宮中晩餐会  (2003.6.7)

 今回、新しい韓国大統領が来日して、当然、天皇を中心に歓迎レセプションがあり、宮中晩餐会も催されていました。今回はどんな料理を出したのかは知らないのですが、いつもいつも「???」と思ってしまう。いつだったか、フランスの大統領かそれに準ずる偉い人を迎えたとき、本格的なフランス料理を振る舞っていた。
 おいおい、、なんでだよ????と大いに首をひねってしまった。なんでヨーロッパ趣味の正装で迎えて、その国の料理でおもてなしするのか、本当に理解に苦しむのだ。せっかく日本に来てもらっているのだから、着物で迎えて、日本料理でおもてなしをするのが本当なんじゃないの?と思うのだけど。卑屈になっているようにしか見えないんだよねえ。


身勝手な若者?  (2003.6.9)

 最近は高校生でも堂々と表でたばこを吸ってます。本人達は、別に悪いことをしているとは思ってないようです。まぁ、「悪いこと」というのもちょっと違うかな?と言う気はするけど。よく問題になる、深夜暴走。特に暴走族というわけでもない連中がやっている。あれも、喫煙の高校生と同じで、「べつにいいじゃん」という連中です。彼らの場合は、人が迷惑しているのはわかっているけど、普段出来ないことだから、こんな時くらい勘弁してよ、と言う理屈です。

 これらに対して、怒りを覚えるのは簡単だけど、結局は社会の仕組みを反映しているだけなんですよねぇ。前にも書いたことだけど(って、どこに書いたのかわからないんですが^^:;)、例えばテレビゲームによるゲーム脳が問題になっていたりする。ゲームばかりやって、本当の友達づきあいを子供達はしなくなったとか、表で遊ばなくなったと大人は嘆いたりする。忘れて欲しくないのは、そうなったのは子供が犠牲者であると言うことだ。売れればいいのだ、ということで子供をターゲットにゲームを作り出しているのは、当の大人側であろうに。
 携帯電話にしても、電磁波問題は以前から言われているし、カメラが付くようになって、様々な悪用がされている。そして、メールが盛んになっているが、メールを打っている最中は、脳の活動が低下していることがわかった。ゲーム脳と同じなのだ。

 で、そういう様々な問題がわかってきたからと言って、じゃぁ、そういうものを作ったり売ったりするのを控えましょう。という話は聞いたことがない。売れれば何やったっていいんだよ!後は知らねえよ!だからでしょう。ゲーム脳やコミュニケーションのあり方を心配する親が、いくら心配して子供に自粛を迫ったところで、合法的に売られてしまっているのでは限界もあるだろう。

 お金を得るために手段を選ばない者が増えるのは、当然のような気がするのだ。たばこにしても、喫煙者にも周りの人間に対しても、害しか及ぼさないのに、作ったり売るのを自粛しないのは、結局お金の問題でしかない。コマーシャルをしないとか、警告文を印刷するのが自粛とは思えない。

 悪いとはわかっている、でも、お金のためだ、しょうがない。というのが合法的な社会なのだから、先の若者達の身勝手な行動を、簡単に批判だけするのもどうかと思う。


一個売りを頼む!  (2003.6.11)

 ファックスの紙が終わりかかっているので、買おうとした。しかし、地元の店では、どこも2本1パック売りしかない。1本売りはないのか?と聞いたが、無いと言う。
 B4サイズのファックス用紙が必要なのだが、元々ファックスはほとんど使ってないし、メールを使うようになってからはますます使わない。でも、たまに送ってくる人がいるから、紙をきらしておくわけにはいかない。だから、2本もあってもしょうがないのだ。1本使い切るのに1年以上はかかる。前回取り替えたのは一昨年だったような気もするし。

 このファックス用紙に限らない。なんだか2つ3つを1パックでしか売っていないモノが多すぎるのではないか?食品関係だと、納豆が好きなのだが、一個売りというのはあまり無い。高い製品は1個でもあるが、普通のモノは2~3個売りがほとんど。そうすると、賞味期限切れになる前にイヤでも食べなければならない。麺類でも1食パックはほとんど無く、2~3食売りがほとんどだ。あれはサービスではなく、一度に売った方が効率が良いからに決まっている。でも、買う側からすると、迷惑千万なケースが多いんじゃないだろうか?客のことを考えるなら、複数パックと同時に一個売りもするべきだ。

