休診  (2004.8.12)

 んが~~~!!
また休みかよ~~!;;;。

 医者の休診日の話しである。
 そういえば我々は、「医者に行く」という日本語を普通に使っている。「歯医者に行く」「眼医者に行く」とも言う。後者2つは「歯科医に行く」「眼科に行く」とも言うが、まぁ「歯医者に行く」と普通に言う。これってかなりおかしな日本語ではないのか?「医者」というのは人間のことであって、同じく人間を指す「お巡りさんに行く」なんて言わない。この場合は「交番に行く」か「警察に行く」などしかあり得ない。

 で、その医者の話なのだが、身体の調子が悪く、これは診てもらった方が良いな、と思って行こうとすると、なんだかやたらにその日が休診だったりする。明日行ってみようと思って診察券を確認すると、明日は休診だったり、行ってみたら休診日だったり。偶然にしてはあまりにも図られてる気がするが・・・。
 前日までに行けば行けたのに、我慢してて、これはあかんわと思って、よし!明日行こうと思うと休みが多い・・。受診科目にかかわらず、日曜休診、土曜は午後休、水曜か木曜日も休診というのが多い。それで月曜辺りになんかおかしいなと思い、様子を見ようと思って、やっぱり行こうと思うと水曜や木曜だったりする。それで行けないと、金曜や土曜の午前中には時間が取れずに、結局行けなかったりすることがやたらにあるような気がするのだが。
 週半ばに休診のところは、学会などに行くことが多いようだが、なんとかならんのかなぁ?・・・

文房具屋  (2004.8.20)

 どこでも小学校の前には、文房具屋があるもんだと思っていた。今、あちこち自転車で走りまくる範囲を見ても、そうでもないことがわかって意外だった。と言うより、今時はそうでもなくなってきたのだろうか?

 小学校の頃の文房具屋は、小学生にとってはある種のよろず屋的な印象だったりする。少なくとも、自分の頃はそんな感じだった。特に町の小さな文房具屋や、小学校の校門前にあった文房具屋はそうだった。学習用具はもちろん、簡単なゲームやコンパス磁石、果てはちょっとしたプラモデルまでも扱っていたりした。
 そこで変わった消しゴムを買って喜んだり、ジャポニカ学習帳などの紙質の良い、きれいに罫線の入ったノートにワクワクしたりしたのだ。理科の教科書では定番だった馬蹄形の磁石をそこで買って、妙に満足した気持ちだったこともある。ガラス戸の棚の中に入った豪華製本のフォトアルバムや、カギ付きの日記帳なんかは、高級品が陳列されている趣にさえ感じた。

 その校門前にあった文房具屋も、いつの間にか無くなってしまった。たしか橋場堂という文房具屋だったと思う。学校の帰りに立ち寄るということは、ほとんど無かったと記憶しているけど、何気にその辺りに遊びに来た時は、必ず入ってみたりしていた。

 ある日、店の前にいると、2学年くらい上の先輩の男が入っていった。通っていたのは全校600人の小学校なので、面識が無くても何となくお互いに顔は知っていたりする。その時彼は、自由に使って良い千円を持っていた。少しずつためて、やっと大台に届いたお金だったようだ。そのお金で、絶対に何かを買って帰るんだと意気込んでいた。
 昭和46~7年の事で、当時の小学生にとっては、大きなお金である。と言っても、今の価値にしても3千円程度だと思うが、世の中全体も、今ほどにあれこれ買うような時代でもなかったので、千円を使うと言ったらかなり使いではあったと思う。時々買っていた600円のプラモデルだと、結構奮発した気分だったし。
 今だったら、ゲームソフトを買いに走ったりするのだろうが、彼はそのお金を、普段なら買わないようなものに、ドカッと使うつもりで文房具屋にやって来たのだ。大きな買い物をする場所が、文房具屋だったのだ。店のオヤジにも、このお金で大きな買い物をしたい、のように告げていたようで、あれこれ物色をしていた。
 やがて彼は、店の前で成り行きを見ていたこちらに笑みを浮かべて「やったぜ」と言いながらゲームを抱えて出てきた。中央に玉入れのかごがあり、周りからバネで球をはじいて入れるようなゲームだったと思う。小学生5~6年生が伸ばした両手を肩幅より広げて抱える位の大きさのモノだった。
 ゲームとしては、当時でもありふれたものだったが、使える状況にあった千円をちまちま使うのではなく、何か思い切った買い物をすると決めて、買っていったのだ。何を買ったか?ではなく、どう使ったか?の問題だったのだ。なんだかさわやかだった印象が、今でも残っている記憶である。

