茶髪のお兄さん  (2003.1.10)

 茶髪にボディピアス、そしてフリーターなんてやってようものなら、今しか考えないダメな若者、みたいに言う中高年の方がおりますが、言っている方はちゃんとした大人なのか?と疑問に思うケースが目立つ。
 以前、新聞に投書されていた声で、おもしろいのがありました。

 投書した初老の女性は、介護を受けており、車イスの生活をしている。時々、孫に車イスを押してもらって散歩に出るのだが、いつも楽しみにしていることがあった。

 ご存じのように、一歩表へ出ると、バリアフリーなどどこ吹く風という場所が多い。孫はまだ子どもなので力が足らず、段差の大きいところでは一人で車いすを押し上げることはできなかった。そこで、道行く人に助けを求めることになる。
 手を貸してくれるように頼むと、背広姿のサラリーマンとおぼしき人はほとんど何もしてくれない。忙しそうに、迷惑そうな顔をして行き過ぎるか、気づかないふりをして無視して歩き去る人が多いという。
 それに反して、茶髪でいかにもフリーターというお兄さんに声をかけると、まず間違いなく笑顔で積極的に手を貸してくれる。

 二人は散歩に出るとき、「今日はどんな茶髪のお兄さんに会えるかな?」と楽しみにしている。


職業意識  (2003.1.7)

 先日テレビで、戦後復興時の銀行業務のフィルムを流していた。いかにも銀行マンという容姿の面々が、銀行マンのプライドをもって仕事をやっているように見えた。もちろん、生活のためにみんな一生懸命やっているのだが、そのためにやっている仕事にもしっかり責任とプライドをもっているように見えたのが、とても新鮮だったのだ。

 いまそんな人が、どれほどいるだろうかと考えてしまったのです。自分の仕事にプライドをもってやっているあの顔つきの人は、どれほどいるだろうと。もちろん、こんな風にくくってしまうのは失礼なことなんだけど、大まかな感覚で書いています。

 職業意識という言い方をしていいのかどうかわからないけど、自分がそのことについて「みんなもう一度ちゃんと考えた方がいいんじゃないか?」と思ったのは、ここ数年病院に関わることが増えてからですね。以前に雑記帳にも書きましたが、母親や自分自身が何度か救急のお世話になって、つくづく感じてしまったのです。

 あの病院や医者のひどい仕事ぶりは何なのかと。これはひとつに、医者という職業を、数ある仕事の中の一つだと思っているんじゃないか?ということ。同じ事は教員にも言えます。他にもあるでしょうが、これらの職業は、数ある職業を選択する場合の一つに数えてはいけないと思っている。選択肢の一つとして選択して欲しくない職業なのだ。

仕事を「生活の糧を得るため」「自分を高めるため」「可能性を引き出す」・・・などなど、いろんな考え方がありますが、それはひとりひとりの価値観、人生観、諸事情で違うので、それぞれでいいと思うのです。ただ、少なくともたずさわっている間は、それぞれのプロでなくてはなりません。バイトであっても、客から見たらそれなりのプロでなくては。

 と、書いていくと泥沼にはまって収拾がつかなくなりそうだなぁ。。不祥事が多い、とくに自分の職業を利用した不正が多発するのは、モラルの問題はもちろん、自分の仕事に対する職業意識が低下しているからに他なりません。 何故にそうなったかというと、やっぱりアメリカ型資本主義の末路ではないかと、浅はかな考えの中でそう感じています。
 具体的には効率ばかりが優先されていると言うことでしょう。安い経費で早く「らしい」ものが行える、あるいは作れる、ということを。だから、働いている人を責めるのもかわいそうだとは思います。
 自分自身も経験があるのですが、印刷製版という職人仕事をしていたときのことでした。自分はその仕事では、ちょっとやそっとでは負けないだけの技術は持っていたと自負しています。でも、それをある会社の専属フリーでやっていたときには、物理的に限界を超えていました。
 一つのモノを作るのに、それ相応の時間が必要ですが、完璧に丁寧にやろうとしたら、おそらく1年もたずに、過労死までいかなくても、体はもたなかったでしょう。事実、同じフリー仲間の50代の人で、「この人、よく過労死しないよなぁ」という人もいた。結果として、指定のモノをいかに早く労力少なく仕上げるか、という技術が身に付いていきます。そうでもしなければ体が持ちません。それでも、プライドというモノもありますので、できうる限り完璧なモノを作ろうとはしていました。でも、いいものを作ると言うよりは、二度手間にならぬように、早く間違いなく作る、という姿勢でやっていました。仕事をやる気持ちとしては、これは非常に大きな違いです。

