「コーヒーの方は?」  (2002.12.10)

 例えば二人で喫茶店に入ったとする。そして一人はコーヒー、もう一人は紅茶をたのんだとする。

 しばらくして、バイトのウエイトレスが飲み物を持ってやってくる。

 「コーヒーの方は?」
「はい」
と目の前にコーヒーが置かれる。

 ここまでは普通なんだけど、その後に
「紅茶の方は?」と聞くやつがいる。たまにそう言うやつがいる。

 あれはなんなんだ?


「自分の生き方自ら決めたい」  (2002.12.11)

 (朝日新聞 平成14年12月11日朝刊の投書欄「声」より)

作業所勤務(横浜市 42歳)

 11がつ25にちのしんぶん(「『親なき後』にやはり施設を」)をよみました。
 わたしはのうせいまひです。あるけません。
ことばもよくきかないとわかりません。グループホームでくらしています。
 ようごがっこうをでて、しせつにはいりました。
もうはいりたくないです。じゆうがありません。
 おふろは、しゅうに2かいです。それもひるまの2じ。ごはんは5じ、ねるじかんは8じです。せんめんはごごの6じです。
これをせいかつといえますか。
 いうとおりにしなかったら、かいじょがうけられませんでした。
 しせつから、うちにかえりました。なんでもやりたかった。
おかあさんのてつだいをやりたかったのに、おぶないから、ほうちょうももたしてくれませんでした。
 23さいごろ、おとうさんがさぎょうしょをさがしてくれました。
わたしのうんめいがかわりました。
しばらくして、しょくいんさんが、おやもとからはなれて、せいかつをしてみないかといわれました。
 またしせつにはいるのとききました。
ちがう、ちいきでくらしてみないか、といわれました。
それがグループホームだったのです。はいっているのは4人~5人です。
しせつとおおちがいです。
よるの8じ~9じにおふろにはいります。ごはんのじかんは7じです。9じ~12じにねます。かいものもじゆうにいけます。
 わたしは、グループホームのせいかつのままでいいわけではありません。
いま、ひとりくらしをかんがえています。
おやは、もっといろんなところをみてください。おやだけできめず、ほんにんのこえをきいてください。
どうか、しょうがいしゃの、みらいをつぶさないでください。


何色?  (2002.12.13)

 現在、駅のホームには視力障害者用の黄色の点字ブロックが敷いてある。 

 その、黄色の点字ブロックが設置される前は
「危険ですので白線の内側まで下がってお待ちください」
とアナウンスされてました。

 でも、今では、
「黄色い線まで下がってお待ちください」と言いますよね。

 その過渡期に一度
「危険ですので黄色い白線まで下がってお待ちくださ~い」
と言うのを聞いたことがある。

どの線やねん?


ポリボックス  (2002.12.15)

 うちの近所にポリボックスが建った。いつのまにか建っていた。そうめったに通るところでもなかったので、まったく気がつかなかった。
 ポリボックスと言っても、もちろん交番のことではなく、要人警護のための大昔の電話ボックスみたいなやつですが。

 あれ、非常にかわいそうな職場ですねぇ。まず事件らしい事件は起こらないし、ボックス自体、1m四方も無いでしょう。あの中で雨の日も風の日も(死語かな?)ただ立っている。座るところなんて無いし、近所のボックスのおまわりさんなどは、時々携帯電話をいじっている。先日は、長い警棒でバットの素振りをしていた。狭い路地の住宅街の中なので、一時間に人が1~2人しか通らないなんてのは普通だ。退屈極まりないのはとても同情する。やっぱりあの職務はストレスがたまるらしく、警察のほうでも、時々違う場所での職務で気分転換をさせるらしい。

 先日、うちから1kmくらいのところで、民主党の石井功基議員が刺殺された。ポリボックスのおまわりさんは何をしていたんだ?と思っていたのだけど、あれは大臣クラスにしかつかないらしい。
 と言うことは、うちの近所のボックスの家は大臣なのだろう。ところが近所の人がことごとく「誰?」と言っている。なんで、ポリボックスが立っているのか分からない人が多いらしい。かなり目立たない大臣なのか?まさかコスプレ趣味の家の人が警官のふりをしているとも思えないし(確かそう言うのは罪になります)。立っているおまわりさんに「誰なんですか?」とは聞けないし。

 たまにそのボックスの前を通るのだけど、あまりにも変化の無い静かな場所での職務で、いつも同情をしてしまう。ただ、一つ疑問が湧き上がった。食事はその場で弁当か、もしくは交代すれば良いとして、トイレはどうしているんだろう?やっぱり、警護している家に入って借りるのだろうか?


