2001年から2010年まで9年弱に渡って母上を介護して、その後5年狭山の介護病院でお世話になりました。

意外に好調!?  2010.5.28

 4月16日の母上の入所以来、週一回は面会に行っている。思ったほど遠くないとはいえ、高田馬場(または西武新宿)からの往復はそれなりに疲れるので、行きは特急で行っている。ちょっとした小旅行気分にもなれるし。しかしさすがに平日の日中に特急に乗っている人はほとんどいない。1時間に一本の特急なのだが、1車両に数人の乗車率でも廃止するわけにはいかんのだろね。ちなみに目的地、新狭山の1つ手前の駅の狭山まで乗るのだが、特急料金は420円である。運賃はほぼ同額の450円。  昨日は都内では、突然にわかにかき曇ってのスコールだったり晴れたりで、病院のある狭山の予報は面会予定の3時過ぎから下り坂だった。気圧が下がり気味のときは状態が不安定な事が多かったので、今回も最初の時みたいにあまり起きないのではないかと思っていた。精神的に不安定になるのではという不安はなかったが。

 いつものように受付で面会書を書いてバッチをもらい、ナースステーションに書類の写しを出す。病室に入ってみると意外にも母君は起きていた。今までは寝ていなくても声をかけるまで目を閉じていることがほとんどだったのでこれは意外だった。もっと意外なのはやけに反応が良いのである。いつもは力なく笑うくらいはあっても、あまり言葉を発することはなかった。それなりに返事はしても。  昨日は今までで一番(家にいたときのように)、結構言葉が返ってくるのである。看護婦さんやヘルパーさんたちからは、夜は声をかけたりお世話をしてるときなどに良くお話をする(しゃべる)と言っていたので、しゃべること自体は意外ではなかったが、調子が悪いだろうと予測していたので意外だったのだ。でも考えたら家にいるときも、雨の日や下り坂の日は不安定になったりするのを覚悟していたことが多かったが、意外にも好調だったことも少なくはなかった。

 いつものように外出許可をもらって病院周辺の散歩へと出かけた。狭山の病院へ入ったというと、かなり田舎で自然が多いのだろうと思う人が多いのだが、そんなことはなくそれなりの街だと説明している。でも病院の周りは畑なども多く、元農家と見られる家や山林地主だったのか?というような、何軒も同じ名字の家があったり。大小の神社や寺も近距離にいくつもある。病院の周りで一番大きい神社はどこにでもある名前の氷川神社。ここはお参りに入れるので入ってみた。二度目である。  このコースで病院の周囲を回ると結構な距離がある。いつも風が強いことが多いので、長時間外出させるのもそれなりに「いいのか?」とも思ったり。この日もすこし風が強く、温度自体はほどほどなのだが風による体感温度は肌寒いといえなくもなかった。家にいるときは寒がりだったけど、聞いても「寒くないよ」と言う。鈍感になっているのか本当に寒くないのかは謎である。

 入所当初は「本当にここに入れて良かったのか?」と何度も考えたが、前回も書いたように母上の表情などを見ていると、ここで良かったのだと思える。看護婦さんも「穏やかですね」と言っていたし、昨日は「伊藤さんはかわいいおばあちゃんよね」と言っていた。お世辞には聞こえなかったから、本当に受けが良いのだろう。だからお世話する側もされる側もお互いに気持ちよくやれて、母も落ち着いて生活できているのだろうと思われる。

激やせ!実は…  2010.6.21

 今年の2月から4月までのハードな介助(母親の介護)のことは、ブログやこの雑記帳でも触れました。4月に介護病院に入所するまで、約8年半の介護生活が続いたわけだが、精神的なストレスやそれを最大の起因とする身体の不調などはあっても「やせる」ということはなかった。割と胃がチクチクすることも多いのだが、意外にも介護中にそういうこともなかった。後者はそうなったらかなり大変なことに進展するので、身体が自分で防いでいたのかも。

 しかし、2月からの数ヶ月は精神的な部分も大変だったが、それ以上に体力を使った。そのせいだと思うけど、かなり痩せました。久々に会う人はもちろん、ほんのちょっとご無沙汰しただけの人でも驚くほど痩せたようだ。
 といってもガリガリにやせ衰えたりやつれたわけではなく(当初は多少やつれもあったみたいだけど)、体重にして7キロほど痩せた。約2ヶ月間で。
 もちろんそれだけ痩せるのだから、身体のサイズもかなり変わった。一番減ったウエストで8~10センチくらいは細くなっている。胸囲はマイナス5センチくらい、ヒップはあまり変わらずマイナス1~2センチ。
 でも、かなり以前に会った人、たとえば20年ぶりに会った人なら「変わらないねぇ」と言われたことだろう。つまり痩せたと言うよりは皮下脂肪で太くなっていた部分がすべて落ちたのである。^^; 体重も7キロくらい減ってからは安定しており、計算上は理想体重になっている。なので体型が戻ったという方が正しいような。ま、それでも普通は痩せたというのだけど。