 

 前に戻って、医者や看護婦の仕事ぶりに関しても、明らかに人手不足で限界を超えているという面は大きいと思います。それが仕事意識に反映されていると言うこともあると思います。ごくまれに、ひどい職業意識の持ち主や、モラルを失った職業人がいるのなら、それはその部分の問題ですが、これだけ一般化したと言うことは、明らかに効率優先の社会の末路であると言っていいのではないでしょうか?
 その反省もこめているのか、最近「スローライフ」という事がよく言われますが、これも単なるブームで終わるのではないか?という不安もありますね。

今回も全くまとまらなかった。しかも内容が矛盾しているような?┐(‘~`;)┌


自分へのご褒美  (2003.1.12)

 7~8年くらい前からだと思いますが、「自分へのご褒美」「自分へのプレゼント」という言い回しを良く聞くようになりました。タレントのトーク番組でも、そう言う人が増えたような。ほとんどは女性ですが、たまに男でもそのように言う人は見ます。

 何か目標を達成したときに、がんばった自分をほめてあげて、それに対してご褒美をあげる、ということです。
 マラソンの有森選手だったと思いますけど、いい成績で完走したときに「自分をほめてあげたい」と言っていましたが、それとはちょっとニュアンスは違うように感じます。

 まあ、いちゃもん付けるわけではないのですが(いちゃもんだろ?)、個人的には好きな言い回しではありません。「今回目標を達成したのを期に、前から欲しかったモノを買った」とストレートに表現して欲しいのだ。
 「自分へのご褒美」という言い回しは、「自分の意志ではない」という、他人事な発言に聞こえるのです。


音の出る・・・  (2003.1.16)

 以前だったら、電子音を駆使した操作音というのがもてはやされたものですが、最近はアナログ時代のアコースティックな音が見直されてますね。
 ある年代以上には懐かしく、若い世代には新鮮なのだと思う。話はそれるけど、昔の歌謡曲がリバイバルヒットしたりするのは、アナログ音と同じ理由の他に、今のは技術を駆使してごまかした曲作りが多く、昔のはそれができない分、曲作りそのものをしっかりやっていたからではないかと思う。

 さて、最近のアコースティックな操作音でお気に入りは、携帯の着信音。黒電話時代の「ジャリリ~ン!」というやつです。ま、ひととおり行き渡ったら、またうるさいだけの音になるのかもしれないけど。(これを書いていた当時)自分はPHSですがその音は使えませぬ。

 デジタルカメラが普及してきたけど、あれは、それ以前のカメラのようにシャッター音がない。だから、撮られる側が「え?撮ったの?」という感覚になりやすい。そのためにわざわざシャッター音を鳴らせるようになっている機種が増えたようです。

 デジタル、電子化になってきて、操作音というのが鳴らなくなって、それでは物足りないので、逆に鳴らすような物が増えるのではないかと思うけど、ふっと思いついた。
 パソコンのキーボード。「ピッピッ!」と鳴らすこともできるようですが、昔の手動式のタイプライターのように、「パチッパチッ」っと鳴るようにしたら、けっこうウケるのではないかと思うのだけど。やっぱ、うるさいだけでしょうか?


選挙権  (2003.1.18)

 昨年末あたりに一般アンケートで、「占いを信じる」の方が「政治家を信用する」よりも上位ランクになっていた。もう、とことん政治家は信用を失ってます。現在の政治家を見れば無理もないことですが。

 でも、忘れてならないのは、選んだのは選挙権を持つ我々だと言うことです。汚職しようが、選挙違反しようが、逆にな~んにもしない人でも、懲りずにトップに近い得票率で当選させているのは、国民であると言うことですね。選挙違反なんつーのは、政治家としての最大級の犯罪と言ってもいいと思うのだけど・・・。

