カラオケ  (2004.2.21)

 カラオケは、正直苦手です。かと言って嫌いというのでもない。んじゃ、なんやねん?と言うと、歌うこと自体は好きだけど、なんかあの雪崩式で延々とやるのが苦手なのだ。
 ここんところ、とんとカラオケには行っていないけど、たいていは飲み会の二次会三次会だったりする。それでいつ果てるとも知れぬ時間が過ぎていく。どうも、そう言うのが苦手なのだ。適当なところで切り上げて、メリハリをつけるというのが個人的にはいい。そういえばカラオケは今や国際語だけど、日本人自身もみんな、なんの略なのかわかっているのだろうか?

 学生時代は、まだカラオケボックスなどというモノはなかった。サラリーマン時代もそう言うモノはなく、スナックで歌うのが主流。和モノだと、松山千春や相変わらずのサザンあたりがメジャーなところでしたかねえ。中年層だとトップギャランの「青春時代」や谷村新司の「昴」と言ったところか。

 自分はなぜか歌のトーンが高く、中森明菜なんかも平気で歌っておりました。一番よく歌っていたのは、おそらく松山千春の「長い夜」。ってゆうか、あの頃だとかなり歌われていたでしょうけど。最近は、テンポを変えずに音程を上げ下げできるけど、以前は速度で変えていた。トーンをあげたいと思ったら、やや早回しになる。それで自分はトーンをあげたいことが多いから、いつもちょい早いテンポになってしまう。
 一番ウケが良かったのが何だったのかは覚えていないですねえ。けど、悪かったのは良く覚えている。
 現在は絵の教室はうちに来てもらっているが、以前はすべて希望者グループ宅への出張でした。で、ある横浜方面グループでは、12月は忘年会だった。もちろん時間は日中。それでみんなでカラオケボックスに行くこともあった。40代を中心とした主婦軍団の10人弱の中で男はひとりで行くのだ。(当時自分は30代)「先生、混じっても違和感ないねえ。」などと、お褒めの言葉をいただいておりました。

 ある時のカラオケボックス。初っぱなか2曲目に歌った。歌は「ルパン三世」のラストテーマ。「ルパン三世」最初のシリーズの、あの名曲である。

 「♪足~もとに~~ からみ~~つく~~~ 赤い~波を~~けぇ~~って~~」

のあれである。この歌、実は3番まである。で、ご存じのように淡々と歌は続いていく。
 2番が終わったところで「もうやめようよ」とストップがかかった。「なんか暗いし、お経聞いているみたいだよ」と。そういえば^^;;。


「嫌いじゃない」  (2004.2.23)

 自分もよく言ってしまう言い方だけど、「嫌いじゃない」「好きじゃない」という曖昧なフレーズ。多いのは「好きじゃない」という言い方。これは、本心は「嫌い」と言いたくても、真綿でくるんで「好きではない」という遠回しな表現。
 できれば、事なかれでやり過ごしたいのが正直なところだから、そういう言い方は多くなる。もちろん、嫌いと言うほどではないけど、好きとは言えない、という場合の時も多い。
 先日書いた「紅茶」の件はこれに当たる。紅茶などのフレーバー系は、嫌いと言うほどではないけど、好きではない。やや苦手に入る

 「嫌いじゃない」「イヤじゃない」という表現だと、前述の正反対か?というと、そうでもないですねえ。「好きじゃない」というのは、どちらかというと否定的な表現であるから、「嫌いじゃない」は反対に肯定的な雰囲気か?というと、そうは感じない。
 これも、嫌いというわけではないのだけど、好きと言うほどでもない、という遠回しな否定的雰囲気を感じる。おそらく自分で表現するときも、その意味合いで使っている。相手から同じような表現をされた場合は、だいたい自分の語感を基準にするのではないかと思う。
 言葉というのは、おおよその共通した定義を持っているという認識で使っているでしょう。かと言って、みんながみんな、同じ意味合いを含んで、言葉を発しているわけではない。「嫌いじゃない」「イヤじゃない」というフレーズを、あからさまに肯定的になりすぎないように、真綿にくるんで表現する人も多いのだけど、自分はやっぱりトーンダウンした意味合いに感じてしまう。でも、やはり「~~じゃない」という表現は、積極的ではない、という事には違いないと思う。