 で、困ったのはズボンである。何しろウエストが8センチ以上減ったということは、ジーンズで2インチくらい違うのである。一昨年くらいに結構買ったのがあり、みんなゆるいのである。本来ベルトをするのは嫌いで、骨盤でちょうど良い感じが好きなのだが、ベルトをしないことには緩すぎてしまう。先日久々にジーンズを買って、1インチ下のを試着してみて、それが良さそうだったので買って履いてみたら、やはり少し緩かった。なので2インチ下げる必要がありそうな。洋服のお直し屋の社長さんにいつもお世話になっているので相談してみたら、ベストなのは3センチまでのサイズ詰めで、それ以上だと高額になってしまうので、新しいのを買った方が良いと。ん~、やっぱりそうか。
 この社長さんのお店では昨年、昔買ったスーツを直してもらった。遊びにも着られるモノなのだが、少々デザインも古いので、それの直しとズボンを太くしてもらった。それから半年くらいして、今度はブカブカすぎてしまうのだった。同じ頃買ったスラックスがちょうど良いので、直さなくて良かったのである^^;。
 全介助が必要になってからは、プロが二人がかりで介助しているのを一人でやっていたので、エネルギーとなる皮下脂肪を燃焼し尽くしたのであろか。それは良かったかもしれないが、かなり痛めた腰は介護が終わって2ヶ月を過ぎた今でもまだまだ治ってはいないのだった。

腰痛改善!  2010.7.23

 以前ブログでも紹介したが、マッケンジー法という腰痛改善法がある。2~4月の母親の介護介助でしたたかに痛めた腰痛が、医院に通っても全くよくならず、ちょっと改善したと思ってもすぐにぶり返してしまって、良くなる気配が全くなかった。そんな折になにげに知人に教えてもらった改善法で、腰痛改善の理学療法では世界的に知られた方法らしい。
 簡単な紹介本を買ってきて試してみたら、1回で驚くほどの効き目を感じた。だいたいそういう類のモノで「効いた」という経験などほとんどないので、半信半疑でもあったのだ。数日試すとさらに良くなり、医院への通院も不要になった。
 ま、さすがに一気に改善すると言うことはなく、毎日続けて少しずつ改善を実感していた。約1ヶ月続けた最近、ほとんど以前の腰痛は治ってしまった。改善するのに何年かかるだろう?と感じていただけに本当に驚くほどなのである。
 おかげさまで、以前なら悪化したりぶり返したりするために控えていた作業や体勢も気にせずにいられるようになった。(バッティングセンターでの打ち込みもしかりである^^)

猛暑の中の面会  2010.8.13

 毎週木曜の午後に母の面会に行っているのだが、とりあえずネットで天気予報を見ていく。まずここ世田谷の天気と温度、そして木曜日の狭山の天気状況のチェックである。まず雨か晴れかであるが、夏はやはり温度チェックである。面会に行って連れ出す以外に野外に散歩に行くことなどないから。  で、週間予報でチェックするのだが、3~4日前までだと、狭山も晴れても35度だったりすることが多い。でも日が接近してくると予想気温が下がり、当日はせいぜい31度程度の予想になっていることが多い。まぁそもそも狭山と言っても広い。「狭山市」の予報を見るのだが、中心市街地みたいなところも山もあるので、どこの予報なんだ?と思いながら見ている。たいていは市庁があるあたりなのだろうけど。

 4月16日に入所(入院)したときは、ナースステーションの真ん前の部屋だった。緊急を要する状態ではないけど、まだどういう様子なのかわからない新入所者だからだろう。基本的に重傷者ほどナースステーションに近い部屋に居る。  1ヶ月が過ぎた頃だったか、部屋に行ったらベッドには別のおじさんが居て、部屋が変わったことを知った。ナースステーションから少し遠い部屋に移ったのだった。そして先週からまたさらに遠い部屋に移った。3人部屋→3人部屋→4人部屋と変わったのだった。要するに状態が安定していて、より看護が必要な人をナースステーションの近くに寝かせているのである。  今度の4人部屋は広くて今までと違って他の患者たちのベッドや姿を見ることができる体勢で寝ていた。今までで一番生活感も人の気配も常に感じる雰囲気である。通常なら部屋をあちこち移されて混乱して落ち着かないはずなのだけど、やはりもうそういう部分はかなり鈍感になっているらしい。特に難しい顔もせずに冗談を言えば「フォッフォ」と笑っている。今までの部屋と違って地デジアンテナがつながっている部屋なので、テレビもクリアに見えるようになった。

 先月あたりから、エレベーターのそばのイスにいつも座っているおばあさんが居るのに気づいた。私服を着ているし話もしっかりしているし、見舞客かな?と思ったほどであったが、やはり入院患者なのである。毎回来るこちらの顔もちゃんと覚えているし、時々母の元へ行って話しかけたり、しおれてきた花のために花瓶に水を入れたりしてくれているようである。看護婦さんに「しっかりしてるんですね」と聞くと「いえ、ボケてるんですよ^^;」という。会話してもすべてつじつまも合うし、どこが?と思うのだが、時々花瓶に水ではなくお湯を入れたりしているそうだ。それで時々異常に枯れていることがあったのか^^;;  そのおばあちゃん、そのほかになにか困った行動でもあるのかどうかは知らないが、やはり部屋はナースステーションから一番遠いところであった。歩き回って疲れるとベッドで休んでいるが、顔を上げると廊下が一望できる部屋で、帰りのエレベーターの前に立っているときにこちらの姿に気づくと「またね」と手を振ってくれる。