 そういえば、ビデオというのをほとんど利用しないが、年に1~2度くらい、録画したいときがある。そう言うとき、生テープが1本だけ欲しくても売っていない。たまに売っていても、複数本パックを買うのとほとんど変わりなかったりする。だから、少々割高でも1本だけ買うか、録画済みのやつを上書きする。先ほどのファックス用紙と言い、このテープなどといい、とっておけばいいじゃないかと言われるかもしれない。でも、置いといて使わなければ品質が劣化するモノだってたくさんある。結局使わずに捨てる羽目になるモノも多いのだ。

 だから、ケチで一個だけを買いたいのではない。本当に必要ないからひとつだけで良いのだけど・・・・、なんとかならないのか?


電車に乗るのは命がけ?  (2003.6.13)

 小さい頃は、今考えると実におもしろいというか、ストレートな発想をしていたようである。

 他の子供もそうであったように、電車の一番前に行って、迫りくる景色を眺めたり、運転手さんの操作を見るのが好きだった。そこでふと疑問に思うことがあった。運転手さんは、運転するときにレバーを押したり引いたりひねったりしていた。最近では前後に倒すだけのレバーが1本だけだったりすることもあるが、以前は通常2本のレバーを操っていた。その1本は当然ハンドルだと思った。
 何を思ったかというと、ハンドルというのは車輪を操作して、曲がったりまっすぐに進ませたりするものだ。だから、そのハンドルで電車を操縦していると思ったのだ。カーブにさしかかると、運転手さんはゆっくりとレバーを動かす。その操作は、レールにあわせてハンドルを切っているのだと思った。だから、時々脱線事故が起きるのは、線路にハンドルを合わせ損なったからだと思ったのだ。もちろんハンドルなんかではないのはご承知の通り。何のための線路やねん?

 また、電車のドアに挟まれるのが危険、と言われたものだが、それは挟まれると指をちょん切られるからだと思っていたことがある。おそらくそのイメージをふくらませたか、それを夢に見たのだと思うが、おばあさんがハンドバックを挟まれてバックをちょん切られたり、誰かが指を挟まれてばっさり落とす映像が頭に残っている。

 ちーさい頃なので、「危険」という言葉から連想するのは、とてつもない見返りを被るものだと思ったのだろうし、指を落とすことが、大惨事に値する事故だとも感じていなかったのだろう。まぁ、切れても生えてくるとは思ってなかったと思うけど。また、規則を守らなかった客は、罰を受けてもしょうがないと納得でもしていたのかもしれない。


補助ブレーキ  (2003.6.15)

 車の免許を持っている方は当然知っていることだが、教習所の教習車には、補助ブレーキというものが付いている。教習中、助手席には教官が座っているが、その教官の足下にもブレーキがあり、教習生がブレーキを踏むべきところで踏まないと、教官がその補助ブレーキをガクン!と踏む。

 高校生の頃、友人のお姉さんが教習所に通い出した。初めて教習車に乗るとき、教官が、ひとつひとつのレバーやペダルのチェックをさせる。一通りのチェックが終わったときに、緊張して舞い上がっている彼女が教官の足下の補助ブレーキを指さしてひとこと。

 「あの、そこに足がとどかないんですけど;;;」


心斎橋乱闘事件  (2003.6.17)

 大阪でコンピューター関係の仕事に就いていた頃。会社は本町にあったので、心斎橋に飲みに行くことも多かった。
 ある夜、すっかり飲んで心斎橋アーケードを皆で歩いていると、仲間の一人が向こうから来た数人のうちの1人と体が触れた。
 次の瞬間、その相手の男が仲間につかみかかってきた。「やめろやめろ」と止めに入ったのだが、またまた次の瞬間に顔面に衝撃が走った。相手の仲間が殴りかかってきていたのだ。「なにを止めとんじゃあ~~!!! な・に・を・止めとんのやあ~~~!!!」と。とっさに殴り返そうとしたら、相手はこちらより人数が多く、なにやらチンピラっぽい。これはマズイ、下手に反撃するとエライことになる!と、抵抗するのをやめた。
 もう後は、殴る蹴るのされ放題。不思議なもので、抵抗せずに殴られるままにすると、痛みをほとんど感じない。体に無駄な力が入らずに、殴られても、その方向に流れるからかもしれない。その間、相手方の仲間の女性が「やめて~~~;;;」と何度も叫んでいた。