 そう言いながら自分でも、特に深い意味もなく、消極的でもないのに、話の流れでの言いやすさや、ある種の会話の癖で「イヤじゃないよ」「悪くないよ」と言っているのだろうなぁ。^^;;


「博士号」  (2004.2.25)

 小学校の時の授業で、「博士号」という話が出た。担任がしてくれた、ある少年のお話の中でのこと。
 その少年は、子どもの頃から鳩が大好きだった。それで、自分でも鳩を飼い、鳩について自分なりに研究し、その後大学に行かずに鳩で「博士号」を取得したという。
 その話を聞いて、よくわからんけど、すごいことなんだな、と思った。周りの友人は、その話をすべて把握していたのかどうかは、今となってはわからない。

 さて、何がわからなかったかというと、「博士号」である。当時、小学校4年か5年だったと思う。その我々に、担任は「博士号」という単語を話の中に使っていた。
 もちろん今は何のことかわかっているけど、当時は「博士号」が何なのかわからなかった。「博士」はわかる。「号」という単語も知っている。でも「号」は、雑誌なんかの巻数や、タイトルを表す単位として認識していただけだった。
 だから「博士号」と聞いて、雑誌のことなのか?と思ったのだ。鳩についてすごい研究をして、博士になった人しか配達してもらえない「博士号」という機関誌みたいなものを、購読できることになったのか?と思っていた。「週刊少年博士号」というのを想像したぞ^^;。


定着する誤用  (2004.2.29)

 良く誤用されている単語に「確信犯」というのがある。これは「思想犯」の事で、
「道徳的・宗教的もしくは政治的義務の確信を決定的な動機としてなされた犯罪」
と、広辞苑に書かれている。政治犯・国事犯も含むらしい。
 自分もずっと勘違いしていたのだが、おおかたの人も「犯人だとバレるのが分かっているのにやる」とか「犯罪になると分かっているのに行う」という意味で使いますよね。(そうでもないか?^^;)テレビなんかでも、コメンテーターがそういう使い方をする。

 たとえば、会話の中でそういう誤用がなされた場合、それに気づいたら、指摘をするかどうか?気心知れた友人と二人で話しているのだったら、ちょっと指摘してもいいでしょう。でも、その単語の意味を正すのが本筋ではない場面で、口を挟んで誤用を指摘するのは控えるべきでしょう。そんな場面で指摘しても、話の腰を折って、自分の知識をひけらかすだけになりかねないし。

 こないだ、ふっと頭をよぎったのだが、そんな風にして、本来とは間違った意味の単語に変化していくものが多いのではないかと。
 たとえば「独壇場(どくだんじょう)」。あれ、本来は「独擅場」と書いて「どくせんじょう」と読みます。「壇」と「擅」の文字が似ているので、間違って書かれ、そのうちに読み方まで変わってしまったものです。
 辞書を見れば、今でも「独擅場(どくせんじょう)」の方が「一人舞台」の意味で書かれていて、「独壇場は独擅場の誤用」である、と書かれています。
 もしや「確信犯」も、それが誤った使い方をされ、その誤用の方が定着する過渡期なのではないか?と
 近い将来には辞書に「独擅場」と同じように、本来の意味とは違う使われ方をしている単語、のように書かれているかも。そして、そのことを「いちびりTOWN」が予言していた、とも書かれるかも知れない。うははは。(^◇^)


あの日のラジカセ  (2004.3.2)

 我が家に初めてのカセットテープレコーダーが登場したのは、小学校5~6年の頃でした。もちろん「ラジカセ」です。今でこそ身の回りにあふれ、小型化&安値化したものの、当時はラジカセが一般に普及し始めた頃。