 ここ3週ばかりは野外は暑すぎるし、時々微熱も出すようなので、散歩も野外は病院の玄関前くらいにして、あとは見晴らしの良い5階の食堂ホールへ行ったりしている。看護婦さんによると夜は比較的言葉もよく出るそうで、「(ベッド脇の)テレビ見ながらこないだもすごいこと言ってたわ」なんて言っていた。何を言っていたんだ?  普段面会に行ったときは、自分から言葉を発することは先ずないが、それなりに短くしゃべり返すくらいはする。散歩に出かけるときもベッドから車いすに乗り換えて、準備が整いこちらが「助さん格さん参りましょうか」というと「参りましょう」と応える^^。  最近は一通りの収穫も終わったからか、病院裏の畑の夫婦の姿を見ない。散歩で通ることもないからなおさら会わない。また散歩に出て声を交わしたい今日この頃なのだった。

病院へ面会に行って参りますた  2010.310.7

 先日、母上の入所している介護病院から電話があった。担当医(日替わり制)の話によると、「事後承諾になりますが、一昨日の10月2日に和歌子様が…」とまで聞いて、瞬間に「何?死んだのか?」と思った。以前雑記帳にも同じようなことを書いた。→ココ  結局そういうことではなく「一昨日の10月2日に嘔吐されまして、原因はまだ不明なのですが、様子を見て食事をストップして点滴にかえました。昨日は容態も安定しましたので、食事を再開しましたが、用心のために量は半分としております。」ということだった。どうも医者の報告は最初の言い方が紛らわしい。熱も高めだと言うことで、注意して様子見と言うことだった。意識の方は普通だという。といっても現状の母上ではいつもの通りという「普通」だが。

 そして本日、また病院から電話があり、また熱があり食事はストップして点滴をしているので、病室を一時的に変えているという話であった。毎週面会に行っているのをよく知っているので、部屋を迷わないように連絡してくれているのだ。ま、いなかったら同じ階にいるのはわかっているので探すか聞くまでだが。容態に注意の患者や点滴などお世話の頻度が高い人ほどナースステーションに近い部屋に移動するのである。「移動すると言っても瞬間ですので、また元の奥の部屋にお移りになると思いますが」って、狭山方面では「しばらく」を「瞬間」って言うんかぃ^^;;

 本日、面会に行ってきたのだが、驚いた。受付で電話をくれた人に話を聞き、食事をストップして今も点滴をしている事を聞いた。久々の散歩日和の天気だったので残念ではあった。で、驚いたのは、本人に会ってみると、今まで面会に行った中では一番意識がしっかりしているのである。  ま、点滴を打たれている状態(簡単に抜けないように足に点滴していた)なので、それなりに伏せってはいるのだが、受け答えや記憶が今までで一番敏捷なのである。先週までのようになかなか言葉が出なかったり、ぼんやりしたりという状態ではないのである。もしや「ろうそくの燃え尽きる前?」とまで思ったほどだった。そうではなさそうだけど。移った部屋に以前からいるおばあさんが、母が移ってから気にかけて話しかけたりしていてくれたらしく、今日はよくしゃべるので「よくなってよかったわねえ」とベッドへ来てはなしてくれた。話していてもつじつまの合わないところが多いので認知症の方ではあるみたいだが^^;

 こないだまで同じ部屋で顔なじみになったおばあさんとは別々の部屋になってしまった。なのでそちらの部屋に挨拶に行くと、母が具合が悪くなって点滴を打っていたこと、点滴の本数もよく知っていた。だいぶ状態が良さそうであると話すと「そう、よかったわねえ」と言ってくれ、毎週木曜に来るので今日面会にくるのをわかっていた。でも部屋が違うので会えないと思っていたようで喜んでくれた。そちらも含めて、今日は安心して帰途についたのであった。  陽気も良かったので、久々に駅まで歩いたのだが、木の実や花や空の様子など、すっかり秋のたたずまいの狭山なのだった。

介護は続けられたのか  2010.10.24

エッセイの別の項で

 事情を知っている他人からはよく言われるし、自分も第三者だったら「もう充分過ぎるほど介護をした」と言うのだが、最期まで看てあげられなかったという事と、病院へ入るときのタイミングが唐突だったので、やはりどこかしら介護を放り投げたという感情的印象はぬぐいきれないのである。これは理屈ではそうではないとわかっていても、そう感じてしまうモノはどうしようもないのである。でも状況的にこれ以外に方法はなかったのだから、これはこれで受け入れるしかないのである。

と書いた。これは結構誤解がする人は多いと思うので追記を。

 「最期まで看てあげられなかった」というのは、今年の春先の状況になるまで「施設に預ける」という選択肢が頭に無かったからもある。いきなり状態が変化してどうにもならなくなったのだけど、それ以前の状態だと家で看ることはできて、介護が終わるのは母が亡くなるときだろうと思っていたのである。穏やかに逝ってほしかったが、いつまでも長生きしてほしいとは思っていなかった。穏やかなうちに早く逝って、もう介護からも解放されたかったのである。介護経験のある人なら痛いほどよく判る心情だと思う。解放もされたいし、いつ自分が介護虐待・殺人を犯してもおかしくないと痛いほどわかってくるから。
 最愛の配偶者が重体になり「せめて命だけでも」と思っていて助かって、その以後は大変な看護の日々になり「あのときに逝ってもらった方が良かった」と後から思う人も少なくはないという。これは優しい・親孝行とかどうとかの範疇で測る事ではない。