蚊との闘い  (2002.12.18)

 眠りに落ちようとするときに限って、「ヴゥンン・・」と耳元にやってくる。ほんとに蚊は忌々しい。
 血を吸うなら吸うでいいから、寝た後にしてくれと言いたい。そして、明かりを点けるととたんにいなくなるけど、消してウトウトするとまたやってくる。
 これが田舎の方へ行くと違う。とにかくどんなときでも突撃してくる。明かりが点いていようがいまいが、襲ってくる。すっきりしていて気持ちがよい。こちらも、コンニャロと対戦できる。

 そうすると、どうも東京(と言うより都会)の蚊は頭がいいようだ。と言うか、陰湿というか。進化論の解釈で言うと、そのように人間の裏をかく行動をする蚊が、都市部では生き残ったということか?

 だいぶ前に香港に行ったとき、真夏にもかかわらず、蚊が全くいなかった。話によると、撲滅したらしい。大陸と陸続きなのに、なぜ撲滅した後も広がってこないのか疑問だが。

 長年不思議に思っていたのが、何故に耳元にくるか?ということである。ある本によると、健康な状態の耳は、誰でもある周波数の高音を発しているそうだ。蚊は高周波の音に反応する。血を吸うのは産卵期のメスの蚊で、その時期(吸血する時期)はオスの蚊が近づくのを嫌う。超音波を使った「蚊よけ」があるのだが、あれは、オスの蚊の羽音に近い周波数なのです。ただ、蚊の種類によって周波数が違うので、イエ蚊には効いてもヤブ蚊には効かなかったりする。
 それで、もしかすると耳の発する高周波に引き寄せられて、耳の穴めがけてやってくるのかな?と思ったりする。ちなみにその「蚊よけ」はキーホルダー式で、それほど高い物ではない。でも、キーンという高周波を発するので、けっこう頭が痛くなりそうだし、野外用なのでおそらくヤブ蚊向けなのか、家の中でのイエ蚊には効かなかった。

 自分は蚊を捕まえるときに、たいてい空中でわしづかみにする。留まっているときに叩こうとしても、叩きにくいところにいたりする。蚊がいるのがわかっていて、あちこち探して、壁に留まっている縦長の姿を見たときは快感ですね。
 おもしろいことに、夜、寝込みを襲われて、電気を点けて探すと、ひょいと目を向けたところに堂々と留まっているマヌケが多い。なに気に目をやった家具の脇に、呼び込まれるように留まりに来たり。もしかしたら、蚊を察知する能力があるのかしらん?

 12月も半ばだと言うのに、また寝込みを襲われた、、クソッ、、。


時代劇  (2002.12.20)

 このところ、また時代劇が人気を盛り返しているようです。お茶の間の定番と言えば、「水戸黄門」や「あばれん坊将軍」。以前なら「銭形平次」や「遠山の金さん」なんてのも定番中の定番でしたね。

 ご承知のとおり、これらの定番のチャンバラ劇は、架空の人物か、実在でも大きく事実と異なっているケースが多い。銭形平次はもちろん架空だし、平次がいたとしてもあれは元罪人が十手を預かった人間である。水戸黄門に関しては、言わずもがな。あんなに旅をしているわけが無いし、そもそもあの設定は江戸時代に入ってから講談で作られたものである。黄門様はほとんど旅というものをしていないし、かなりの好色家であったようだ。

 前回の黄門様役は石坂浩二氏でしたね。かなり視聴率が悪かったようです。それもそのはずで、ちょっと見てみたがお話にテンポが無く、難しく、視聴者が水戸黄門に期待しているものの逆を行っている。
 石坂氏の要望であのようになるべく時代背景やお話がリアルになるように、作ったようですがすべて裏目に出たようだ。その証拠に、以前のような設定に戻した里見浩太郎氏の水戸黄門は順調なようです。石坂氏のインテリさがこの場合は邪魔だったみたいですね。水戸黄門ファンは、時代考証の正確さではなく、単純な勧善懲悪を求めているのだろうし。