柔道アテネ  (2004.8.22)

 アテネオリンピックのまっただ中、なんやら何十年ぶりに日本は金メダルラッシュ。今回は特に、注目される競技とそうでもない競技の、マスコミの扱い方の差を感じるような気もする。

 さて先日、パソに向かいながら、後ろではオリンピック速報をテレビで流していた。前後で電磁波に挟まれているという、どこやらのカルト教団にとっては最悪のポジションである。
 放送では、柔道男子の結果をビデオ放映していた。

 足技を得意とする鈴木選手の予選の模様をやっていた。
「足を出した!大外刈り!」
のように、足での刈り技が多いのだが、
「モミジ狩り!」
と言うのも聞こえたぞ。聞き間違いだとは思うが、興奮したアナウンサーのろれつが回っていなかったのかも知れないし・・・?

 プロレスでは、頭を下にして大股を開かせる寝技「恥ずかし固め」なんてのも最近はある。^^
柔道にも「モミジ刈り」なんていう、優雅でオチャメな技が出来ても、、良くない?^^;

高校野球について  (2004.8.26)

 高校野球には、それほど興味は持っていない。高校野球に限らず、アマ野球全般にあまり関心はない。今では「日本の」プロ野球にさえ興味はなくなった。

 甲子園大会の時期になると、なんだか8割以上の人が、高校野球に関心があるような雰囲気に感じるが、自分は、知らない間に始まっていて、いつの間にか終わっているという感じである。母校が出場した時も知らなかったし。
 高校野球が好きな人の、好きな理由はさまざまであろう。野球そのものが大好きで、プロアマ何でも観るのが好きであるという人や、プロは興味ないけど、球児たちのひたむきさに感動を覚えるから好きだという人や。
 それぞれの人の興味の持ち方はもっともだし、よくわかる。でも一方で、高校のスポーツは野球だけではなく、他にも全国的な大会はあり、それらが一般的にはほとんど関心を払われないのも気の毒な感じも。
 日本では野球は国技同然なので、野球に関心が高く、甲子園大会という全国各地のお国代表の激突という熱の入り方もありますね。大手新聞社主催による宣伝効果もあなどれない。

 平ったく言えば、アマスポーツにそれほど興味がないのは、自分にとっては観る要素の問題かと思う。高校野球に、プロのような技を観ることを求めている人はいないだろう。
(バント技術について、プロは高校野球を見習えなんて言ってる人がいたが、勘違いも良いところ。確かに高校ではバントをみんなが目いっぱい練習していることもあるが、プロはバントさせない技術もレベルが高いから、おいそれと簡単にはバントできないのだ。)
自分の母校だったり、地域の代表だったりという感情移入が一番大きく、甲子園という大舞台で、ひたむきにプレーする姿を観るのが好きだという人も多いだろう。アテネオリンピックにオールプロで臨んだ野球代表の、ものすごい集中力に感動するのと相通じるモノはあると思う。
 自分も、テレビでの特集などで、ある高校野球部の事が取り上げられ、それを観て感情移入した時は、がんばって欲しいもんだと思ったりもする。でも、普通はそれほど興味はない。
 最近はそんな人はいないだろうけど、以前は高校野球にまるで関心がない態度を、非国民を見るような目で見る人がいた。それではあんたは、高校バレーや卓球や、そういうモノにすべて熱心に関心があるのか?と問いたい気分であった。少額を賭けて優勝校を予想して楽しんでいる連中だって少なくはない。

 自分は、高校野球を取り囲む環境が嫌いであるという部分もある。高野連しかり、球児に勝手なイメージを押しつける大人たちしかり。
 よく言われる、高校生らしいプレー、高校生らしいすがすがしさ、等というモノを勝手にイメージとして押しつけているのは一番嫌いである。大人が日常の憂さを晴らす精神的な場を、高校野球に押しつけている部分はあるだろう。彼らは自分のため(チームのため、支えてくれる周りのため等も含む)に野球をやっているのであり、観戦する大人の気持ちを満足させるためにやっているのではない。マスコミや一般の人が部員たちの行動に、さわやかであって欲しいとか、高校生らしくないとか言うのは、極めて勝手な言いがかりだと思うのだ。それは大人が勝手に作り上げた、理想の高校生らしさにはめ込もうとしていることに他ならない。
 連帯責任というのもよくわからない。一部の部員の不祥事を、全体の責任にするのはあまりにかわいそうだし、ましてや、野球部以外の生徒や教師の不祥事を理由に出場を禁止するなんてのは、大人社会の世間体でしかないのではないか?