 施設に預けることを想定していなかったのは確かだが、せめて最期は家で逝かせてあげたいという思いもあった。これは今でも思っているが、施設に預けるのが忍びないと思ったのだ。いま介護病院で看護婦さんやヘルパーさんに優しくお世話してもらっている方が、そのまま家でかなり無理しながら介護してもらうよりも、母にとって幸せなのかもしれない。入所して半年だが、かなり病院になれている感じでその点は安心している。本人はどこにいるのか認識できていないのではないかと思う。病室だということはわかるかもしれないが、なぜ病院にいるのかはわからないだろうし、そもそも疑問というものを持っていないのかどうかはわからない。夢の中のようで現実感がないかもしれない。もう最期まで家に帰ることはないのだから、病院にいる方がそのまま家で介護されているより幸せなのなら、その方が良いと思っている。

 では、あのまま施設(介護病院)に入所させずに介護が続けられたか?というと、これは絶対に不可能だったのは間違いない。かなり自分も精神的にも肉体的にも来ていたし、いつ介護虐待や殺人に発展してもおかしくないのである。そこまでいかなくても、穏やかに接することができなくなってきていた。だから、施設に入れたこと自体はそうするより無かったのである。ただ雑記にもブログにも何度も書いたけど、病院が受け入れてくれることが決まり、予想された入所までの期間が数ヶ月以内だったので、それなら「なんとかがんばって最後の家での生活を世話してあげることはできる」と思っていた。それがいきなり二日後だったので、いきなりはしごを外された感じで、感情的には「介護を放り投げた」と同じ印象を抱えてしまったのである。

 でも、それはそれで助かったのも事実。予想通り数ヶ月先だったら、やっぱりもたなかったかもしれない。数ヶ月は家で過ごさせてあげられると思っていたのが数日になってしまったので可哀想と思う気持ちも強かったが、母にしてみたら期間は関係なかったのかもしれない。
 いま、毎週1回面会に行っているが、病室ではかなり穏やかに過ごしている。ネガティブ的な感情を持っていないように見える。こちらも精神的に余裕ができたから、介護していた最後の日々の様にきつく接することはもちろんなく、なるべく穏やかに過ごしてほしいと思っている。もしそのまま家で逝っていたら、そう思ってあげられる心情を持たずに終わっただろうから、やはり今の状態がベストなのだったのだとわかる。怒濤の介護の日々のまま終わったら、最悪、憎しみに近い気持ちや罪悪感を持って終わったのは予想できる。

 そういえば、母の状態が急変する直前、カウンセリングの類(コーチングだったかな?)を勉強している人からアドバイスを受けた。(こちらからアドバイスを求めたのではない)
 現在のこちらの状況を分析して、考えられる僕の心情の状態やこのようにしたいのでは?という事などを並べてきた。介護については経験も知識もない人だったので、そんな単純に箇条書きに分析されても困る内容であった。そもそも立ち入りすぎという感もあった。自分がアドバイスなどをして相手の状況が良くなることで、それをカウンセラーとしての自分がやったという事に酔いたいのではないか、というのが感じられ、それを遠回しに言った。(メールだったので書いた)
 やはり怒った。そして「母には穏やかなうちに早く逝ってほしいと思っている」という前述の事を書いたら、「そんな事を言うなら(経済的に余裕があるようなら)、財力を使って有料老人ホームでも入れたらどうですか」と書いてきた。たとえ相手が裕福な家庭であっても「財力」という言葉を使う神経を疑った。
 「逝ってほしい」という内容に対しても誤解も甚だしいが、やはり他人の状況に立ち入りすぎである。介護の経験があって好意的にアドバイスをくれるならありがたいが、知らない(理解していない)状況に対して何かを命令調にアドバイスするのにも驚いた。
 心療内科や精神科の先生には、先生も若い頃苦しんだんだろうな、という感じの人が多い。やはり自分も経験して痛みも知らない先生では、患者を理解することができないだろうし、自分が苦しんだからこそ、同じような人の役に立ちたいとその道を選んだ先生も多いのだろうか。悩んだことなんかありませ~~ん^^ なんて心療内科の先生なんて考え物だもんなぁ^^;;

今週は好調?  2010.11.27

 一昨日、介護病院に入っている母上の面会に行ってきました。ちょっと寝かかっていたけど、来たことに気づくと「何しに来たの?」と笑っている^^;  冗談でからかわれているのではなく、認知症がかなり進んでいるから、普通の会話はあまり成立していないのである。今いるところが家ではないと言うことをわかっているのかいないのか、こちらにはわからない。でも、居心地は悪くはないところだと認識はしているのだろう。  「来た」という言葉が出ると言うことは、もう普段は一緒に住んでいないということがわかっているからだと思うが、でもそう単純に筋が通って理解できるものでもない(こちらから見て)。そのあたりは本人になってみないとわからないので、いつも不思議に感じるところ。

帰り際、 「また来週来るからね」 と言うと 「何しに来るんだい?」
と。

う~む、結構好調なようだ^^;;

キヅカおばあちゃん  2011.10.9

 昨年春から母上は狭山の介護病院(狭山博愛病院)に入所している。入所するとまずナースステーションの前の部屋になる。状態が安定したりもっと状態の悪い人がいる場合は、その人の方がよりナースステーションに近い部屋になる。
 母上は、1ヶ月(2ヶ月だったかな?)ほどナースステーションの前の部屋にいて、その後少し遠い部屋に移った。そこからさらに遠い部屋にも移って現在に至っている。一度高熱を出して嘔吐した時に、頻繁に点滴などをするために少し近い部屋に一時的に移ったことがあるくらいである。