 さて、時代劇を見るときの楽しみの一つにアラ捜しがある。自分は最初からそのつもりで見るわけではないが、時々「あれ?」という場面に出くわすと、うれしくなる。
 ご承知のように、チャンバラ劇は、ほとんどがあのような町並みが作ってある撮影所で撮影することが多い。でも時には野外での撮影となる。そんなときに、バックに電柱や電線が写っていることもある。空を飛行機が飛んじゃっていることもある。言葉遣いも面白い。
 芝居小屋で「いよっ!大統領!」なんて声援が飛ぶ(でも、これって本当は「大棟梁」なのかな?)。風呂から上がった助さんが「この旅館はサービスがようございますなぁ」。うっかり八兵衛を励ますときに「なんでぇ、女の一人や二人、ファイトファイト!」
 まあ、このほとんどは、他人から聞いたり読んだりしたものの受け売りですが。時代的におかしいのは分かっているが、見ている側に解かりやすくするために、わざと現代語を使っている事も多いでしょう。

 そもそも、登場人物がことごとく体格が良く、背が高い時点でリアリティも半減している。健康状態の良い食い詰めの侍とか、顔だけ汚い栄養が行き届いた健康そうな百姓の子供とか。数十年前の古い白黒なんかの時代劇に、妙なリアリティを感じるのは、やせ細った登場人物が多いということもあると思う。

 自分はほとんどドラマは見ないし、時代劇自体もさほど見るわけではないが、NHKで二度ほどシリーズ放映した「茂七の事件簿」は好きだった。刃物を使ったチャンバラ場面は全く無いが、当時の生活や人情が良く表現されていて、人情時代劇とでもいうのかどうか知らないが、とても良かった。
 現代劇は内容や演者が薄っぺらになっている気がして、見る気がしなくなったのだけど、時代劇のほうは、映画もテレビも多彩に豊かになってきている気はする。何か行き詰まった現代人が求めるものがあるのだろうか?


マンション訴訟から見えるモノ  (2002.12.22)

 東京国立のマンション訴訟で、画期的な判決が下された。住民の反対を押し切って、高層マンションを建てた業者に対し、景観を損なう20m以上の部分を撤去しろ、という命令だった。
 何が画期的かと言うと、建築基準法の面では、そのマンションは合法なのだ。法律的には何の問題も無いのだけど、住民が長年自主規制して守ってきた景観を損なうような行為は、許されるべきではない、と言うことなのだ。
 業者側は控訴する方針なので、まだ決定してはいない。撤去工事の時に、すでに入居している住民への騒音や振動の問題はあるが、技術的には撤去は問題ない。

 以前に、新宿のDoCoMoビルについて書いたときに述べたことなのだが、建築物というのは、それを利用する者のことだけを考えてはいけないのだ。無人島に建てるのならいざ知らず、周りと共存する場に建てるのが通常なのだから、その建物も外観や周りに及ぼす影響は最大限に考えなくてはいけない。

 今回のようにマンションを建てたり商業目的の建物は、きれい事を並べても利益優先なのは目に見えている。現に、笑っちゃうことに、そのマンションの売り文句の一つが、桜並木の景観のすばらしさなのだ。その桜並木の景観を壊す建築計画だったので、建築以前から住民ともめていたのに。いかにきれい事を並べた売り文句が出任せであったかがわかる。

 個人の家を建てる場合でも、住む自分が快適に暮らせることはもちろん、近所や地域にとっても快適であることを考えるのは前提だと思うのだ。悲しいかな、そういうことを学ぶはずの建築学校で、そんなことは教えてはいないだろう。自分自身、大学の建築学科だったが、そんな事は聞いた覚えがない。景観を大事にするという事は聞いたが、それはあくまで景観美の事であって、周りとの共存という事ではなかったと記憶している。共存という単語は使っていたが、学問的な意味での単語でしかなかった。
 現に誰とは言わないが、大学の教授なんかが設計している建築物には、自己満足でしかないモノが多い。どう見ても「景観美」以上には、周りや地域の事なんか考えてない建築物を設計している。いや、景観のことさえ考えていないモノが多いと言うべきか。
 なにもこういう事は、専門的な知識やノウハウの問題ではない。相手の立場を思いやるという、日常での当たり前の心遣いの範囲の問題だろう。