 そして、投票に行っても何も変わらないし、政治には関心がないから投票に行かない、と言う人も多い。あれ、いつも思うのは、選挙に行かなかった人は、政治や社会に対して不満を言う資格はないということです。
 誰に入れたらいいかわからないと言うけど、選挙に行かないと言うことは、どういう人が当選して、どういう政治が行われても、それに従います、という意思表示だからです。
 「選挙権」と書くと、「投票する権利」という意味になるけど、本来は投票をするのは「義務」だと思うのです。昔のフリーの仕事仲間でも、こそこそ脱税はしているくせに「税金が高い」と文句を言い、選挙には全く行かない、という本末転倒な人が多かった。いくつもの義務を果たしていない上に文句なんか言う資格は無いのだ。

 だから、必ず選挙には行くのですが、困ったこともある。「裁判官の信任(でしたっけ?)」の投票。あれは、どうにも選びようがない。選挙をさせる方もする方も、無茶な投票だとわかっているので、いつも投票の仕方が問題になりますね。
 普通は名前が一列に並んでいて、支持する人だかやめさせたい人だかの上に○をしたりするんですよね。でも、みんな適当に印を付けるもんだから、名前が端の方にあるか、中央の方にあるかで有利不利があるらしい。それで、だれも同じ確率になるように、円い投票用紙にしてぐるっと円を描くように名前を並べるという案もありました。(実際に使われたのかどうかは不明)
 誰が誰だかちゃんとわかって印を付けている人は皆無に近いので、もう確率の世界ですね。幸いというか何というか、今までにそれで罷免された人はいないようです。自分は、これに関しては投票所で用紙をもらっても、棄権ということにして返却しています。

選挙に行かないのは良くない、とは書きましたが、実際には投票へ行こうにも不便きわまりない所もあるようです。過疎地などで投票所まで来るまでしか行く手段がなく、車もない場合はタクシーで何千円も払わないと行けないとか。もちろんそういう特殊(特殊でもないのか?)ばケースは別です


読書について  (2003.1.20)

 まあ、本をよく読む方だとは思いますが、ほとんどは実学的なものです。実学という表現は適当ではないのかもしれないけど、いわゆる小説のように、架空ではないものです。

 天文、物理、生物などの自然科学系は大好きで、必要に迫られてコンピューター系も読みます。そういうものを読んでいたかと思うと、突然歴史の方へ飛んだりする。こういうときは、その本の中で引用されていたりする本だったり、参考文献からそちらへ飛んだりする。それで、どういういきさつだったのか覚えていないけど、一時期、戯曲に凝ったこともありますね。最近で言えばシナリオ文学というやつです。

 大きい本屋へ行くと、時間の限られているときは、とりあえずそのときに欲しい分野のコーナーやフロアへ直行しますが、余裕のあるときだったら、まさに上から下まで分野めちゃくちゃで見回す。それだけ傾向がはっきりせずにうろついていると、万引きを狙っているものと間違われることもあるかもしれない。
 あれは不思議なもので、読みたい本が見つかる時って、たいてい、その前に読まれるのを待っている本が、山となっていたりします。
 そのときにどちらを優先するかは、非常に難しい問題なのだ。一過性で読みたいという欲求の起こった分野の場合は、そのときに読まないと、気持ちのタイミングを逃して、その先も読まれないことになったりするのだった。

 お金に余裕のあるときは、ハードカバーの本を中心に探します。文庫より新しい内容の本があったり、文庫になりえない分野の本を探す場合でもあるけど、何よりも文庫の中から探すのは、非常に骨が折れるのです。すべて同じサイズで、同じ分野の本でも各社別に並んでいるから、一つ一つあたらなくてはいけない。古書の場合はもっと顕著ですね。ちゃんと会社や分野、五十音に整理されているとは限らないし、古書として入荷されていなければ、その店にはないのだし。

 ハードカバーの本を買った直後に、実は文庫になっていたのがわかって、腹の立つこともありますね。良心的な本屋なら、ハードカバーの本と一緒に、文庫も並べて売っている。でも、たいていはそんなことはせずに、ハードカバーの高い方を買わされることになる。それで、文庫を出している出版社のハードカバー本で、出版から数年たっている場合は、一応文庫の方もチェックしたりするのです。その時に文庫になっているのを発見したときは、快感とともに、並べて売っていなかった本屋に対しては、「ンナロー・・」と「ざまぁ」という複雑な心象を持ったりするのだった。