 今の部屋は4人部屋で、母上ともうひとりのおばあさん以外が何人か入れ替わっている。時々おじいさんが入ることもある。ほぼ寝たきりなので男女混合でもさほど問題はないのである。
 もう一人のおばあさんは木塚さんという。母よりもずっとやせ細っているのでうちよりも状態が悪いのだと思っていた。母は飲食は一切自分ではできず、すべてに介助が必要である。いつも面会に行くのは木曜日の3~4時近辺なのだが、3時になるとおやつが出る。トロミ状のゼリーかババロア的なものがほとんどである。ちょうど面会の時だったら食べさせることもあるが、いつもは看護師さんやヘルパーさんが食べさせていて、うまく口が開けられないときは注射器状の注入器で口の中に入れる。木塚さんもそんな感じかと思っていたら、驚いたことに電動ベッドを起こして背もたれ状になったベッドでしっかりした姿勢で自分で食べていた。もっと驚いたのはその電動ベッドを自分で操作しているのである。あの電動ベッドは慣れないと若い人でもどう動かすのか迷うのだが、自分で好きな体勢にしているのである。

 すっかり木塚さんとも顔なじみになり、挨拶も交わすようになった。なんともう90歳だという。実際はそのときは89歳だった。もう90になるということだったのだろう。木塚さんは確かに寝たきりなのだが、頭はかなりハッキリしているし寝ながらベッドを操作したりテレビをつけたり、飲食をすることはそれほど支障がない。飲食に支障が無い人は他の部屋にも何人もいるけど、一番驚くのは病院暮らしなのにボケていないと言うことなのだ。もちろんそれなりの物忘れなどはあるが、それはボケているのではなく年相応というものだ。普通高齢になって入院すると、単調な空間、景色、生活でボケてくるのが普通なのだが、会話も記憶もしっかりしている。うちの母上が点滴をして部屋も一時的に移ったときも、点滴の本数や何日移っていたかもよく知っていた。毎日手帳に日記をつけているのも良いのだろう。

 面会は毎週木曜日、連れ合いの仕事が休みの日に行っている。途中で花を買って、連れ合いが洗面所で花瓶に飾ってベッド横に置くのである。木塚さんも花がとても好きなようで(後でわかったことだが、昔はお花の免状をもらったとか)、いつもうちのベッドに置く前にまず木塚さんにお見せしていた。
 そのうちに木塚さんに花がないのは寂しいだろうと、小ぶりの花瓶に小さな花を用意するようになった。小ぶりにしたのは木塚さんが気を遣う人であることと、木塚さんの家族には余計なお世話かも知れないと思ったからである。でも木塚さんの家族が面会に来たときに木塚おばあちゃんが、いつもお花をもらっていることを話したら、とても感謝していたというので安心した。「お礼に何か一筆書いてくれと言ったんだけど」とも言っていた^^;
 毎週木曜日に来ることはよくわかっていて楽しみにしてくれている。家族が「お花を持ってこようか」と言うと「伊藤さんが持ってきてくれるからいい」と断ったらしい^^;; うちに対する気遣いでもある。
 いつも新しい花を用意して連れ合いが木塚さんに見せてから置くのだが「まぁ~、いつも有難うございます。これはポピーね、これは…」と連れ合いも名前を知らない花の名を教えてくれたりする。

 帰るとき「また来週きますね」と言うと「はい、どうぞお気をつけて」と言って手を振る。部屋の出入り口は木塚さんのベッドの対角線方向にあり、ベッドも向こうを向いているので、頭をめいっぱい出入り口に向けて両手をヒラヒラと振って見送ってくれる。母上の面会日は木塚さんと会うのも楽しみになっている。

 母上と同じく、木塚さんも病院が終の棲家であろう。木塚さんが先に亡くなるのも寂しいが、うちが先に亡くなって面会に行かなくなると木塚さんも寂しいだろうな、とある日の帰り道に連れ合いと話したのだった。


木塚さんは2012年1月7日(土)に永眠されました。ご冥福をお祈り申し上げます。

気圧病  2011.2.21

 気圧病なるものを意識したのは、母上の介護を始めて数年してからだったろうか。気圧ではなく晴れや曇り、雨などの天候で自分の気持ちが晴れたり曇ったりする感じになるのは誰でも経験はあると思う。自分もその程度にしか感じていなかった。でも天候ではなく「気圧」を意識しだしたのは介護している母上の認知症が進んできてからだった。
 どうも天気の「上り坂」や「下り坂」と、母の認知症の症状が連動しているようだと気づいたからだった。自分はいくつか腕時計を持っていて、そのひとつに気圧を測れる機能がついている。気圧の数値と、気圧が上昇気味か下降気味かが分かるのである。そしてやはり下り坂の時に認知症の症状が悪くなる事を確認した。
 もちろんほとんどその通りに分かるわけではない。認知症の症状がどのように出るかは、いろんな原因が複雑に絡み合っていて、単純に気圧だけに左右されるわけではない。でも他の因子がそれほど変わらないときは、かなり気圧の変化で予想出来ることが多かったのである。