 一通りこちらがやられてしまうと、彼らは去っていった。最初にぶつかった仲間は、道脇でもどしている。気づかなかったのだが、口の中と上唇を切っていたらしく、口元からワイシャツに血が流れていた。そして困ったことに、アパートの鍵の入ったポーチを持って行かれている。その夜はどうにもならないので、一緒にいた先輩のアパートに泊めてもらい、翌朝ワイシャツも貸してもらってアパートに戻った。それまで面識はなかったのだが、最上階に管理人の家があり、そこで事情を話して鍵を開けてもらえたのだった。

 次の日、社内で自分の机にいると、営業課長が心配してやってきた。(自分は技術課だったが)
「伊藤、お前事件に巻き込まれたんだって?」
「?」と思っていると、なにやら電話がかかっているらしい。それもそば屋からだ。
 電話の向こうのそば屋の主人が言う
「あんた、なんか事件に巻き込まれてないか?」
「は?・・・・」
 主人はこちらの名前を確かめ、店に来て欲しいという。こちらの落とし物を預かっているというので。

 どうやら、ポーチはあちらの女性が自分らの仲間のものだと思って間違って持って行き、違うと分かって、店に捨てるように置いていったらしい。
 その日、店に取りに行った。
「いや、ゆうべチンピラどもが店で食べてった後にな、小物入れを置いて行きよって、中見たら全然持ち主の違うあんたの身分証とかが入ってたんですよ。そういやあいつらシャツに血ぃついとったし、腕に彫りもん入っとったし。もしかすると、この持ち主がなんかの被害にあったんちゃうかなぁと思って。」
 結局、それでその件は終わり、特に後でどうしたと言うこともなかった。ただ、モモに食らった蹴りがもろに筋に入っていたらしく、しばらくの間鋭い痛みが抜けなかった。

 当時、嘉門達男の「ヤンキーの兄ちゃん」の歌がヒットしていた。飲みの時、心斎橋アーケードを歩きながら

ヤンキーの兄ちゃんはぁ~ つ~ば~をは~く~
ヤンキーの兄ちゃんはぁ~ 眉毛剃る ♪

などと、周りに聞こえるか聞こえないかの声で歌ったりした。もちろん、ヤンキーがウロウロしている。先輩や仲間が半分青くなって「やめやめ・・」と言っていた。(遠い目)
乱闘事件以来、なるべくそういうヒヤヒヤの行為は慎んだ。^^


かゆいのはどこ?  (2003.6.19)

 例えば、ふくらはぎの外側あたりに、ほのかなかゆみを感じたとする。それで、そのあたりを掻いてみるのだが、おかしなことに一向にかゆみの所在に行き当たらない。「その近辺」を掻いてみるのだが、なぜか周辺というか、ぼんやりと周りを掻いているような感じで、かゆみの親分が無い。
 おかしいと思って、体のあちこちを掻いていると、脇腹にそのかゆみの所在があったりする。それで、その脇腹のかゆみの部分を掻くと、かゆみはきれいに治まったりする。

 おかしなことを書いていると、ほとんどの人が思っているでしょう?ずっとそう言う感覚が不思議だった。昨年だったか、ある漫才コンビの片方がトークショーで、同じことを言っていた。「ここがかゆくて掻いても、全然そこじゃなくて、背中を掻いたら治ったりするんですよ!」

 おお!やっぱりそういう人がいるんだ!と思ったが、もちろん、彼はそのときの周りの誰からも冗談としか受け取ってもらえなかった。先日、たまたま読んだ本に、そのことが書いてあった。どの本だか分からなくなってしまったので、詳細は書けないが、要するに脳にある体の地図の問題だったと思う。

 本来かゆいはずの場所と、脳がそこを示す地図の問題。身体の各部分と脳の地図は、すべて1対1で対応しているのではなく、いくつかの身体の場所が脳の地図上では同じ場所で兼ねられているという事だったかと。先の例だと、脳のかゆみを感じる地図が、ふくらはぎのその部分と脇腹で同じ番地になっていて、本当は脇腹がかゆいのに、ふくらはぎに錯覚してしまうと。

 ちょっと話は違うけど、切断して、すでに無くなってしまっているはずの足の先がかゆい、のような自覚症状もよく起こるらしい。切断したものの、脳には無くなった足の「地図」は残っているので、しばらくはそのような錯覚が起こり得るとか。