 古書店のいいところは掘り出し物があるところ。チェーン店ではなく、一軒でやっているところは、その店に置いている古書の特徴があるので「おお!」というものに出会ったりする。ある人は、新刊本屋は本の態度がでかいが、古書店では、一冊一冊の本が、めいっぱいの愛想をふるい、「買っていただけませんか?」という謙虚さがある、と言っていた。まあ、わからないでもないですね。^^

 ただ、古書店の困ったところは、いろんな分野の本が所狭しと並べられているので、ついついあっちこっちと買ってしまうことですな。 新刊よりも、古書で手に入れた方が、その後に手放す率が低いのもおもしろいところです。

 最近は、最初に書いたのとは裏腹に、なぜか古典や純文学が読みたくなっている。なんか夏目漱石あたりの、正しい日本語の本が読みたくなっているのです。以前挫折した古事記にも再挑戦したいし。でも、その前に山となった未読本が・・・。


人恋しい  (2003.1.22)

 前回のハレー彗星がやってきたのは、1980年代中頃だったと思います。そのころは、コンピューター関係の会社に勤めていて、関西支店勤務でした。
 ハレー彗星で盛り上がった頃、ちょうどあるクライアントの、オンラインシステム開発のプロジェクトが終わって、自分のチームは暇な時でした。次の仕事の準備をしながらも、かなり余裕があったため、会議と称しては主査以下で勤務中にハレー彗星の現在地の談義なんかをしていました。普通に社内でそんな話をワイワイやるのも少し支障もあったので、時には会議室を取って、実はハレー彗星談義だったりした。

 そんなある日、週の半ばだったのだが、自分は夜中にハレー彗星のよく見える場所を探して、和歌山まで行きました。ハレー彗星が近づいていると言っても、異常に目の良い主査でも「ボーっと見える」程度だった。住んでいたのは大阪の中心部だったのだが、単に近畿の地図を見て、何気に和歌山の海岸地帯を選んだのだと思う。相変わらず思いつきで;;;。

 

 事前の調査もなく急な思いつきで、単に地図を見て港に近い終点の加太駅で降りたものの、港の方は煌々と明かりが灯っていて、それで、山の方へ向かったと記憶している。 しかも、ここから先はすべて徒歩である。
 7時半頃に町の中心部に中華食堂を見つけ、夕食をとった。両親と小学生の子供の家族経営の店らしく、ほかに客はなかった。店のテレビには「スケ番刑事(南野陽子主演)」が映し出されていて、お父さんも調理場から顔を出して、食い入るように見ていた。この日が「週の半ば」だと覚えているのは、「スケ番刑事」をやっていたのが、水曜か木曜だったからなのだった。

 その店を出ると、後は国道らしきところをとぼとぼと山の方へ歩いていった。トラックなどの工事関係の車が多かったが、そのうちに車そのものも減ってきて、どんどん明かりの少ないところに入っていった。

 延々と歩き、道はどんどん上り坂になっていった。歩き始めて4時間近くは経っていたと思う。途中、休むためだったのかどうか覚えていないけど、道の脇の林のようなところに入って座った。たまにヘッドライトを輝かせて大型車が通り過ぎていった。
 そこからはまだ、港の方角が見下ろせた。港は相変わらず明かりを灯らせている。もう、ハレー彗星を見つけられるという期待も持っていなかったと思う。ただ、夜の道を歩いているのが目的となっていたような気がする。

 そこから再び歩き出した時のことは、よく覚えていない。でも、そう長くは休んではいなかった。いつの頃からか、下り坂を町へ向かって歩いていた。その町が出発点の町だったのかどうかも覚えていないけど、とにかく夜が明けて電車が走り出す頃に、駅のある町にたどり着こうと思っていた。

 8時間以上を歩いたことになるのだけど、股関節は油が切れたように「キシキシ」と鳴っている感じだった。そして、人の「顔」が恋しくなっていた。
 普段、人恋しいという感覚はほとんど持つことはないのだけど、この時は妙に人恋しかった。ほとんど人というものに会わずに歩き続けたということよりも、一晩中星を見ていたせいだ、という気がした。天文台で一晩中星を見ている天文官が、朝とても人の顔が恋しくなっているというのを聞いた事があったし、自分もそれを実感したからだ。

 始発くらいの電車で大阪へ向かい、難波の南海電車のターミナルに着く頃には、どんどん人が増えてにぎやかになっている。普段は無機的な表情で行き来している通勤者が、生き生きとして見えた。