 父親が買ってきたのはソニーのラジカセで、当然ステレオではなくモノラル。ボディの前面端にマイクがついている。これで録音しまくったのはテレビのアニメソング。アニメソングオタクだったので、片っ端から録っていた。テレビのスピーカーにマイクを、つまりボディを密着させて録音するということをやっていたのだけど、これが結構ちゃんと録れていた。そのテープはまだほとんど残ってますね。^^

 それ以外でよく録ったのは、旅行ヘ行ったときの音とか、日常の音。特に印象的だったというか、ある意味衝撃的だったのは、はじめて客観的に聞いた自分の声。これはおそらくだれでも経験があるでしょう。録音された自分の声を聞いたときの、ショックというか嫌悪感というか。自分の声って、こんな変な声なのか!!??;;;;
 今でこそ、少しは冷静にそういう自分の、客観的な声を聴くことができるものの、でもやっぱり納得がいかない、というものはある。明らかに自分の声だとは分かるけど、でも全く現実感がない。もちろんこれは、普段は自分の頭蓋骨や肉体に響く声との、合成された声を自分で聴いているからであるが、何とも軽い声に聞こえる。

 自分はけっこう声帯模写が得意というか好きなのだが、やりながらいつも不思議に思うことがある。聴いていて「似てる」と言ってくれる時は、自分でもうまくできているとは思う。でも、相手に聞こえている声と、自分で聴いている声は違うはずで、その辺はどうなんだ?と。プロの声帯模写はその辺を考慮して、ヘッドホンなどを使い、外部の自分の声を聴いて練習しているのではないかと思うが。

 話は戻ってラジカセですが、とにかく、音声を録音して何度でも再生ができる、ということに対する感動とあこがれがあったと思う。音質などは関係ない、というか、小学生の身でそこまで分かるはずもない。ただひたすら、今まではその瞬間だけしか聴くことのできなかったものを、自分の持ち物として保存し、好きなときに聴くことができる、というワクワク感があった。今、そういう機械を買うときは、単に機能や音質、値段、デザインなどの問題だったりする。決して、瞬間で過ぎ去ってしまう音を捕まえるという、あの日のワクワク感で買う、などということはない。


好きなことやりたいこと 1/3  (2004.3.4)

 プロフィールにも書いてありますが、自分は大学の建築学科を出た後、コンピューターソフトウエア開発の会社に就職しました。配属されたのは関西支店で、主に業務関係のオンラインシステムを開発する部門でした。
 何故に建築学科からコンピューターに進んだかというと、何にも考えてなかったからなのです^^;。コンピューターのコの字も知りませんでしたし。かといって建築方面に進む気もなかった。
 建築学科に進んだのは、高校が付属校で大学の学科の中では、進んでみたいところは建築しかなかったから。将来自分の家は自分で設計してみたい、とは思っていましたが。で、17年ほど前に建て直した今の家、と言っても施工主はもちろん父親でしたが、家の基本設計のようなものはやりました。平たく言えば間取りを決めたのですが、自分の部屋だけは1mm単位で設計したのだった^^。

 今、このような事をやっているので、美大を出たんだろうと思われていることが多い。中学の時の美術の先生は、絵も良いけど彫刻が秀でているから、美術関係の学校へ行ったら?と言っていた。その時も全くその気はなく、自分にとってはそういうのは単なる趣味である、と思っていましたね。
 大学卒業を控えて、その後の進路を考えるときも、アート方面(こういう表現は好きじゃないけど)は全く考えにはなかった。そんな下地も何もないし、やはりそういうものは趣味にとどめておくものだと思っていたのです。

 さて、実際に就職して、コンピューターの仕事は肌に合わなかったけど、人間関係はとてもよかったし、初めての大阪は自分にとってはとても生きやすい地で、そういう意味では社会に出て楽しくやっていたのでした。
 でも、強く実感したのは、やっぱり好きなことをやる方が良い。ということ。趣味と仕事は違うと思っていたけど、実際に働きだしてみたら、好きなことをやる方が良い、と思うようになったのです。
 もちろん、そういう風に思えるのは余裕があるからです。食うや食わずで探しても仕事がない、という世の中や境遇だったら、そんな余裕などはない。それに扶養家族も抱えていたら、自分だけのわがままでは考えられないでしょうし。
 でも、ありがたいことに選択できる余裕があるのだったら、やっぱり本当に自分らしく好きなことができる仕事の方が良い。それでも、いきなり絵の方面の仕事をやるのは、絶対に無理だというのは明白だったので、少しでも近づく事を探していった。