 先に書いたように、自分も天候で気分が変わることがあったのだけど、そうやって気圧を意識することが多くなってくると、自分もそれにつられて「気圧病」みたいになってしまうことが多くなってきた。元々気圧に影響されやすかったのかも知れないが、気圧が下がり気味だと「今日は症状が悪くなるなぁ」と気分が滅入ってきて、そんな事を繰り返してきたからなのだろう。なにしろ認知症の症状が悪くなったときでも、ヘルパーさんが来ている短時間以外は自分が相手をしなければならず、逃げることは出来ないから滅入ってくるのである。介護を終えた今なら、他人のそういう症状の相手をすることはさほど苦にはならない。もちろん程度によるが。

 昨年から母は介護病院に入り、そんな毎日の気圧の変化を気にすることもなくなった。天気が下り坂でも気が滅入ることもなくなった。晴れの方が好きだけど、介護中のように毎日の母の認知症の程度を気にする必要がなくなったから、雨だと傘や着るモノが面倒くさい程度である。

 毎週母の面会に連れ合いと行っているが、最初の頃、季節の変化や気圧の変わりようで「今日はどうだろ?」と予想することが多かった。病院に入ってからの母にはその予想がことごとく外れた。もう認知症も重度になっているし、ネガティブな感情がなくなってしまった感じなので、それ以上悪くなるということも無いのも一因かも。せいぜい寝込んでて呼びかけても起きないか、ぼーっとして返事もほとんどしない状態が悪い状態で、そうでないときは話しかけると程々に笑っている。びっくりするくらいに反応が良く、言葉が良く出ることもある。それもこれもほとんど家にいたときのような気圧の変化に影響されている感じではない。と言うより、良く熱を出すのだが、認知症が進んで寝たきりになると、発熱などの症状が何が原因なのかがハッキリしないことが多く、気圧の影響もなんかしらあるとしても、家にいたときよりもはるかに微々たる要因になっているのだろう。
 そんなこんなで、自分自身もいつのまにか気圧病からは解放されたのかな、と思うのだった。花粉症なので春の陽気には影響されるけど。

母の介護生活  2011.8.29

 母上が介護病院へ入所して1年半近くが過ぎた。今年はじめくらいまでは車イスに乗せて院内や近所に散歩に連れ出すことも出来たが、もう身体の曲げ伸ばしがかなりきつくなっているようで、車イスに乗せると険しい表情になってしまう。ベッドに戻すと楽そうにしている。なのでベッドから連れ出すのはやめることにした。少しは刺激になるかもというのもこちらの勝手な意識のような気がするのである。
 言葉もほとんど出なくなった。やはり今年はじめくらいまではつじつまは合わなくてもそれなりの言葉は出ていたが、最近はキョトンとしているだけで、ほとんど返事も返って来ないことが多い。それでも絞り出すように返事をすることや、日によっては驚くほどよく言葉が出てくることもある。

 昨年はじめ、状態が急変して在宅介護が不可能な状態になり、施設を探し、しばらく待つだろうと思っていたらいきなり入所OKになったので戸惑って、なんだか介護放棄したような心境になった、というのを何度か書いた。もうそういう心情はなくなってきたし、病院に移して良かったと本当に思える。あのまま家で亡くなっていたら「やっと逝ってくれた」と思っただろう。それくらい精神的には余裕がなかった。介護からは解放されて毎週面会に行っているが、穏やかに過ごしている様なのでそれで本当に良かったと思う。
 今はこちらを息子だとはわかっていないかもしれない。誰かよく知っている顔か、亡くなった父だと思っているフシもある。それで本人が安心していられるならそれで良いと思う。

 在宅介護で状態が急変したのは昨年の1~2月。それまでは何とか一人で介護を続けてこられたがそれが不可能になり、結婚前の連れ合いに急遽引っ越してきてもらった。ヨメが来ることを認識できてから一緒に住もうと思っていたが、そうも言っていられなくなったのだ。
 連れ合いは近所でエステサロンをやっているため日中はいないが、夜はなるべく早く帰って、母に食事を食べさせてあげるようにしてくれていた。
 「お母さん」と呼ぶと混乱するので「和歌子さん」と連れ合いは呼んでいたが、「和歌子さ~ん、お食事ですよ~」と呼びかけると「は~い。うれしいね~」などと返事をしていた。朝も「和歌子さ~ん、おはようございます~」と呼びかけると「はい、おはよ~ございます」と機嫌良く返事をしていた。
 本来ヘルパーさん等の他人が来ることもいやがっていた母だが、もうそのときはそういう否定的な感情が消えて、なぜ他人がここにいて、そういう風に呼んだり世話をするのか、という疑問を感じる意識もなかったのだと思う。自分にとって良い関係の人がいて、自分によくしてくれる事を感じてそれを受け入れていたように見えた。状態急変前のまだ少しは自分でやれていた頃は認知症はかなり進んでいたものの、自分がいろいろなことを自由にやれない身体の状態であることを嘆く感情もあったが、急変後は自分が他人の世話を受けないと何も出来ない状態であるとか、世話になっているという受け身の感情もなかったのではないかと今振り返って思う。在宅介護は9年弱に及んだが、連れ合いもお世話をしてくれていたその頃が、介護生活になってからの母にとって精神的には一番幸せな時期だったのかもしれない。

 連れ合いは元々一緒に介護をするつもりだったのだけど、そういうわけで母の自宅での最後の1ヶ月間だけお世話に加わってくれた。本人は自分はほとんど何も出来なかったと思っているようだけど、そう考えると母上が自宅での最後の1ヶ月を幸せに過ごす力になってくれたわけで、おそらく自分が一人での介護中には、母に感じさせてあげられなかった幸福感を与えてくれたのではないかと思うのだった。