 考えてみたら、そういう理不尽な部分を知らなかった頃は、人並みではないにしろそれなりに甲子園大会などは見ていたから、その辺に嫌気がさしていることも要因なのかも知れない。
 「日本の」プロ野球に興味が無くなったのも、巨人のためのドラフト改悪や制度の改悪などがあり(逆指名やFA)、あまりにプロ野球を取り囲む環境が見るに堪えなくなったからでもあるし。

召し上がる?  (2004.8.30)

 先日、渋谷のドトールコーヒーに入った。ドトールで頼むものは、8割方はホットのカフェラテのSサイズである。210円。

 その朝も「ホット・ラテのS」といつものように頼んだ。いつもと言っても、いつも同じ店ではないが。応対したのは20代半ばくらいの女性。

 「お召し上がりですか?」
「は?」
「お召し上がりですか?」

 店内でお召し上がりですか?のことだとは思うが、サンドイッチを頼んでいないのに、そのことに関して勘違いしているような口調にも思えるし、でも、「店内で飲むか?と言うことか?」と聞きかえすのもおかしいし、と瞬時に考えながら、やっぱり
「は?」である。すると今度は
「店内でお召し上がりですか?」と言ってきた。
「はい」と、やっと言える。

 その女は、自分の文章が不十分だったことに気づいたようにも見えるし、そのくらいわかれよ!と思っているようにも見えた。次のお客には「店内でお召し上がりですか?」と言っていたので、確かに文章足らずであったのは気づいたのであろう。

 しかし、単に言葉が足りなかっただけなのか、前の客までは「召し上がりますか?」だけしか言っていなかったのか?
 まぁ、通じないこともないけど、やっぱり一瞬は「なんだ?」と思うから、ちゃんとした日本語をしゃべれよ!という気持ちでもあった。「召し上がりますか?」だけでは、召し上がらないわけはないのである。んじゃなければ、注文しておいて受け取ったら「捨てますか?」ということかぇ?

言ってみたいこと  (2004.9.1)

言ったことないけど、言ってみたい事。


■書店入り口などに必ずいる、英会話勧誘のうざいチャラチャラ姉さんへ。
1)「Sorry,I don't speak Japanese.」
2)「あんたは、どれくらいでこの英会話教材をモノできたの?^^」

■いまいちうれしくもない贈答品をもらった相手に、電話でお礼。
「どうも、このたびはつまらないモノをいただきまして^^」

■町で勧誘して声をかけてくる輩に
輩   「ちょっと、よろしいでしょうか?」
おいら 「よろしくないです」

■同じく、何かの勧誘らしいのだが、急に目の前にやって来て「こんにちは~!」というのが何度かあった。そんなときに
輩   「こんにちは~!」
おいら 「さよ~なら~」

■「お前の会社まで取り立てに行くぞ!」ととんちんかんな脅しメールを送って来る、架空支払い請求者に
「行けるもんなら行ってみれ^^」

■「版画展やってるんですよぉ!どうぞ観ていってください!」と、詐欺いっぱいのニコニコ顔で券を渡そうとする姉さんに
「版画?ホントはオフセット印刷でしょ?」


もっといろいろあるハズなんだけど、いざとなると思い出せない。
さて、貴方は?^^

木の教え  (2004.9.3)

 (塩野米松著「木の教え」より)

 植木屋さんが、庭に木を移したり、公園の木を育てるのには、それまで育ってきた環境とできるだけ同じにしてやるんですよという話しをしてくれました。そのとき、新しい環境があんまり悪いと木は育たずに死んでしまいますが、なかには木が自殺することもあるんだよと聞かされました。
 植えられた木がうまく根づかずに死ぬときは、飢えた人や育てる人がヘタか不真面目なために殺されて死ぬのが半分、木自身がそんな状態で生きていくのが嫌になって自殺して死ぬのが半分だというのです。
 嫌なところへ連れて行かれて、愛情もなく放っておかれたら木は自殺するというのです。庭や公園、街路樹などは自然そのままではありません。人間がつくりだした新しい環境です。そうした環境に連れてきておいて、ちょこっと手をかけて、後は自然のままにしたほうがいいんだろうと放りっぱなしにされてしまったのでは人間世界に持ちこまれた木は生きていけません。
 種子のなかには、芽吹くための養分と育つための設計図が組み込まれているのですが、自ら環境を選べない木は厳しい競争をして、まわりの木より早く光を受けられる体勢を取らないと、仲間に負けて死んでしまうのです。大きな一本の木になれるのは芽を出した百本のうちの一本か、千本に一本です。わずかの差で木は生き残ったり、死んでしまったりするのです。それだけ強いというのではなく、それだけ環境に対して弱いと考えるべきでしょう。
 自分から動くことができない木はあたえられた環境のなかで生きぬくために精一杯の努力と工夫をしています。環境が変わるのは生き死にの問題です。その環境を変えて植物を移植するからには、移植した人間はそれだけの世話を、時間をかけてする必要があるのです。そうでなければ、木は自ら死んでしまうことがあるという話しを聞いて、胸を突かれる思いがしました。私自身もたくさんの植物や木を枯らしてきました。自分が気に入って庭に植えたり、移したりしたのですが、うまくつかずに死んでしまいました。あの半分くらいは、もしかしたら私の仕打ちにあきれて自殺したのかもしれないと思ったのです。