 話はそれるが、精神世界関係で「自分の気持ちに正直になって、自分が快く感じることをやりなさい」のような事が言われていた。言っていることが間違っているとは思わない。でも、たいていのその世界の人は、言葉の上辺だけを都合よく利用するので、「自分勝手」と言うことと混同している。
 その世界の人に限ったことではないのだが、自分の好きなようにやった結果、相手や周りに迷惑が及んでいるのかどうか、どう感じているのか、という想像力が欠如しているか、見ないようにしているからである。そして、迷惑が及んでしまっている場合でも、自分自身がそれでも「快く感じるのか?」というところまで考えていないか、無視している。これらのことは、今の時代誰に対しても言えることであろう。


住民が自主規制によって景観を保護していた所へ、その規制を無視して建物を計画したため、住民と市議会が制限条例を作ったのですが、施工側も急いで地盤整備工事を始めました。これにより、建設が始まったとするかどうかの判断も裁判中です。作った不動産業者は周囲の景観を売りにしていることで、周囲の住人はさらに怒っています。(この件には、思い入れがあるので・・かなり押さえてます)
(玄武さん談 2002.12.23)


ラッシュの非日常空間  (2002.12.27)

 ラッシュ時が非日常的な空間だなんて、今更言うまでもないことだけど。ラッシュに遭う、と言えば、大方は通勤か通学ですね。自分がラッシュ時に電車を利用することがなくなってから、長い月日になりますが、まあその分、たまにラッシュに遭うと、妙に新鮮に感じることもある。

 通勤通学のときは、京王井の頭線か小田急線だった。小田急は四六時中365日寝てもさめても混んでいてうざったいのだが、井の頭線は普段はほどほどに空いている。でも、混むときは半端じゃなくて、高校のとき、入り口近くに立っていて、あまりにギューギュー詰だったので、腕が窓に思いきり押し付けられて、マジで折れるかと思ったこともある。

 あの空間でいつも思うのは、「この人、普段はどんな人間なんだ?」と神経を疑うようなこと。ギュウギュウ詰めの中で本や新聞を読む、なんてまともな神経じゃない人がまず目につく。 強引に手で突っ張って、目の前に空間を作るような馬鹿野郎が一般的なスタイル。そこまでしなくても、何とか読める体勢を作れる場合もあるが、それでも、目の前の人間には不愉快だ。たとえ、どうにか空間が確保できたとしても、隣人が不愉快であろうと考える神経がないのがシンジラレナイ。

 以前、朝のラッシュの時のこと、あるサラリーマンの男が、八つ折りにたたんだ新聞を強引に読んでいて、それを目の前に出された他のサラリーマンの男が、かなり不愉快だったのだろう(当然だが)、「こんな混んでんのに、なに新聞読んでんだよ、しまえよ」と言った。
 言われた男は、一瞬たじろいだが、体勢を変えなかった。「しまえって言ってんだよ!」と、また男は言う。それでも言われた方は、意地になっているのか素直にしまおうにもタイミングを逸してしまったのか、そのまま。

 もっと異常なのに意外に見かけるのが、足を踏まれた方が「踏ませてしまってすいません」のような雰囲気になっていること。そして、踏んだ方が憤慨したような態度を取っている。もちろん、常識では考えられない光景だが、これは何度か見た。
 べつに、踏んだほうがアブナイ方面の人だとかではなく、どちらも普通のサラリーマン風だ。はっきり言って、理解に苦しむが、何となくわかる雰囲気だ。でも、こんな異常な光景は東京だけかしらん?