ボケたら幸せか?  2011.10.9

 母上が介護病院に入って1年半ほどになる。半年ほどはそこそこ言葉も返ってきたけどどんどんそれもなくなってきて、今では何回か話しかけると時々たどたどしい返事が返ってくるくらいになった。返事と言っても的確な返事ではない。在宅の時点で認知症はかなり進んでいたので、今はこちらが誰かわかってるかどうかも怪しい。
 同室(4人部屋)には90歳のおばあちゃんもいて、この方は(寝たきりだけど)かなり頭がハッキリしている。半年前のこちらとのやりとりもちゃんと覚えているほどである。日にちや曜日がわからなくなることがあるというので「もう最近はボケてきちゃって」なんて言うけど、その程度がわからなくなるのはこちらにもあることで、どう見てもボケはみられない。

 ボケたら周りは大変だが本人は幸せだ、とは昔から良く言われる。本当にそうなのだろうか?実はボケてしまっても時々正気に返ることがあり、本人はそのときに酷く精神的に苦しむ人もいるらしい。そのような事をボケた母を持った医者が気づいた、というのを読んだことがある。正気に返ったときにどう苦しむのかはいろんなケースがあると思う。正気に返ったときはボケた時の事は覚えていない事もあるらしい。突然正気に返って自分がどこにいてどうなっているのか驚いたり嘆いたりすることもあるのだろう。だから一概にボケたら幸せなんて言えないのである。

 自分は母上を介護し始めるまで、そういうことはあまり考えなかった。関わっている人たちは大変だろうな、と完全に他人事だった。無責任に他人事ではなくそれなりに同情はしても、自分が関わらない実感の伴わない事なので結局は他人事の感覚だったのは間違いない。
 母上を介護し始めて認知症が始まりそれがどんどん進み、すがる思いでその方面の事を勉強した。でもそのほとんどは教科書的なパターンであってこちらが困っている状況に参考になるものは滅多になかった。一般的には書いてある事などが当てはまっても、24時間一年中関わる状況を感情的に理解させてくれるモノは少ない。そんな中で三好春樹氏や和田行男氏らの著書や実践からは多くの的確で実際的な知識や助けをもらった。

 昨年母上を介護病院へ入れて、世間的には介護が終了したという印象を持たれる。もちろんおおかたはその通りなのだが、在宅介護中に非常に真摯に対応して助けてくれたケアマネジャーはそれまでの労をねぎらってくれて「自宅での介護は終わりましたが、まだまだ色々な事があると思います。」とメールをくれた。直接的な「介護」という負担はなくなったけど、母が亡くなったわけではないので親子のつきあいは続いているのである。本人は認識してるかどうかわからないけど。

 毎週連れ合いと病院へ面会に行くのだが、ほとんど返事もしなくなった母をみると、どういう感覚なのかなぁ?といつも思う。もっといろいろ言葉が返ってきたときでも病院に居ることに満足している感じだった。おそらく病院にいるという事がわかっていないのかもしれなかったし、なぜ自分が病院にいるのかという事を考えるという事もなかっただろう。どんな専門家でも「こう感じているようです」というのはわからないだろうと思う。本人に聞いてもわからないだろうし、うっかりそんな感情が正気に戻って嘆かれたらたらまないと思ったこともあるし。
 病院では同室のその90歳のおばあちゃんが一番頭がハッキリしているのではないかと思う。まったく意識が混沌としている人やいろんなタイプの認知症の人たちがいる。それぞれがそれぞれの世界で生きている。自分もそれなりに認知症について学んだので、それなりにその人たちと会話をすることもある。もっと早く学べていたら在宅介護時に母上にもっと上手く接することが出来たか、というとそれは怪しい。他人に接するのと逃げ場のない在宅介護でのこちらの感情は全く違うから心の余裕の問題がある。わかっていても出来ないという事が多くある。
 だから今は「あのときはこう接すれば良かった」と振り返る事があるが、それはそう思える心の余裕があるからなのだ。介護中も介護を経験した旧友から「もっとこうしてあげれば良かったと思うよ(だからこうしてあげた方がいいよ)」と言われたがそんな事はわかっているのである。「それはお前は介護が終わって心の余裕があるからだ」と思った。
 今は心の余裕があるから冷静に振り返ることが出来る。でも不思議に「こうしてあげれば良かった」と思うことはあっても、それに伴う罪悪感のようなものはほとんどない。あのときはあれ以上どうしようもなかったとわかっているし、自分の出来ることは精一杯やったと自分の中でわかっているからだろう。

 あのまま在宅で介護されるよりも病院に入った方が母上にとっては良かったと思える。実質的にプロに任せるより他に選択肢はなかったし、病院で良いお世話をしてもらって穏やかに過ごせていると感じる。それでも面会の度に「どう感じているのかなぁ」と思う。こう書くと親思いの感想と思われそうだが、純粋に好奇心の部分もあるのである。意識というモノは不思議だなと。自分もそうなってみないとどう感じているかは絶対にわからないと思うし、かといってそうなったらそう考える力というか意識はないのだろうし。
 こちらや部屋をボーッと見ている時などは「ここはどこなの?」と感じているようにも見える。ずっと夢うつつの状態なのではないかとも思う。接するこちらもいつも不思議な感覚だったりするのである。