 アパートへ帰り、早速テレビをつけた。とにかく人の顔を見ていたかったのだった。テレビでは、朝から元気なベタベタの大阪の番組をやっていた。脳天気な番組を流している、平和ボケの日本がとても素敵に思えたのだった。

 (と、言うことは、この日は休んでいるんだよな。理由は覚えていない;;
 おまけに、これをきっかけに「スケ番刑事」にはまったのだった;;;;)


カラスを見直そう  (2003.1.24)

(2003.1.24)

 都会の嫌われ者の代表のようになってしまっているカラスですが、はっきり言って自分は好きです。敵対心を無くして、よ~く見てください。とてもかわいいつぶらな瞳をしているし、羽毛だって単純に真っ黒じゃぁありません。光の具合によって、緑や紫がかって見え、とてもきれいです。おまけにこんなに知能の高い動物はそうはいないでしょう。ナチュラリストで東京都鳥獣保護委員であり、カラスフリークでもある佐々木洋氏は、ゴミ問題の時によく言われる「人間とカラスの知恵比べ」に対して、「人間がカラスの知恵にかなうはずがない」と断言しています。

 カラスと一口に言ってもたくさんの種類がおり、そのうち日本に生息するのは12種類。よく見かけるのは、都会でおなじみのハシブトガラス、ハシボソガラスと西日本に多いミヤマガラスでしょう。都市部で害鳥扱いされているのはハシボソとハシブトで、ハシボソはくちばしが細くて頭部がスマートなやつ。「ガーガー」と鳴きます。ハシブトはくちばしが太く、おでこの出たようなやつです。若干こちらの方が体が大きい。ハシブトは澄んだ声で「カーカー」と鳴く。
 本来都市部で優勢だったのはハシブトで、森や高い木のあるところに住んでいたのです。ハシボソは草原などの見晴らしのいいところに生息していたので、都市部では劣勢でした。都市部は建築物が多いので、ハシブトの方が住みやすかったのです。でも、最近はハシボソの姿を多く見かける。

 確かに、カラスで迷惑をしている人が多いとは聞くけど、それを招いたのは人間には間違いがない。彼らは自然界では「掃除屋」という重要な役割があったわけで、都市部に進出して、「ゴミの掃除」という本来の責任を全うしているのです。ま、散らかしているけど、掃除の意味が違いますから^^;。

 都市部にいると、餌をとる労力が少ないので、余裕ができる。それで、遊んでいるカラスは全国で目撃されます。
 動物において「遊び」が観察される場合、それは大人になったときに狩りに役立つ訓練だったり、何かしら訓練や練習に結びつく意味合いが大きい。でも、カラスの場合は、明らかにそういう意味が無く、純粋に遊んでいるようです。そういう遊びができるというだけでも、驚くべき知能の高さを表しているらしい。まだ写真でしか見たことはないけど、電線に逆さにぶら下がったりする。一羽がやると、周りもまねしてぶら下がる。そのうち、片足だけで捕まったり、そのまま足をはなして墜落して、ぎりぎりのところで羽ばたいて上昇するという遊びも見られるようだ。
 時々公園の滑り台を滑り降りて遊んでいるカラスもニュースで放映されたりするし、カナダではスキーに興じるカラスも目撃されたという。そのまま滑ると逆毛になるので、頭を下にして滑り降りる。そして、周りにそれを見ているギャラリーカラスもいるのだ。

 敵対心を示し、それなりの攻撃を加えると、カラスも覚えていて敵対するけど、友好的に振る舞うと友達にもなれる動物です。毎日挨拶の声をかけて友達になった人や、一緒に散歩しているケースも報告されている。
 散歩といえば、カラスは歩きにかけても天才で、スキップと歩きの両方ができる。思い出してもらいたいのだが、雀は両足をそろえてチョンチョンとスキップし、ハトは足を交互に出して歩く。でも、雀は歩けないし、ハトはスキップできない。カラスはその両方ができる希有な鳥で、しかも、斜め向きでスキップする「欽ちゃん走り」までできてしまう。

 もともとカラスは嫌われ者でもなく、むしろ神か、神の使いとして敬われている面はあったでしょう。日本サッカー協会のシンボルマークは脚が3本の神(?)のカラスである。「おからす様」といえば、神聖なカラスだし、ゴッホの「麦畑」の絵の中で、飛んでいるカラスの群れの中に「おからす様」がおり、見る人が見ればわかる、と言っていた人もいた。ほんまかいな?

