつもりで言ったとき。
(「来年のことを言うと鬼が笑う」というフレーズが存在したのは知っているが、自分はそれがおもしろいジョークになるとも思わない世代である。そもそも全くそのフレーズを使わない世代である。)

●テレビ漫画の話の時、「花のピュンピュン丸」のチビ丸やケメコを話題にできないとき。

優しい若者?  (2004.10.24)

 ドトールコーヒーの野外テラスで本を読んでいた。ひとつ離れた席に座った若い男がたばこに火をつけた。野外だからまぁ平気だろう、と思っていたけど空気の流れが悪く、もろにこちらに煙が流れてきた。くそ~~、と思ったけど、禁煙席に座っているわけでもないので、あからさまに文句も言えないし・・・。
 と、思っていたら、その男はたばこを口から離し、こちらを向いて
「煙、大丈夫ですか?」と聞いてきた。意外な展開に怒りの気分もぬけ、大丈夫ではないけど「あ、ハイ」と答えた。一応の気遣いを見せてくれたので、状況は変わらなくても不快感はかなり減少した。一見、周りのことには無関心で無頓着に見えただけにとても意外で、でも気遣いが心地よかった。
 その男は帰るときには、使用後の食器を置く棚から台ふきを持ってきて、自分が使ったテーブルをきちんと拭いて帰っていった。セルフサービスなのだから、食器を片づけるのは当たり前でも、そこまで後始末するのも珍しいでしょう。とても感心してしまった。

 そういえばその数日前、小田急線が終点の新宿に着いて、乗客があわただしく降りている中、ホームの端でうずくまっている女性がいた。行き過ぎかけたフリーター風の男が、かがみ込んで「大丈夫ですか?」と声をかけていた。下心があった風ではなく、真剣に心配していた。久しく見ない光景で、この時もちょっと感心してしまったけど、だけどだけど、本当はこれらの気遣い心配りなどは、実に当たり前のことなのだよねえ。

 若者の勤労意識や、社会意識などなどについて、社会人先輩たちは苦言を呈し、時にはその立ち居振る舞いを非難する。でも、日常で見かけるのは、その非難している側の横柄さや非常識さであり、非難されている若者たちの、普通に行う他人への行為だったりする。電車でも、積極的に席を譲るのはそういう若者の方が目につき、諸先輩たちは、譲るべき相手が目の前に立っていても無視しているのが目につく。もちろん、どっちもどっちだというのが多いけど。

 若年層は周りに無関心で、意欲もなく、、、等というのが一般に言われてしまっているが、一概にそんな風に言えるようには見えない。むしろ非難している側に言う資格がないものが多い。不況の追い打ちで心に余裕が無く、それに比べたらその日暮らしにちかい若年層には余裕がある、と片づけて良いのか?・・・理屈ではいろいろその裏側を非難できるかもしれないが、少なくとも、手をさしのべるべき人がいる時に、ちゃんと手をさしのべることをしている側を認めたい。

勝手にイライラ   (2004.10.26)

 日常生活の中でイライラすることの多くは、自分で勝手に腹を立ててる場合が多い。たとえば、車を運転していてやたらに信号に引っかかるとき、タッチの差で電車に乗れなかったときやエレベーターがなかなかこないとき、などなど…。
 このどれをとっても、その事実以外には何も意味などはない。誰かの悪意で信号が赤になるのでも、電車に間に合わないのでも、エレベーターが反対の方向へ向かっているのでもない。すべてはたまたまそのときの偶然で、自分が勝手に意味をつけて腹を立ててるだけなのだ。

 約10キロの距離をバイクで仕事場に通っていた頃、やはりやたらに信号に引っかかるという時があった。当然イライラする。いくつか目の信号に引っかかったとき、ふと前述のことが頭をよぎった。よく考えたら、ただ信号に引っかかっているだけで、それによって自分は何の不都合を被っているわけではなかった。時間のロスをすると言っても、10キロの距離ではすべてを合わせても10分になるわけでもない。せいぜい、ほんのちょっとそのときの燃費が悪くなるくらいのモノだ。
 そう思ったら、ふっと軽くなった。先の信号が黄色になったら、止まる準備をして止まればいいだけで、青になるまでその辺の風景でも眺めてればいいのだ。

 同じ時期、仕事場でイライラしていた。回ってくる仕事の段取りも悪く、自分が終わるつもりだった時間を超えそうになっていた。そのときも、先ほどのようなことを思い出し、よく考えたら、帰りが遅くなって困ることは何もないことに気づいた。単に自分の考えていたシナリオ通りに進みそうもないことで、イライラしていただけだったのだ。それに気づいたら、きわめて平然として仕事を待っていられた。

 いつもイライラしている人というのは多いモノで、せっかちで余裕がない人のように思われがちだけど、それは逆で、余裕がありすぎるからイライラするのかもしれない。あれこれ考えすぎてイライラしているからであって、そんなに考えている余裕があると言うことで。

 そんな風に、自分で勝手に意味づけしてイライラしているのだとわかっていても、パソ関係ではそうは平然としていられませんねえ。^^;;

雑記帳37< エッセイメニュー >雑記帳39