気圧病はいずこ  201.11.15

 前に気圧病について書いたことがある。介護していた母の認知症が気圧に連動しているケースが多いので自分も気圧に敏感になり、認知症の症状が悪く出る傾向のある「下り坂」気圧を気にするようになったのだった。なので、純粋に気圧で心身が不調になるというよりも、精神的な部分の方が大きかったのだと自覚している。
 母が介護病院へ入所し、在宅介護が終わった後も気圧で心身の調子が影響されるのはその後も続いていた。

 最近ずっとそのことについては意識になかったのだが、先日腕時計の気圧計が下り坂だったときに「気圧病」の事を思い出した。
そういえばこのところ気圧病を感じなくなっていたな、と。介護が終わって1年半ほどだけど、9年ほど介護を続けていたので、最初の頃はそう簡単には気圧病が抜けなかったのだろう。介護中は天気予報で天気が下り坂なのを知ると、気圧計を見ながら憂鬱になっていた。必ずしも気圧と認知症の症状が連動していたわけではないけど、ある程度(2~3割でも)の連動傾向が見られたらかなり影響していると感じるものである。
それを気にしなくて良くなって、ようやくいつの間にか気圧病とは縁が切れたのだな、と実感したのだった。

どこかお悪いの?  2012.4.27

 現在、というか終の棲家として母上は介護病院にいる。患者のほとんどは寝たきり+認知症である。フロア内は自由に歩いている人もいて、一見そうは見えないが、ちょっと話すとすぐに認知症だとわかる人も多い。そんなひとりのおばあちゃん。病室は違うが顔なじみである。もっともおばあちゃんにとってはこちらはいつも初対面である。おばあちゃんは食事、排泄、更衣など日常の行動は全く一人でできる。トイレに行ってもちゃんと自分の部屋に戻ってきてベッドに座る。
 母上の面会に行き、病室に向かうときにそのおばあちゃんの部屋の前を通る。そのときに目が合うことが多い。そこでお互いに軽く会釈する。おばあちゃんはいつも笑い顔である。時々そのおばあちゃんに声をかけるといつも言われる事がある。

 「(あなたこんな所にいて)どこかお悪いの?」
^^;;;

 母が入院している事を話すと今度は

 「お母さん、ここに連れてくるのは嫌がらなかった??」
^^;;

 こんな言葉を聞くと、おばあちゃん本人はどう思ってるんだ?と普通なら考えてしまう。認知症に長くつきあった自分も「???」である。認知症の人々のフィールドワーク(というのか?)をした人の分析でとても納得のいく人の著書がいくつかある。それによると、どうも認知症の人は自分独自の世界を作り上げているらしい。置かれた状況で全く新しい自分の日常の世界を作り上げていたりするのである。今までは過去の記憶に帰ってしまうなどと言われていたが、それだけではなく全く違う新しい生活世界を構築しているのこともあるのである。
 そういう点から考えると、先のおばあちゃんはそこが病院だとわかっているらしい。ただ面白いことに自分は患者ではないのだろう。自分も病院に住んでいるのだから患者だとわかっているだろうと思うのは普通の考えで、認知症だとそういう不思議な位置に自分を置くことができるのである。部屋や廊下のタイルの色が変わったところからは別の町で、全く違う生活環境の場であると認識している事も多いのである。
 なので推測するに、そのおばあちゃんは自分のいるところが病院であることはわかっている。3人部屋にいて残りの二人は患者だとわかっているのだが、どうも自分は患者ではないのである。一時期母がそのおばあちゃんの部屋に居たとき、自分のベッドから起き出して「おばあちゃん大丈夫?」と隣のベッドの母にお見舞いに来てくれた^^;
 その頃はまだ多少はしゃべれた母上はその言葉を聞いて「おばあちゃんだって」と、自分がおばあちゃん呼ばわりされたことに納得がいっていなかった。

 在宅で介護していたら、こういうのは家族はとても大変である。施設に入っていても、「あんなにしっかりしていた母(父)がそんな風になってしまって」と嘆く人だって多い。自分も母上がどんどん認知症が進んでいって、通常の生活が困難になり、介護病院に入ってどんどん言葉も出なくなるのを見ているとやはり寂しい。でもその反面、認知症の人たちの世界はどんなモノなのだろう?といつも純粋に好奇心として不思議に思っている。その人たちは自分が構築した世界で安定して生きていたりもするのである。

ヘルパー鈴木さん  2012.7.4

 一昨年まで9年弱、母上を在宅介護していたが、最初から最後まで通ってくれていた鈴木さんというヘルパーさんがいる。とても明るくておおざっぱなおおらかさを感じさせる方で、母上は基本的にヘルパーさんが来ることを嫌がっていたが、この鈴木さんは好きであった。
 もう在宅介護が不可能な状態になって介護病院へ入れることになったときは、鈴木さんも悲しんでくれた。かわいそうと言って。突然の急変でもあったし。

 今は毎週連れ合いと共に母の面会に行っているが、昨年だったか久しぶりに地元の駅前で鈴木さんに遭遇した。久々に話をした後、母上の面会に行くことをわかっていた鈴木さんは「行ってらっしゃい」とは言わなかった。「じゃぁ、お願いしますね」と言った。とても鈴木さんらしいと思ったのだった。^^

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