 日本には「烏」の名前の付く地名が多く、それらの町で連絡会を作ったり、烏で町おこしをしているところもある。
 またカラスは仲間意識がとても高く、苦しい仲間を思いやる人情(?)もある。下記に記事を掲載します。涙がチョチョ切れます。


 (読売新聞1994.4.21)
 東京都杉並区の住宅街で二十日の早朝五時頃、ただならぬ数のカラスの声に目をさました小堺昭三さんが外を見ると、近所の屋根やベランダに数十羽のカラス。
 不思議に思っていたところ、同じように鳴き声に起こされた近所の人から、自宅のアンテナに一羽のカラスが羽を絡ませている、と知らされた。
 住民の知らせで、朝8時半頃、東京電力のはしご付きの作業車が救出に出動したが、道が狭く近寄れず、他の住民からの通報も区役所や消防にも寄せられたが、なすすべもなく、宙づりカラスは夕方まで動けない状態が続いた。
 しかし朝から、このカラスをまるで励ますように数十羽のカラスが集まり、間もなくエサを運んできたり、仲間がアンテナをくちばしでつつき、助け出すしぐさを見せ始めた。
 カラスたちは、あたりの暗くなった六時すぎになってもアンテナからはなれようとはしなかった。
 鳥の中でも団結心が強く、とりわけ知能も高いといわれるカラス。
 だが、人間顔負けの情の濃さと賢さに、近所の人たちはすっかり感心し、専門家も「非常に珍しい出来事」と驚いている。

 《*残念ながらこのカラスは助からなかったという。》


大相撲はスポーツか?  (2003.1.26)

 もう早くも言い古されたフレーズになってしまいましたが、横綱貴乃花が引退して、相撲人気の陰りにいっそう拍車がかかった感じがします。
 引退の時期や休場後の途中出場の謎やなんやかんやは、アホなマスコミ記事がいやというほど書くだろうから、ここでは考察しません。そもそも考察できるほど詳しくないし^^;。

 残る横綱はハワイ出身の武蔵丸一人で、後は横綱確実のモンゴル出身の朝青龍。日本人横綱の誕生は、当分期待はできないでしょうね。
 国技たる大相撲が、外国勢に席巻されることを憂慮する声も聞かれるが、ある意味、いい具合の世界に開かれた競技になっているのではないかと、個人的には思う。問題なのは、強い力士を所有したいために、海外にまるで助っ人を取りに行くような風潮が出ているのではないか?という点。そして、いうまでもなく相撲協会の体質と、相撲界を好きなようにかき回してしまった「二子山部屋」。
 また、個人的に不満なのは、プロ野球を自分の所有物と勘違いしている某オーナーが、横綱審議委員の委員長なんてものをやっていること。

 自分は大相撲の大ファンというわけではないが、国技として大事にして欲しいとは思っている。最も心配なのは、現在の国際大会で行われているように、体重別などというくだらない階級制にしてしまわないだろうな、ということである。
 柔道も、元々階級はなく、判定などというものも無かった。国際化のため(オリンピック競技に入れてもらうため?)に「スポーツ」として普及するために、そのような制度にしたのでしょう。そもそも、日本のそれらの競技は「スポーツ」ではない。勝ち負けが問題なのではない。でも欧米は、合理的で客観的な判定のできる「スポーツ」でないと理解はできない。勝ち負けを決めるのに、不公平だという理由らしい。

 相撲はまた武道とも違う「様式美」も兼ね備えた不思議な競技であって、世界におもねるようなルールを導入したときに、国技としての「死」を迎えるのではないかと思う。
 誤解の無いように述べると、国際大会などのために、そのようなルールを取り入れて普及させるのはいいことだと思っている。でも、少なくとも日本で行われている「大相撲」は、その一線を越えるべきではないと思っているのです。


教訓  (2003.1.27)

 学生時代は、
 「今日やれることを明日に延ばすな」
 という、まことしやかな教訓を学び、そういうものだと思っていた。

 そして社会に出て、自ら学んだことは
 「明日出来ることは今日やるな。」 だった^^;
 明日 やればいいんだから、アセって今日やらんでも、と言うことなんだけど、、
 ダメ? ^^;)

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