 繰り返しますが、会社などでの人間関係には全く不満もなく、ただ仕事が肌には合わなかった。楽しそうにやっているので、社内の人間は、そういう風(仕事があわない)には見ていなかったようですが。

 会社は辞めても、東京には帰らなかった。まだまだ大阪に住んでいたかったからです。で、仕事を探して、レタリング事務所のバイトをすることになった。要するに看板屋です。
 高校三年の時に暇つぶしに通信教育のレタリング講座を修了していたので、レタリングは一通りできたのも幸い。もちろん実践のレタリングで使えるほどではないけど、イラストを扱える社員がいなかったので、かなり重宝はされました。勤労期間わずか10ヶ月で、しかもバイトなのに、社長は5万円の退職金までくれたし。^^(退職金とは言わないな^^;)

 その時の体験も大変貴重で、今でも大いに役立っている。大きなものを描くのでも、それほど怖いとは思わないのは、その時の慣れが役立っているし、畳ほどの大きさの表具も得意。(表具とは、紙を貼ったりすること。ふすまとか看板の表面とか)
 でも何より、そのような表現手法の職人仕事を毎日見ることができ、数知れない知恵を目や実地で学ぶことができた。その後に就いた印刷関係の仕事でもそうでしたが、プロの最大の技術は失敗のフォローの仕方にある、ということを身をもって学びましたねえ。あ、コンピューターの仕事でもそうだったし、あらゆる仕事はそうでしょう。プログラムは人間が組むので、ミスがあるのは当たり前。また、どこでどんなトラブルになるかも分からない。
 プロとアマチュアのプログラムの最大の違いは、コンピューター本体やソフトが「こけた」時のフォローが、どのように組み込まれているか?だと思います。単に「動く」というだけだったら、趣味でバンバン作れるでしょう。自分がウインドウズをよく思わないのは、そのあたりですね。

 で、看板屋をやめたのは東京へ戻るためでしたが、貯金が底をつき始めたのと、そのままそこでバイトをしているよりは、戻って次へ進もうと思ったからでした。(だったと思う^^;)

つづく・・


好きなことやりたいこと 2/3  (2004.3.6)

 さて、東京に帰ってきて、本格的に自分なりのイラストを描いてみつつ、仕事を探した。あれこれ探して当たってみて、玉砕を繰り返し、とりあえず印刷媒体のイラストに興味があったので、印刷方面を考えることにした。それで、印刷製版(レタッチとも言う)の会社に入社。もちろん、製版がどう言うものかは全く知らない。入社初日、いったい何の仕事なんだ?という感じで始まった。
 その仕事がおもしろかったのだ!製版というのは、デザイナーが指定した通りのものが印刷できるように、印刷用フィルムを作る作業なのだが、まるでパズルを解いて頭の体操をしながらやっているようだった。毎日、次の日に仕事に行くのが楽しみで、これでお金もらっているのも悪いなぁ、と言うくらいにおもしろかった。並の仕事では退屈なので、なるべく難しい仕事を好んでもいた。この仕事は、途中で独立して、フリーでやった期間を含めて5年ほどやったのだが、全く飽きるということはなかった。

 あまりに自分に向いているので、入社半年で社内売り上げNo.1になってしまったほどだった。しかしその時はあまり気にとめていなかったのだけど、入社前の面接の時、面接官は専務だったのだが、「イラスト方面をやりたいのだけど、そのために印刷も勉強しておきたいと思って、、」と言っていたのだ。とりあえずここで印刷の仕事を覚えて、いずれはやめる、と言ってるようなもんぢゃん^^;。