 公園や街路樹や幹線道路の中央分離帯などの木にもずいぶん枯れたものがあります。あのなかには殺された木、自殺した木がきっとあるのでしょう。この話を聞いて以来、植物を育てるからには十分な配慮がいるのだと自分を戒めています。自然に任せるというのと放りっぱなしはまったく違うことなのです。
 長い時間をかけて手入れをして木を育て上げる育林家の方は言いました。

「雪が降って植えた檜(ひのき)が曲がってしまう。春に行って、それを立て直してやろうと思うのだが、そのときに支えをつけてやったのでは、木はやってもらった支えをあてにしてしまう。
 そうではなく、木が一人で生きていけるようにするなら、もし右の枝がひどく下がってしまっているなら、それを落として自分で真っ直ぐに立ち上げられるようにしてやるんです。木は垂れ下がってしまった枝がそのままなら、必死で立ち上がろうとしますが、そのために幹は大きく曲がってしまいます。幹を真っ直ぐに育てようと思うなら、体勢を立て直すようにしてやるんです。後は自分で生きていくものです。その手助けをするのが私たちの役目です。」
「種から育て、3、4年たった苗を山に移植するときは、最初に一回は水をやるが、その後は自分で水を探して吸収させるようにしむけるんです。いつまでも世話はできないし、水をやり続けても根が腐ってしまうんです。生きていけるようにはしても、面倒を見すぎるのはだめなんです。」

 こうした話しを聞いていると、木も人間も同じだと思います。最後に生きていくのは自分です。いつまでも人の世話になっていたのでは独立できません。親は子供を送り出すときは、いい時期を見つけて旅立たせ、後は自らの力で生きぬくようにしてやります。しかし、一人で旅立たせるためにはそれまでに十分育ててやる必要があるのです。

未成年者にも選挙権を  (2004.9.5)

 毎度毎度、低投票率には定評のあるニッポン国である。土・日の朝なんかにやっているニュースワイド番組では、選挙直前になると、放送中に視聴者からの電話アンケートで、投票に行くか行かないか?の統計を取ったりする。
 その結果、「絶対行く」と「行きたい」などの『行く』と答えた人が高率になる。で、キャスターは「今回は行くと答えた方が70数%となっておりまして、投票率のアップが期待されますね。」なんてことを言ったりする。だいたい毎回の選挙で似たような感じである。アホか?と思う。
 そもそも、そういう番組を見ているのは、元々社会の動きに関心のある人が多く、その中でも積極的にアンケートに答えようなんて人は限られている。社会意識の高い人がアンケートに答えてるのであって、そんなものは高率になるのは当たり前だろう。実際の投票率は、そんなことには関心のない、いつも投票なんてしない人も多く含んでいるのだ。だから、番組では高い予想投票率だったのに、ふたを開けてみたらいつもの様に低投票率だったというのが毎度のことである。なんでそんな単純なからくりに番組制作者側は気づかないのか、いつもいつもとても不思議なのだった。

 さて、前にも書いたけど、選挙権というのは権利ではなくて国民の義務だと思っている。その義務を正当な理由無く果たさなかったのなら、政治に関して一切文句を言う資格はない。税金が高いとか、公共の事柄に文句を言う資格はない。(過疎地などで、投票所が異常に遠く交通手段もなく、行こうとしたら身体に無理を言わせてタクシーで高額な支出をしなければならない場合もあるという。それは行政の責任だ)
誰に入れて良いかわからないから、むちゃくちゃを書くよりは棄権した方が良い、と言う人もいるだろうけど、最初は的を得てなくても良いと思う。とにかく投票に参加することに意義がある。最初のうちは、なんだかわからなくていい加減な投票をしていても、いつまでもいい加減なままでいることはないだろうし。投票率を上げるために、投票へ行くようにあれこれうったえてこびを売っているのも、なんだか馬鹿げてみえる。
 考えるに、教育が悪かったというのは大いに関係があると思う。もちろん、親が選挙に行くことの大切さを身を以て教えることも大事だけど、学校でもその辺はタダの社会科の授業のひとつとして、形式的に流しているだけだろうし。