 満員電車では、どこに立つか?というのもけっこう問題だ。安定したスポットは、出入り口の座席とドアの隅に囲まれた三角エリア。縦の手すりがついているところ。あそこに寄っかかって腕でも組んでいるのが、立っている状態ではけっこう楽だし、本なんかも読める。本を読んでいて、混んできたら、くるっと座席側に向けば無理なく空間も確保できる。もちろん、あまりに混んできて、他の人が読みたくても我慢しているような状態になったら、本はしまいますよ。

 あの三角スポットは、駅について、新たな人が乗ってくるときの争奪の対象となることがある。それほど混んでいなければ、乗ってくる人は、すんなりと中の方に入っていくが、かなり混んでいる状態だと、そのスポットの手すりにつかまりながら乗ってきて、そのまま滑り込むように三角コーナーにおさまろうとする。
 こちらが先にそのスポットに収まっていても、「だって自然な成り行きで、こうやって乗り込んだら、しょうがないぢゃん。このスポットはオイラのもんだもんね。」と強引に滑り込んでくる。喧嘩するつもりもないし、そこまでして死守する場所でもないから、こちらははじき出されて奥へ流されることになる。多少は不愉快だが。でも、乗り込む人がいるのに、そうやって出入り口にがんばっているのも、迷惑な話なんだろうけど。^^;)


新年の抱負?  (2002.12.30)

 先日、掲示板にもちょっと書いたことですが。

 今までに「新年の抱負」というのを、まじめに考えた記憶があまりありません。小学校の時にはそういうモノを書かされたような気がします。でもそれは、「読書計画」と同じようなモノで、しょうがないからそれらしいモノを書いておく、という程度だったと思います。
 まあ、「今年は○○ができるようになるぞ!」みたいなモノはちょっとはあったと思いますが、ほとんどは形式だけでしたね^^;。
 そう、なんか「新年の抱負」というのが、儀式のように感じてたのです。「今年は○○ができるようになるぞ!」と思ってみても、儀式のために気分も高まって、そういう目標(?)をあげてみただけのような。新年という区切りがなければ、そのまま変わらずに過ごしているでしょうし。

 よくわからないのですが、こういうのって日本特有のモノなんではないだろうか?忘年会というのは、字のごとく、今年のことは忘れましょう、みたいなもんで、新年からは気分も変えて行きましょう、というのは、神道的な感じがするのですが。

 あっ、何も新年に抱負を語るのを否定しているのではないですよ。あれはあれで、正月らしくて新鮮で好きです。ただ、自分がそういうのを全くと言っていいほど考えないので、自分の中では「儀式」でしかないということです。聞かれても困るし・・・。


天才のレベル   (2003.1.2)

 正月夜、NHKでノーベル賞対談をやっていた。出演者は小柴氏、野依氏、江崎玲於奈氏の三人。
 番組の中で小柴氏が、司会のアナウンサーに「サイエンス界の天才アインシュタインと、クラシック界の天才モーツァルトでは、どちらがより天才だと思う?」と質問した。
 アナウンサーの女性は「同列に比べられるモノじゃないんじゃないでしょうか?」と誰もが思うことを答えた。ところが小柴氏の考えは、なるほどとうなずけるモノだった。

 サイエンスと芸術や宗教的なモノの違いは「主体と客体」が分離できるかどうかの違いだと。サイエンスは歴然たる客体がある。客体たる自然現象は、誰の前でも同じであって、それを主体である人間が、観測・研究することができる。
 アインシュタインは確かに天才だが、彼の最大の功績である一般相対性理論は、アインシュタインが考えつかなくても、他の人が考え出した可能性は高い。同じ客体である自然現象を他の人が研究しても、結果は同じになるはずだからだ。
 歴史上の大発見は何人も同じ事を考えていた例は多く、ダーウィンの進化論も、全く同じ理論を同じ時期に発表しようとしていた人がいて、ダーウィンはあわてて発表したのだった。

 それに対して芸術(宗教も)は、作品と作者、そして鑑賞者は渾然一体としている。もしモーツァルトがある作品を作り出さなかったら、他の人によってそれが作り出された、という可能性はあり得ない。それはモーツァルトという個人にしか、作り出せないものだと。

 「だからね、わたしは、モーツァルトの方がより天才だと、こう思うんですよ。^^」と、小柴氏は笑った。
 「天才」の定義の問題もあるし、野依氏、江崎氏は、また違った見方を持っていたが、う~ん、なるほどである。

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