 その会社自体も小さいのだけど、さらに小さいデザイン事務所を子会社に持っていた。僕が、イラスト・デザイン志望なのを知っていたそこのデザイナーが、社内旅行の電車の中で詰め寄った。
 「今からイラスト方面に進もうなんて遅いんだよ!いくつだと思ってるんだ!?」その時は27くらいだった。
 「そういうのを志望しているやつらは、10代の時から勉強して競い合って勝ち残っていくのに、27なんかじゃ遅いんだよ!」と、しきりに年齢での障害を強調していた。なんでだ?そんなに単純な問題ではないだろ?と思いながら聞いていた。確かに早くから進路を決め、デザインの勉強をしていって成功した人は多いだろう。でも、かなり単純すぎる論理ではないか?と。さらに、デザインではなくイラストをやりたいのだ、と言うと
 「二度と言わないでくれる?!!!」と憤慨した。後で知ったのだが、どうも彼はイラストレーターを目指したものの、イラストはイマイチだったようなのだ。
 一連の話を聞いていると、デザインやイラスト関係は、才能のあるものが早くから専門学校などで訓練をして、競争して勝ち残っていくものなのだ、と強く思っているようだった。それが業界的に正しいのかどうかは知らない。

 その会社では毎年文化祭と称して、あるテーマの元にデザイン大賞を選考していた。次の年の、会社の封筒デザインでは、銀賞をもらった。もちろん審査員にはそのデザイナーがいる。その後も、会社のイベントの時には、社長や社員の似顔絵などのポスターを描いたりもした。その辺で見直したのか?それとも単に同じ会社の人間として心配したのか、会社を辞めるときに、そのデザイナーはとても心配していた。やめてどうするのか?と。ありがたいことに専務や部長も、将来の幹部候補に考えていてくれたようなのだが、最初の頃から「現場が好きなので、出世したらやめますよぉ」とは言っていたのだった。^^。って要するに、責任のある立場はめんどくさいし、現場の仕事の方が面白いと言うことですね。^^;;

もう1回つづく・・


好きなことやりたいこと 3/3  (2004.3.8)

 印刷製版会社の社員をやめるときに、選択肢は二つあった。ひとつは、同時期に辞める同僚が、製版の仕事でフリーになりたいので、一緒にやらないか?というもの。もう一つは、アニメの背景画を描く仕事。もちろん全く経験はないのだが、描き方のテクニックがある。元その方面の友人に誘われていたので、少し教えてもらって、いくらかは描けるようになった。後は実地で経験を積むのだが、紹介された背景画の会社に話を聞きに行って、あまりに条件が厳しすぎるので、これはできないと思ったのだ。その条件で生活は成り立たないだろうと言うほどに。。。同じ時間をコンビニでバイトしたら、倍以上の収入は得られるだろうと言うほどに。
 はっきり言って、日本のアニメ業界の待遇は恐ろしく低いのだ。日本のアニメが世界的になって、現在はどのようになっているのかは気になるところ。

 で、結局製版でフリーになることにした。製版でのフリーというのは、だいたいある会社の専属になることが多い。「請け取り(うけとり)」と呼ぶのが一般的だ。専属になる会社へ通勤して仕事をする。
 今時は、ほとんどパソコンでデザイナーがやってしまうだろうけど、その頃は完全に職人仕事である。会社によりまちまちだけど、このときの会社では請け取り専用の部屋があり、納期に間に合わせれば、24時間いつ来て仕事をしようが自由。昼は競馬をして、午後遅く来て朝帰る人もいた。自分は、社員並みに9時~5時を基本にした。