 ひとつ思いついた提案だけど、選挙権のない未成年者にも、投票の機会を与えるべきだと思うのだ。毎回の選挙のときに、大人はもちろん投票はできるが、たいていの場合は小中学校が投票所になっているでしょう。同じ構内で、未成年者用の投票所を設ける。小学校高学年~20歳未満を対象にする。投票のルールは同じにする。ただし、もちろん選挙権は無いのだから、投票結果が反映されることはない。そして、同じ方式を用いたのでは莫大な費用の負担になるので、厳格な投票用紙や投票箱でなくてもかまわない。
 また開票も、即日開票なんててやってたら同じくたいへんなので、のんびりやる。主催は地域の教育委員会で、小中学校(つまり義務教育)のカリキュラムのひとつとする。従って開票作業は、投票が行われた学校の生徒が行う。もちろん、投票関係全般の運営はすべて生徒を中心とした未成年者である。投票に際して、選挙の仕組みや政治に関して、実際のものを対象にできるので、これほど役に立つ社会科も珍しいと思う。
 運営や開票作業なども自分たちでやり、そういう裏方のたいへんさも学べる。投票結果は地区の教育委員会が集計して、全国の集計を出す。投票結果は反映はされないものの、世論としてのインパクトは絶大なものがあると思う。その辺の馬鹿な大人よりは、よっぽど社会のことをちゃんと見ている子供が多いので、面白いことになるんではないだろうか?

 全国規模でやるにしても、各地域で分散してやれるので、実現には難しくないし、社会を築いていく意識を育てるのにはうってつけだろう。そうなれば、低投票率に悩むなんて馬鹿なことは将来は無くなるだろうし、頼もしい政治家もどんどん出てくるものと思う。それとも、こんなことは既に言われていて、それが実現できないだけなのかな?

お痒いところは?  (2004.9.7)

 理美容院でシャンプーをすると、必ず「お湯加減はよろしいですか?」と聞かれますね。「洗い足りないところはございますか?」も聞かれる。でも、そんなこと聞かれても見えないので良くはわからないし、あってもどう言ったら良いんだ?
 極めつけは
「おかゆいところはございますか?」
あっても言うか?よっぽど我慢できないかゆみがあったら、中断してもらって、自分でかくだろうし、そもそもどこがかゆいなんて恥ずかしくて言えないだろうに。言ったことがある人っているのだろうか?「いや、もちょっと左側、ん~、もちょっと下」とか?怖いモノ知らずのおばさんとかおじさんなら言いそうだけど^^;。

 以前どっかのカットハウスで、シャンプーの時、仰向けが良いか前屈みが良いか?と聞かれたこともある。普通、理容院だと前屈みで、美容院だと仰向けでは?んで、「こないだまで前屈みだったけど」って言ったら、「それでは仰向けをやってみますか?」とおっしゃいました^^;。

 そういや、仰向けで洗ってもらっている時、後頭部を洗う時には頭を持ち上げてくれるが、その時にやっぱり自分でも首の力で持ち上げようとする。で、店員さんは「力抜いて結構ですよ」と言うけど、あれは結構難しい。どうしても首に力が入ってしまうし、力を抜いて店員さんの手に頭を預けようとすると、なんだか余計に重さをかけてるような気もしたり^^;。

尊敬されたい?   (2004.9.9)

 先日、オクラを斜め半分に切っていて、ふっと思い浮かんだことがある。いや、オクラに意味はなく、単にオクラを切っている時に頭をよぎっただけである^^;。

 最近はそんなことは言わないかも知れないけど、「尊敬される人になりたい」「尊敬される人になりなさい」なんて言葉を良く聞いたような気がする。
 今までは特にそれほど深くは考えず、ふ~~ん、と言う感じで聞いていたものだが、オクラを切っていて何気に「あれ?」と思った。

 尊敬される人物というのは、なろうと思ってなるものではなく、生きてきた姿そのものに対して、結果として周りが尊敬の念を抱くものだろうが、と。それを目指して生きるというのは、よく考えると卑しい動機と言えるのではないか?親になった人も、子供から尊敬されるようになりたい、と思う人は多いでしょう。気持ちはわからないでもないけど、出発点はカン違ってるようにも思う。

 有名になりたい!という、自覚のある名誉欲ならばまだ良いのだけど、「尊敬されたい」というのは大いなるかんちがいのように思うのだけど・・・。

雑記帳35< エッセイメニュー >雑記帳37