 自分がやっている絵の教室でも、ものを観察しているのは、すべて脳の都合の良いように見ているのだ、ということにポイントを置いているが、自分の脳に惑わされたりするんだよなぁ。


特別出演?  (2003.6.21)

 あまり数は見ないのですが、映画は好きなんです。テンポがないので見てると疲れるのですが、イタリアやフランスのものも好きだったりする。どんどん簡単に人を殺していくハリウッド映画もいい加減・・・。

 日本映画でしかお目にかかったことがないのですが、「特別出演」「友情出演」という表記。あれ、いったい何なんだろう?といつも思ってました。確か、それぞれにはちゃんとした意味があると聞いたが。

 いずれにしろ、観客に向かってそんな表記が必要なのか?といつも疑問だった。制作側にとっての「特別・友情」なんだろ?という感じで。自分の勝手な勘違いと思いこみなのかもしれないけど、なんだか見に来てもらっている観客に、恩を売るかのような表記に感じてしまって・・・。


「友情出演と特別出演」ドラマ等で見かける、特別出演とは、主にプロデューサーが有名な俳優に「出番は少ないが特別に出演して欲しい」時に用い、ギャラは発生する。友情出演は、主に監督が親しい俳優に「友達感覚」で出演を依頼した時に用いるもので、ギャラはタダ同然だそうです。
(2003.6.22 かこ さん情報)


コーヒー  (2003.6.23)

 だいぶ前に、寝付きの悪さをご紹介いたしました。最近はそう言う不注意はないけど、コーヒーが結構難敵。
 ま、寝る前のコーヒーは良くないとは一般に言われるけど、ことはそう単純じゃない、自分のばやいは。コーヒーはコーヒーでも、缶コーヒーとコーヒー牛乳なのだ。これらを夜飲むと、必ず寝付けなくなる。
 もちろん、こんなことを他人に言っても、「気のせいだ」とか「思いこみのせいだ」と言われる。
 ところが違うのだ;;;。本当に缶コーヒーとコーヒー牛乳はなぜかダメなのだ。ダメというのは嫌いという意味じゃなく、寝付けなくなるのだ。

 やけに寝付けないなぁと、思っていて、夜に缶コーヒーやコーヒー牛乳を飲んだことを思い出すことがあった。単に忘れているだけで、飲んだことは覚えているのだから、やっぱり自己暗示だ!と簡単に片づけて欲しくはない。これだけ確率が高いと言うことは、何かしらの成分か何かの問題があるはずなのだ。問題と言っても、自分にとってそういう作用がある成分と言うことだが。普通にドリップしたコーヒーや、インスタントコーヒーは全く問題がない。

まぁ、寝付けないと言っても、そのまま夜を明かしてしまうと言うほどではないけど。少なくとも数時間は寝付けない。他にも同じような自覚症状の人は多いと思う。おらんか・・・。


地球にやさしい   (2003.6.25)

 「地球にやさしい」という言い回しがされるようになってから、もうかなりの年月が経つと思います。その言葉を使っている方面には申し訳ないですが、いつもなんだかうさんくさいというか、人間のわがままの言葉に感じるのです。地球にやさしい、環境にやさしい、というのは、「人間が快適に住める環境」の事を意味しているのは間違いないからです。「地球が悲鳴をあげている」「瀕死の地球」という言葉も同時に使われますが、これも人間側から見た言い方だと思うのです。

 「ガイア」等と呼んで、地球を生命体に見立てたりしますが、地球はそれでもそんなにヤワな生命体ではないでしょう。過去の地球の歴史を見てみても、今より遙かに生命の住めない状態の時もあったのだし、そう言う意味では、そのときは末期状態と言うことになる。もし人間がよりいっそうの地球環境の破壊行為を行い、生命の住めない状態になっても、地球は何食わぬ顔(?)で、地球たり得ていると思うのだ。

 「地球にやさしい」「環境にやさしい」と言うのも、先に書いたように人間が快適に住めなくなるのを心配しているのだから、地球に~、環境に~、なんていう遠回しなきれいな言葉を並べるのは、自分としては釈然としない。まぁ、そうはいっても、他の言い回しを思いつかないけど。でも、まるで地球を人間が守ってやらねばならないという、おごりのようなものも感じるのだ。

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