 社員として、最初の製版の会社にいたのはわずか2年半だったけど、あまりに自分に向いていたのか、完全に技術は習得し、2年目には新人数名を教えながらやっていた。退社して、請け取りであるチラシ専門の印刷会社の専属になり、タダでさえ製版の請け取りの単価は高いのに、当時はバブルの真っ最中。同じ年代だったら、高級車を乗り回しているだろう、と言うくらいの収入はあった。でも、薄給のサラリーマン時代と、ほとんど変わらないライフスタイルだったので、貯金はあっという間にたまっていく。おまけに経費はほとんどかからない。
 自分は真っ正直に、、というか普通に納税していたのだが、青色申告をしに行って、これでは税金の払いすぎで気の毒だから、もっと(経費で)落とすものはないの?とさえ言われましたねえ^^;。
 まわりの請け取りは、ほぼ全員多額の脱税をしているのに、自分がまともに納税していたのは正義感とかではなく、法を犯してビクビクしたり、ごまかすのに多大なエネルギーを浪費するくらいなら、まともにやっている方が楽だからなのです。それにおもしろいことに、多額をごまかしている人間の方が、いくらお金があっても足りないものなのですねえ。
 ただ収入が良かった分、楽な仕事ではなく、1日10時間以上、ライトテーブルという大きなトレース台(机の中に灯りが入っていて、机においたものが透けるのでトレースできる)をかがみ込むように見ている仕事で、0.1mmも狂ったらかなりズレ過ぎ、という細かい作業なので、乱視がひどくなり、偏頭痛もひどくなってきた。
 そして、やはり絵の方面を本格的にやってみたい、という想いが強く、貯金もあって余裕のある時なので、一切をやめて絵の方面に飛び込んだのだった。バブルははじけ、絵は全く売れない時期になっていた。

 でも、その数年後に初の展示会を開催したのだけど、自分が本当にやりたいと思ってやり出したことを、支持して支えてくれる人が、こんなに大勢いたのか、と改めて思い知ることになった。それは、毎年年を追うごとに実感することだし、一昨年にようやくHPを始めてからも強く感じることである。

 自分が本当にやりたいと思うことを見つけるのは簡単ではないと思う。思ってもいなかった仕事を続けていて、その仕事を心から好きになる人だって多いでしょう。幸い、自分の場合は最初からハッキリと分かっていたので、その点は恵まれていた。幼少から絵や作り物が好きで、小学校の頃は漫画家志望。同級生や先生など、多くの人が、僕は漫画家になるであろうと思っていたと思う。もちろん自分自身でも。また、自分は絵の方面でなくてもおそらくよかったのだと思っている。全く違うものでも、何かしら自分らしくやっていただろうと。だれにでも言えることだけど、仕事の形態そのものが問題なのではないと思うのだ。

ちなみに、ものすごく漫画が上手かったわけではない。当時のモノを見返してみると、もっと上手い同級生はゴロゴロいたはず。控えめに言うのでもなく、お世辞にも上手い部類ではないだろう。自分は、人気のギャグマンガの模写が得意で、臆せずに人前で描いていただけなのだと思う。で、自分の特徴なのだけど、それで調子に乗っただけなのかと^^;;

 芸術家なので人付き合いが悪い、とか、絵描きなので愛想がない、と自分で吹聴している人は多い。そういう人が、そういう方面に進む傾向があるのかもしれないが、ハッキリ言ってそれは本人のキャラの問題だ。一応同じ分野に身を置く人間として、そのような囲い方は迷惑千万。自分の性格の問題を、仕事のせいにしないで欲しい。ましてやそんなことは威張れることではない。

 自分の経験で強く感じることだけど、好きなことを続けるのは、もちろん本人の意志の問題もあるけど、それを理解して支持して支えてくれる、という周囲の状況がなければできない。逆に言うと、ほんの少数でも、支えてやらせてくれる状況があれば、続けることができるのだと思う。また、支持してくれる人が1人もいないように見えても、どこかにはいるものなのだ。それに、最後の最後に残る最大の味方は自分自身である。自分自身は最大の理解者でもある。

 自分で一番好きな絵というのは、自分の絵である。ほかに比類するものがないほどに上手いとかそういうことではなく、自分が表現したいと思うものを描いているからであろう。日比野克彦氏は、「自分の絵に惚れたらおしまいだ」と言っていた。これは、満足してしまったらおしまいだ、と言うことだと思っている。そういう意味であれば、自分は満足はしているわけではないけど、自分の作品が好きなのだ。もちろん思い入れという部分も大きいし。漫画家の赤塚不二夫氏は「自分が笑えない漫画で、人を笑わせられるか!」と書いていた。自分が何とか細々と続けていられるのも、周囲の理解や支持があると同時に、それと同じくらい、あるいはそれ以上の重要な要素として、自分自身が味方でいられるというところなのかも知れない。

 もちろん、以上に書いてみたことは、多分に理想論も含んでのことだけど。^^

(ようやく終わり^^;)


ちり紙交換と卵屋  (2004.3.12)

 最近日曜になると、時々ちり紙交換の声を聴く。絶えて久しいなぁ、と懐かしい想いなのだった。そもそも、今時「ちり紙」という言葉は使わないと思うが・・・。
 物干し竿の流し売りの車もやってくる。こちらはいかにも昔ながらの純真な女の子です、という感じの声の録音。1本(2本だったかな?)2千円で、20年前と同じ値段というのを強調しているが、20年前でその値段が高かったんじゃないのか?という気がしないでもない。
 しかしこれらの声、よく考えるとかなりの音量なのだ。他の今時のアナウンスだったら、おそらくただうるさいだけだろう。「毎度おなじみの・・・」という、あの懐かしいフレーズで、ぼんやりした休日にやってくるから、ほのぼのと感じるのであって。だいたい今時は、全然毎度おなじみでもないぢゃん。

 自分の子どもの頃は、ああいうのが毎度おなじみでやってきたので、最近やってくると、全然うるさいとは思わずに「おお、なつかしいなぁ」と感じて、毎度おなじみでやって来ていた頃の雰囲気がよみがえってきたりする。では、あれを全く知らない世代は、今聴いてもうるさいだけなのだろうか?と疑問にも思う。

 ちり紙交換は、一時期サラリーマンの休日の副業として、細々とフッカツしていたというのも聞いた。それもいつの間にか風化して、最近また見るようになった。今時でも、交換したトイレットペーパーを玄関前にそのまま置いていって、誰かが持って行ってしまう、という危惧も感じられない。そういうのもなかなか良い光景だなぁ、と思うのだった。子どもの頃は、トイレットペーパーになる前は、長方形の「ちり紙」を束ねたものと交換していた。

 豆腐屋はたま~~~~に、どっかの街角で、あの豆腐屋ラッパの音を聞くことはある。子どもの頃にはもちろんあったのだが、それほど多くは見なかったように思う。
 卵屋というのは、いつもうちに来ていた。今考えると、その頃でもこの辺は完全に住宅地と商店街だったのに、いったいどこで鶏を飼っていたんだ?という感じだけど、行李をしょったおじいさんが、毎度卵を売りに来ていた。
 こちらから籠をを出して、10コほどを入れてもらう。おじいさんは、籾殻(もみがら)を詰めてしょってきた行李の中から、卵をひとつずつ取りだしていた。
 夏になると、冷たい麦茶を出してあげるのがいつものパターンで、おじいさんはそのまま玄関に腰掛けて、1人で麦茶を飲みながらしばらく休んでいた。一息つくと、黙って静かに玄関を出て行った。
 いつから来なくなったのかは定かではないけど、おそらく自分が中学へあがる頃には、もう来なくなっていて、卵はスーパーで買うのが普通になっていたように思う。おじいさんが籾殻の中から、茶色がかった卵を、ひとつずつ大切にいたわるように取りだしていた仕草と、その時の籾殻のすれる音や空気を、やけにハッキリと覚えている。


風が見えるとき   (2004.3.16)

 普段はあまり気づかないけど、旅に出ると「風」が見えることがある。なにもキザな言い回しをしているわけではなく、視覚的に見えるのだ。
 広い畑や田んぼ、それに草の生い茂る草原などを風が走っていくときである。まるで布が風になびいているように、風が走っていく。それを目にするとき、風が目に見えることに感動する。

 もちろん、普段でも草や木、葉っぱ、旗の類が風になびくのを目にするのは、珍しいことではない。でも、それは風になびいているのであって、風が意志を持って走っているのが見える、という感覚とは何か違うような気がする。
 銀の絨毯となった田んぼを走る風は、一枚の大きな布がなびいているように、連続性を見て取れるというのも大きな違いだけど、そういうところで見える風は、何かそれ自体が、命をもって走っているように感じたりするのだ。

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